Chapter Ⅵ 前編
◇
大学の構内は甚く閑散としていた。
現在は夏季休暇の最中のため、門から玄関口までの開放された一本道がすっきりと掃けている。
街中にありながら平日の自然公園のように物静かで、部活動に励む高校などに比べるとうら寂しく、一層広々と感じられた。
「本当に、人がいないんですね」
「長期休暇中は大体こんなものさ。訪れる学生や教授がいたとしても、昼時を過ぎた今頃は研究室に籠り切りで見かける事もそんなにないだろうね」
つまり、あの沈黙を堅く封する白亜の建物には、学業に熱心な人達しかいないという事。
そう聞かされると、大した先見もなく見学にやってきた自分が途端に場違いに思えてくる詠だったが、幹がそんな萎縮気味である彼女の様子に「気にし過ぎだね」と笑いかけた。
敷地を横切り、正面玄関から建物内部へ。
今まで通ってきた学舎とは違う、仄暗い奥行きのある空気感。
匂いもどことなく違っていて、彼女の連想として上がったのは、市立図書館といったあまり馴染みのない公共施設だった。
幹は慣れ親しんだ様子で進み、詠が心細さを伝わせた拙い足取りでその後ろを追い、そっと横に並ぶ。
申請用の各種窓口や講義するための教室、現在は閉まっている売店や食堂は軽く、一般に立ち入りが許されている区画を巡る、ちょっとした案内ツアー。
そういった道中の主要な施設や部屋などは幹の解説の下で緩やかに続き、そこで穏やかに反響する声は、聞いていく次第に詠の心をほぐしていった。
「…………」
彼の語り口の節々には、彼の日常が含まれていた。
精緻な筆跡にその人自身の筆運びの癖が紛れ込んでいるように。
彼女はそこで、ようやく自覚する。
前に雲雀から言われた『他人に無関心』という言葉は、こういう意味だったんだと。
詠は思い至ってしまった。
彼女には目の前で大学の案内をしてくれている彼のように、舞やみことや飾璃との平凡な日常を話の節から窺わせるような芸当は、到底出来そうに思えなかったのだから。
一面に四方の窓が立ち並ぶ廊下には二人の他に人の姿はなく、まるで使われていない病棟のようにしんとしていた。
リノリウムの床は蒼白とした艶を出し、目立った汚れなどはないが、長年の細かな擦り切れ傷が数え切れないほどの流線形を描いていた。
そろそろと微睡のような停滞を催す昼下がり。
詠はぼんやりとした目つきで、部屋ごとに掲げられた標札を目でさらっていく。
「だいたいこんなところかな」
幹が一息つくといった感じに呟く。
「後はそれぞれの学部の研究室や実験用の施設だったりと、一般には開放されてないからね。もっと詳しく知りたいなら、まあ実際の見学会に申し込む方が早い」
「えっと、ここまでありがとうございます」
これくらいならお安いご用さ、と幹が気兼ねなく笑う。
「さて、これで少しはイメージも掴めたかい? ここであれ、他所の大学であれ、自分が大学生活を送っている姿を。その助けになれていたら、僕としても喜ばしい」
「……そういうとこは相変わらず鋭いですよね」
彼にはまだ一度だって、影も形も見出せない未来への欠乏感を直截に打ち明けた事はなかったのに。
しかし生憎と、彼の期待には応えられそうにない。
「正直、まだイメージが湧かないです。私のわがままに、付きっきりで案内までしてもらったのに、その──」
「いいんだよ、そこは謝ろうとしなくて。詠ちゃんはまだ高校生なんだから、未来が漠然と定まらないのも極々当然だ。思う存分悩み抜けばいいさ──誰も、君を責めたりはしないのだから」
高校二年生と大学四年生。
その五年の差は、思春期からアイデンティティの確立へと向かう重要な期間であり、精神の成熟度に未だ大きな影響を及ぼしている。
