Chapter Ⅵ 前編
二車線の狭々しい道路には、絡まったあやとり糸のように太った電線が走っている。
バラバラな高低と纏まった色味が長きに亘る営みを反映した建物群。
人が通れるだけの小道を随所に挟み、疎らにこぢんまりとした店舗が立ち並ぶ。
何かと利便性に富んでいるのだろう。
車が次から次へと列を成し、ちらほらと人々が行き交う。
賑やかな通り。
大人びた顔の留学生が時折、背中に背負ったリュックを揺らして、車と車の間を抜けて道路を小走りに横断していく姿も見られた。
一直線に伸びたこの通りの中途に、目的の喫茶店がある。
日照りに焦茶色のレンガが赤く映え、現代的なベージュやグレーなどの面白味のない角張りがごった返した景観を均す中、そのレトロチックな色の濃さは人目を惹き、シンプルなガラス窓の周囲を彩る造花グリーンの装飾がまた、外観をより華やかに演出していた。
表に出されたスタンド型の黒板には、本日おすすめのメニューがポップな絵と合わせ手書きの文字であしらわれていた。
彼がドアを押し開け、涼しげな鈴の音に促されるまま店内へ入ると、ひんやりとした影に包まれた。
いらっしゃいませ、と若い女性の店員が今頃の活気を真似た明るい声で、カウンター越しに挨拶する。
その隣では三十代前半ほどの無愛想な男の店員が厨房で黙々と調理に勤しんでいた。
雰囲気を見るに、夫婦で経営しているのだろうか。
詠は彼の背後でそっと会釈を返す。
その際、女性の店員から意味ありげに微笑まれた…ような気がした。
「お好きな席へどうぞ」
カウンター席は五つ並んでおり、二人組の客が隣り合わせに座り、席を一つ空けて壮年の男が肘をついてコーヒーカップに口をつけていた。
見る限り、二人並んで座る事はまずできそうにない。
仮に空いていたとしても、詠の選択肢にカウンターは上がらないけれど。
続いてテーブル席の方へ視線を向けると、奥行きへと四つ並ぶテーブル席の内、一番手前と三番目の席が埋まっていた。
どこかしこも地下鉄の車内じみた様相を呈している。
出来る限り間を保つ心掛けは、後に来る者にとっては針の筵だ。
「奥の席にしようか」
幹が彼女にだけ聞こえるくらいの声量で言う。
幸い、彼はこういった事には決断が早い。
詠が頷くと、カウンターとテーブルの間を縫って、二人は向かい合わせになる形で席に着いた。
ソファ側に詠が座り、カウンターに背を向けて、木製の椅子には幹が座っている。
厨房からの甘やかな香りが鼻腔を擽り、段々と緊張も解れて、胸の奥を空かせた。
テーブルの皺や木柱の窪みなどに染み付いているのか、コーヒーの酸味と苦味が利いた香りも濃く漂っており、くらりと陶酔させた。
手提げのカバンを隣のスペースに下ろしながら、詠はきょろきょろと天井を見上げた。
「おしゃれというか、綺麗ですね」
ひそひそ声に独り言めいた感想をこぼす。
一つ一つ意匠の凝ったペンダントライトが何らかの軌跡を描くよう疎らに配置されている。
店内の淡い闇を取り残した雰囲気と相まって、ちょっとした星空のようだ。
「先代の店主曰く、あの照明の一つ一つが惑星をモチーフにした色らしいよ」
「へぇ……」
改めて見渡してみると、ペンダントライトの囲いがそれぞれ色分けされており、青色や赤色、黄色など、おそらくは太陽系をイメージした色彩と模様で飾られていた。
「そう言われると、凝ってるように見えるかも」
詠の零した一言に幹が微かに吹き出しつつ、テーブルの端っこに置かれたスタンドから古い洋紙のようなメニュー表を取り出し、間に広げた。
「注文は何にしようか?」
と、メニュー表はさりげなく彼女の側へ寄せられる。
詠は姿勢の“角度”に気を遣いながら、一見して品名の豊富なメニュー表を眺めやる。
通しで見ていく限り、名前からでは想像のつかない料理はなさそうで、少しほっとする。
「幹さんはどれにするか決まってるんですか? 雰囲気的に常連さんっぽいし」
「まあ、そうだね。これにしようかと思ってる。いつも頼んでるのとは違うんだけどね」
「いつも頼んでるものというのは?」
「これだね」
と、幹が先ほどと同じように指でさし示す。
メニューには写真が載っていないため具体的なイメージは掴めないが、品名から推測するに、チキンとレタスとトマトが挟んであるサンドイッチのようだ。
詠の胃袋の若干むかむかとした状態を踏まえると、ギリギリと言えるかもしれない。
「……私はそれにしようかな」
「そうかい? 味付けは辛いけど、大丈夫?」
「え、と。参考程度に、どれくらい辛いとかは……」
「……そこは個人差があるからなぁ。強いて言うなら、ピリ辛だろうか?」
ピリ辛。
なんとも言い難い度合いだ。
しかし詠の今までの経験上、ピリ辛と言われまったくダメだった事はまずない。
「それくらいなら…たぶん、大丈夫だと思います」
気になっている人が好んで通う喫茶店の、よく頼んでいるメニューには気が惹かれてしまう。
ちゃんと食べ切れるか不安は残りつつも、詠は意を決するように頷いた。
飲み物に関しては、詠は麦茶を、幹はブレンドコーヒー──詠には品種も何もわからない──を頼む事になり、これで注文は出揃い、後は店員を呼ぶだけとなった。
そして、入店してからちらちらと視線を寄越してくる女性店員の姿が、詠の目に止まる。
内心、首を傾げざるを得ない。
何が彼女の関心を掻き立てているのだろう。
そうこう考える内に、幹がその件の店員を呼ぶ。
嬉々として駆けつけてくる姿を、詠はやはり疑問符の尽きない表情で見上げている。
「はいはい、ご注文は?」
入店時の挨拶同様、溌剌な印象を受ける女性だった。
外見は二十代半ば程と年が若く見える。
髪は短く切り揃えられ、肩口ほどもない。
いわゆるベリーショート。
明るく快活な笑顔が印象的な彼女には、そのさっぱりとした髪型はよく似合っていた。
一通り注文を聞き終えると、女性店員が満を持したと言わんばかりの顔でこんなことを言い出した。
「この子、幹くんの彼女さん?
