Chapter Ⅵ 前編
LINEに既読がつかなくなり、約束の日から数日が過ぎると、詠は痺れを切らし、彼の住まうアパートを訪れた。
アパートの中庭には面長の琥珀飴のような日差しを浴びる枝垂れ柳。
枝葉の一つ一つが岩の彫刻を彷彿とさせるほど微動だにせず、その頑なさが風の侵入を拒んでいるかのようだ。
回廊もまた、いつも以上に静まり返り、この場だけが時間の流れから切り離され、孤立しているようだった。
彼と出会ってからの一週間弱。
それがまるで夢幻であったかのように。
彼女の背を押していたのは何も寂しさだけではない。
その寂しさすらも覆ってしまうほどの、押し潰されそうな恐怖だった。
この場所の雰囲気は、恐怖を和らげるばかりか、より一層強く、彼女の鼓動を急き立て、汗の滲む肌は次第に感覚を凍り付かせた。
ようやくという思いでドアの前に到着すると、詠はきっと無駄と知りながらもインターホンを押し込んだ。
「…………」
機械的な音にも虚しさはある。
中身の空虚さをこれでもかと突きつけてくる。
それこそ、夢の中にいるようだった。
静寂が長引く。
今日は虫の声も聴こえない。
ふらりと、回廊の手摺りに寄りかかった。
その時だった。
たん、たん、たん、と階段のある方から足音がした。
詠は、はっと思い出す。
一階の住人は彼だけであるが、そういえば、二階には彼曰く変わり者が何人か住んでいるという話だった。
一瞬隠れようかと案ずるが、しかし何も後ろめたい事をその身に隠しているわけでもない。
好奇心から詠はその場に踏み止まる事にした。
やがて、ゆっくりと二階の住人が姿を現した。
枝垂れ柳の枝越しに窺えるその姿は……。
それは、詠にとって見知った顔だった。
「え、暁月…さん?」
暁月冥──どこか人間離れした美しさと冷ややかな雰囲気を纏う、高校のクラスメイト。
直接話した回数こそ少ないが、それでも、目を惹かれずにはいられない異質な存在感を放っている。
そして詠が彼女の名を口にした瞬間、中庭の天辺から風が吹き込まれ、枝垂れ柳の梢を揺らした。
暁月冥は髪を手で押さえ、迫り来る熱風を除けるように、ゆるりと彼女を振り向く。
詠の姿を認めた途端、暁月冥は微かに目を見開いた。
きょとんとした表情も浮かべているのだろうが、その色は淡く、はっきりと見て取ることはできない。
「あー、えっ…と、そう、晴川さん、だったよね?」
疑問形かどうかも判然としづらい感情の平坦さも、透き通った声質も相変わらず健在のようだ。
奇しくも二週間ほど前と同じ反応を交わし合う二人。
詠は驚きから。暁月冥は不慣れから。
暁月冥は幹の親戚にあたる。
それは以前彼の口から直接聞かされていた事なので、仮に彼女がこの二階に住んでいたとしても別段驚くような事でもないのだが、予想していなかったぶん、意表を突かれた形だった。
「もしかして、幹くんに用だった?」
「─────幹、くん…っ」
別角度からの衝撃に変な声が飛び出してしまう詠。
その呼び方から察するに、浅からぬ関係が頭を過ぎる。
何やら彼女の中では今、暁月冥に対する対抗心のような仄暗い熱が首を擡げ始めた。
「……ま、まあ、そ、そうですけど?」
「? あの人なら今頃世界を飛び回ってるだろうから、会えないと思う」
同じ台詞をついこの間何処かで聞いたような気がしたが、詠の心はそれどころではなかった。
「せ、世界を飛び回ってるって、えっ?」
斜め上の解答に詠は思わず声を上擦らせた。
「うん、そうだけど。聞いてない?」
「初耳です!」
「そうなんだ。でもまあ、そういうことだから。残念だけど、半年後とかに日を改めたら、その時には会えるんじゃないかな」
「…………」
平然とした顔で半年後とか宣う暁月冥の静かな豪胆さに、詠は表情筋が引き攣りそうになる。
日を改めるとは、それほど気が遠い意味だっただろうか。
奇妙な空気感が彼女たちを取り巻く。