しかし詠には、その差を超えるほどの隔絶を感じずにはいられなかった。
「…………」
詠は彼の視界に入らないよう、密かに自分の胸を見下ろすようにして、心の奥を探った。
そこには彼の言葉に安堵を覚えている自分と、もう一人、不満を覚えている自分も見つけられた。
明らかに年下の子供扱いされていると、それこそ子供の意地だ。
初めの出会いからおおよそ対等とは言えない関係性であると、薄々と認識してはいたが。
今回で、その溝がさらに広がった気がして止まない。
白くペンキされたアルミ製の引き戸が数枚視界の端を過ぎるほど無言が続き、それはなんら互いにとって苦にならない間のはずだったが、その時ばかりは──あるいは詠だけが、もやもやとした気まずさを内に抱えていた。
「その、幹さんは……」
「なんだい?」
柔らかな声が頭上で微かにこだまする。
ゆっくりと話してごらん──。
彼のそんな心の声が聴こえてくるかのように。
「将来どうするかとか、考えてたりするんですか?」
「あー……」
聞くと、幹が気まずそうに声を濁した。
詠は、その痛い所を突かれたと言わんばかりの弱々しい表情を見上げ、どこか迅るような気分に背筋が張るのを感じながら、返答を待った。
「あれだけ偉そうな口を利いていた手前、情けない限りではあるんだけど、僕も実は決まってなくてね」
「そう、なんだ」
彼女の声は、ほんの気持ちほど上擦っていた。
思いの外すんなり、詠は彼の返答に納得できていた。
以前にも、それと似た言葉を聞いていたからだろう。
知識を蒐集するだけ蒐集し、そこに明確な目的意識などない。
未知への好奇心が突き動かしているだけだと。
「───だから、旅に出ようと考えているんだ」
しかし、今度の言葉には、彼女の脚が歯車に枝を差し込まれたかのように止められてしまった。
「え……。旅、ですか?」
「そう。自分探しの旅ってヤツさ。よくありがちな話だろう?」
と、幹が彼女に背を向けたまま、からからと自嘲気味に笑う。
「……それは、いつ頃に?」
「そうだね、今のところは大学卒業後の一年間を予定している」
現在は八月の初旬。
つまり、彼がこの大学を卒業するまで残り半年とちょっと。
それきり一生会えなくなるわけでもないのに、詠は胸の間に穿たれた孔に寒風が吹き抜けて縁が萎びていくような感覚に襲われ、後ろ手に空いた手首を掴んだ。
「……でも、そっか」
唇だけの吐息にもならない呟きは、彼女の心の内のみでこだまする。
やっぱり私なんかとは違う。
自己嫌悪のような苦味が口内に広がると、詠はつい彼の背中から目を逸らした。
ずっとこういう日々が取り留めもなく続いていくのだろうと、勝手な希望を、あたかも事実かのように取り扱ってしまっていたのだから。
ひどい押し付けもあったものだ。
何事にも終わりはある。
一見だけでは捉え難い切り目がある。
一縷の光もない暗闇に、朦朧とした誘導灯が忽然と立つ。
まるで、そこまで一本道しか続いていないかのようだった。
大学の見学はけっきょく詠の心に一抹の寂寞を植え付けるに終え、中途半端に余らせた時間を駅周辺の再開発されたモール内のショップ巡りに漫然と費やした。
昨日と変わりない店内の様子に当然めぼしい収穫もなく、彼女は終始、気の逸りも幾許、別れを惜しむかのように、幹との会話に気を取られていた。
それでも時間は刻々と過ぎていく。
夏の猛々しい陽も山頂付近にまで落ち、縦に長いテナントビルの影がごみごみした通りを覆い始めた頃。
地下鉄の改札へと伸びる回廊の途中。
詠が無機質なレンガ模様の壁に視線を沿わせると、ある広告のポスターにふと引っ掛かった。
真っ黒な夜を背景に彩り豊かな花火が咲き乱れた、去年だか一昨年だか、あるいはそれ以上も前の大きな写真。