いや、君にもようやく春が来たんだねぇ」
「…ッ…っ!」
詠が赤面し息を詰まらせる向こう側では、幹がやんわりと微笑んだ。
「いえ、まさか。ただの仲のいい友人ですよ」
「…………」
嘘偽りなど一切ない、完膚なきまでに事実その通りなのだが。
如何ともしがたく、ぷちぷちと何らかの望み的な筋繊維の切れるような音が詠の後頭部上で鳴っていた。
あまり聞きたくない類の音であった。
「あー……」
あまりの爽やかな否定っぷりに、女性店員は微苦笑を繕いつつ、
「そうなの?」
今度は詠にその矛先が向き、問われた詠は否応なく肯定するしかなかった。
「……そ、そう、です」
その声は明らかに硬かった。
「───あちゃ」
と、女性店員が気まずそうに一言そうこぼす。
「あはは、私のはやとちりだったかぁ」
「
「うん、まあ。君は、そうだろうよ。
相変わらずだったというべきか」
女性店員──曙はもう一度ちらりと詠に視線をやると、
「その、ごめんね?」
「い、いえ。だいじょぶです」
それ以上の言葉が見つからず、次なる行方もなく漂う頬の熱っぽさを見せないようにして、詠はじっと縮こまった。
それを見兼ねた幹が、話題の提供代わりに傍でメモ帳片手に立つ曙の事を紹介し出した。
「詠ちゃんは何が何やらだよね。この人は曙さん。ここの先代の店長のお孫さんで、現在は二代目店長としてこの店を継いでいる人だ」
「どうもぉ。挨拶が遅れまして」
曙の会釈に詠も上目に返しつつ、口ごもりながら自分の名前を明かす。
「……晴川、詠といいます。
えっと、幹さんとはどういう?」
「ああ、幹くんならきっと今もフリーだから、その辺は心配しなくても──」
「曙さん、一体何の話を?」
幹が困惑した顔で口を挟み、その噛みつきに曙が「ちょっとした冗談よ」と茶目っ気たっぷりに微笑み返す。
「先代の店主、私のお爺さんが幹くんの育ての親と交友があったらしくてね、初めて会ったのは七年前かな? あの時は確か、親御さんの代わりに同い年のお姉さんと一緒だったよね?」
「そうです」
と幹が曖昧な笑みで濁しながら頷く。
詠はその普段の態度とは違った、躊躇いのあるニュアンスに内心ぽつりと疑問符を浮かべる。
お姉さんがいるという話は初めて聞いたが、あまり触れられたくない話だったりするのだろうか。
「お姉さんは元気? あれっきり一回も見ないしさ」
「あの人は……今は家を出て、世界中を飛び回ってます」
「わお、そうなんだ。すごいね」
しかも、その姉という存在に対する返答もまた曖昧模糊としている。
露骨に差し障りない言い訳のようで、まるで幻覚の辻褄合わせであるかのように。
すると、曙が何の前触れもなく背後を気にするような素振りでメモ帳を胸に寄せた。
「おっと。そろそろ戻らないと旦那に怒られちゃう。色々とごめんね、詠ちゃん。こっちが勝手に盛り上がっちゃって」
「それは大丈夫ですけど……」
「じゃ、頑張って!」
嵐のように生ぬるい場を掻き回すだけ掻き回すと、着地点を見失った空気感をそのままにして、曙はカウンターに引っ込んでいった。
「愉快な人だろう?」
「まあ、はい」
二人して声を潜めながら、微妙な笑みを交わし合った。
詠はその裏で、伯母である雲雀の事を密かに思い出していた。
「……毒気を抜いた感じ、かな?」
「何の話だい?」
「い、いえっ? こっちの話です──」
斯様にして、二人のたわいない一時が継ぎ足されていく。
注文を終え、待ち時間なり、この喫茶店評判のサンドイッチ等の軽食に手をつけながら、一言一言を気負うことなく重ねていき。
現在読み耽っている本の話題から、それと同じ著者の本に以前触れた事があるという経験談、飛んでその著者は他の著作から影響を受けてその本を執筆したらしいといった伝聞まで。
二人が出会ってから品を変えては絶えず続けられている定番の惰性的な会話ではあったが、だからこそ、詠にとっては心安らぐ時間で。
十分の経過のはずが、実は一時間だったとか、そのくらいの時間跳躍ももはや珍しくもなく。
「この後はどうしようか? 軽くこの辺を見て回る?」
時間感覚には彼女よりも正確な彼が、これからの予定をさも自然な流れで問うた。
「んー……」
名残惜しさを覚えつつも、目線だけ星空を模した天井を見上げる。
それも選択肢として悪くはないが、しかし今はこれといって物欲はない。
というよりか、時期を外している。
直近の記憶を振り返る内、詠はなんとなく過った閃きを口にした。
「そういえば、ここって幹さんの大学の近くなんですよね?」
「そうだね、ここを裏手に回ればすぐ目の前だ」
じゃあ、と詠がおずおずと訊ねた。
「───これから見学することって、できます?」