これは詠自身さえ自覚できていない事だが。暁月冥との会話が進むにつれて、当初彼女の心を支配していた、現実が霧散してしまうような心許ない恐怖も、すっかり薄れていた。
暁月冥がもたらしてくれた情報が、幹の存在を裏付けてくれたのも、一因としてあるだろう。
「暁月さんは、幹さんが今なにをしているのか、知ってるんですか?」
「さあ。私も詳しくは知らない。終活の手伝いで飛び回る羽目になったとしか聞いてないし。こっちとしてはほんといい迷惑。他にやる事がないからってさ、私にここの蔵書の管理を押し付けてきたんだよ?」
「そう、なんだ……」
世界を飛び回らなければならないほどの“手伝い”だという。安易にそう説明されたところで、画用紙一枚分の想像にも及ばず、あくまで彼の友人その一に過ぎない自分が出られる幕でもなかったらしい。
醜い苛立ちに蓋をするよう、口元は仄かな笑みを繕っていた。
そうやって、詠がひとり意気消沈しているところを、暁月冥は何を気負うでもなく、このような提案を持ち出した。
「ああ、そうだ。なが──じゃなくって、晴川さんって確か図書委員だったよね? だったら、幹くんが帰ってくるまでのしばらく、手伝ってくれない?」
「え? え…っと、ごめんなさい。
なんの話でしたっけ?」
「……さっき言ったばかりだと思うんだけどな。
だから、ここの蔵書の管理」
思ってもみない頼み事に意表をつかれ、詠は暁月冥の顔を見つめた。
彼女の表情は相変わらず無の一点張りで、思惑など一向に読めたものではないが、しかしその瞳には不思議と、切実な色が湛えられているように詠の目には映った。
「あー……」
部屋の主が不在なのだ。
蔵書の管理というと、ようは部屋の掃除などといった日常的な雑用の話だろう。
まさかこれからさらに増えるわけでもあるまい。
が、やはり面倒事には変わらない。
あまり気の進む話でもない。
何よりモチベーションに欠けている。
「ダメかな?」
「…………っ」
──なんか、ずるい。
振ってしまえば一度に割れてしまうような危うさ、平坦な声に無表情という欠点を帳消しにして余るほどの魔的な儚さの前では、首を横に振る薄情な行動にはどうしても出られなかった。
詠はため息をつく。
「……はぁ、わかりました。手伝えばいいんでしょう?」
どうせ他にやる事もなし。
予定は殆ど白紙のままだ。
突然いなくなられた寂しさに鬱ぎ込んでしまうより、誰かの手伝いに没頭していた方が心持ちとしては楽だろう。
その寂しさを植え付けた当人の世話と解釈すると、非常にややこしい感情が芽を出すが。
それは気にしない方向で手を打とう。
「やった。晴川さんとは、仲直りしたいってずっと思ってたから」
「仲直り? 喧嘩なんてしてました、私たち?」
「……ううん。覚えてないなら、いいの」
「そう、ですか」
「あ、でも、一つ聞いていい?」
「なんですか?」
「晴川さんって、どうして敬語混じりなの?」
「どうしてって、昔からこうでしたけど」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、いい」
「……?」
詠は暁月冥の煮え切らない態度に首を傾げる。
すると、暁月冥が詠の傍へ近寄ろうと、半身をふわりと翻し、緩やかな足取りで歩き出した。
日向に照らされていた白雪めく肌を日陰が柔く包んでいき、地に影の艶を染み込ませる。
詠はそんな彼女の一挙一動を視線で追い、その足は無意識に一歩ずつ踏み出していた。
程なくして、二人の少女が向かい合った。
「私の事は、冥って呼んでほしいな」
「なら、はい。そう呼ばせてもらいます」
「…………」
「───ああもう。私の事も名前で呼んでいいから」
「うん。じゃあ、改めてよろしくね、詠」
暁月冥の淡々とした強引さに引き込まれ、いつのまにか、詠は目の前の浮世離れした少女と一緒に彼の蔵書の管理を引き受ける事になった。
そうして、夏休みも折り返しを過ぎた、ある昼下がり。
思いの外早めに訪れた彼との一時的な別れの代わりに、また一つ何の因果か、冥との遠回りな縁が生まれた。