その上に花火大会という文字をデカデカとカラフルに印刷した、夏になれば決まって張り出されるポスターだった。
いつもなら関心もなく、一瞥を投げるとそのまま歩き去る。
実際、ポスター自体に大した興味も湧かない。
だが、今日ばかりは彼女の足を釘付けにするだけの魅力があった。
すぐ隣に彼がいるからだろう。
一年の間とはいえ、来年の春にはこの街を去ってしまう彼が立っている。
気兼ねなく誘える機会は今しかないと考えてしまうくらいには、彼の『旅に出る』という発言は、詠の心中に冷たく湿った影を落としていた。
「来週か」
と、花火大会の写真にじぃっと熱い視線を注ぐ詠の姿を横目に、幹はさらにこう続けた。
「折角の機会だし、一緒に見に行く? 詠ちゃんさえ良ければ」
「はい」
さらりとした誘い文句に加え、花火大会の件で思考を巡らすのに夢中になっていた詠は、本命につい気のない返事をしてしまう。
束の間に沈黙が流れると、そろそろと重大な聞き逃しに気がついたらしく、詠がばっと彼を振り返った。
「おっと、どうしたんだい? そんな驚いた顔して」
しらばっくれた言い草をする幹だが、悪戯に成功した子供のような愉快さが表情筋や声音の節々から滲み出ていた。
「だってそれは───……幹さんから誘ってくれるとは思ってなかったから」
「ま、甲斐性なしなのは否定しないけどね。しかし僕にだって女の子を祭りに誘えるくらいのゆとりはあるつもりだよ。それに、“とても”行きたそうにしてたから」
まさかそこまで露骨に現れていたとは露にも思わず、詠は頬が熱くなるとともに顔を伏せた。
「花火、好きなんだ?」
こくり、と詠が素直に頷く。
「花火って、遠くからでもすごく鮮明だから。忘れようとしても、なかなか、忘れられないじゃないですか。記憶に残るものが好きなんです」
それは夜のしじまにふとして響き渡る微かな破裂、窓越しの彼方にちらりと躍る色鮮やかな火花。
あるいは友達と巡る祭りの喧騒のさなか、胸の内壁を激しく打つような爆発と次第に会場を覆う煙のドーム。
毎年のように、ひたすら黙して、目を奪われる。
時を待たずとも、白と黒の淡色の合間に、希望を持てるから。
「記憶に残るものが好き、か。変わった言い方だね」
「友達にも、よく言われます」
詠がにへらと笑う。
「けれど、実に君らしい言葉に思えるよ。身も蓋もなく、だからこそ、そこには日常への愛着が確かに聞き取れる。
───僕は好きだな、詠ちゃんのその考え方」
「──────っ」
思わず息を呑む。まったくの不意打ちだった。
無論、彼の言葉に恋愛的な含意が微塵もない事は詠も重々承知している。
それでも好意をはっきりと口にされると、ひとりでにドキッとしてしまうものなのだ。
「君にとって、今が全てなんだね」
そして。
やにわに放たれた最後の一言が、ずっと、耳に籠った。
依然として袖に絡むような蒸し暑さが空一杯に広がる日暮れ時。
次に会う約束は花火大会のある来週の月曜日。
時間は日が沈み始める十八時頃。
場所は彼がいつも付き添ってくれる四角公園前──今日の待ち合わせ場所もそこだった──に決まり、二人はいつものようにとうの公園の前で別れた。
…
それは翌日の夜のこと。
お風呂上がりの詠が部屋に戻ると、スマホが珍しく電話の着信を軽快に鳴らしていた。
ベッドに早足で歩み寄り、詠が画面を覗くと、『門出幹』とゴシック体で表示されていた。
応答を押す。
機械越しに、切迫した感情を抑えた声が響く。
『ごめん。しばらく、君とは会えなくなった』
───約束は、果たされなかった。
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