Chapter Ⅵ 前編
曖昧な息苦しさからぼんやり目を開けると、汗だくとなって蒼白の早朝を迎えていた。
「っ…………はぁ」
───母の夢を見た、茫漠とそんな気がした。
この場限りの朧げな追憶。
死者に憩うにはまだ時期尚早で、傍にいるのが当たり前だった頃の記憶はかつて錆びついて、今では満足に要を成さない。
長きに亘る忘却は、とうに痕跡はおろか、死者の影をも削いだ。
───なんて、姑息な欺瞞だろう。
亡くなった母、顔を失くした優しさが訥々と鼓動を打つ。
悲哀が煮え立つように押し寄せていた。
そこに決壊はない。
破れた蓋を正常と思い込む事でやり過ごしてきたこれまでだ。
きっかけ一つで溢れかえる底の浅さだった。
嗚咽もなく、仰向けの耳朶に涙がつたう。
夢の内容はとうに深い深い霧の奥。
思い返そうとしても空を切る。
空を切って、掻き乱されて、面影を失う切なさに歯止めのかかった感情が堰を切るのだ。そんなものかと空笑うのだ。
欠けた自覚は、そのように吐き笑う事でしか補えない。
……けれど。
それに息を絶え、疲れ果てたのが、あのクリスマスの空夜ではなかったか。
この涙に意味はない。
音もない、手に取れないのだから、記憶には残らない。
明け方の青褪めた天井から目を逸らす。
すると必然、枕元に置きっぱなしのスマホが目に入る。
詠は寂寥に空いた心の穴を埋めるように、縋るようにスマホを掴み取って、傷ひとつない液晶を指で叩いた。
[今日、会えませんか]
それだけの一言。
精一杯の素振り。
返事を期待した訳ではなかった。
今この明け方、あの人は何をしているのだろう、流石に寝てるよね──なんて、益体もない想像に一息入れながら、それでもほんの微かな期待を寄せて、手を滑らせただけ。
しばらく眺めたら、画面を落とすつもりだった。
だが既読は思いの外すぐにつき、また返信も早かった。
数秒間、息が詰まる。
[いいよ、どこで待ち合わせようか?]
それだけの一言で、息を吹き返す。
「あぁ……なんでこう、応えてくれるかなぁ」
高鳴る鼓動を抑えつけて、急く脈拍を震えた息に還元して、慎重に指を運んだ。
予定を擦り合わせ、茫然とスマホを放って少しばかり時が経つと、詠はシャワーを浴びに部屋を出た。
廊下の窓には、まっさらとした斜光が差していた。
「や、三日振りだね」
待ち合わせ場所の公園に着くと既に幹が待っており、申し訳程度にある木陰のベンチから腰を上げていた。
詠は小走りで木陰に入り、彼のそばまで来るなり、挨拶代わりに軽く頭を下げた。
「ごめんなさい。私からお願いしたのに、お待たせしちゃって」
「謝ることはないよ、僕もここに来たばかりだから」
目元に薄く隈を刻んだ幹はそう言って普段通りに微笑んだ。
その柔らかな眼差しにあてられると、今朝の後遺症が次第にほぐれていくようで、詠も自然と微笑み返す事ができた。
「幹さん、また徹夜してましたよね?
返信、早かったし。今も少し眠そうに見えます」
「まあね」
幹が苦笑気味に頬を掻いた。
「そっちこそ、心なしか元気がなさそうだけど、大丈夫かい?」
「そう…見えますか。でも大丈夫です」
誰が見ても強がりな台詞だったが、それをひた隠しにしようと必死な彼女に踏み込めるほどの関係性には、生憎となかった。
彼はあくまでも友人。
頼りにされたら手を貸すだけの第三者。
その立場に甘んじている。
「──そうかい」
今の自分に全てを背負い切れる気がしなかったのだ。
しかし、見て見ぬふりをする薄情な人間でもいられず。
明るく振る舞おうと、彼は中途半端に声を張り上げた。
「詠ちゃん、昼食はもう済ませた?」
「いえ、まだですけど」
「僕もなんだ。一緒にどう?」
詠はこくりと頷いた。
「もともと、私からも誘うつもりでしたから」
「それならよかった。何かリクエストはある?」
「特には……ない、です。
ただ、食欲のほうはあまり……」
詠がにへらと笑いつつもそこに覇気は感じられず、半分ほどに細められた瞳はそっとお腹の調子を気遣っているように幹の目には映った。
体調が優れないのは確かなようだ。
「軽くが望ましいと。うん、僕も僕で寝不足気味だからちょうどいいね、重めのは控えたかった気分だし」
「……続きが気になって眠れなくなるのはわかりますけど、ちゃんと寝たほうがいいと思います」
詠の忠告に幹は曖昧な笑みを浮かべてやり過ごす。
図星のようだった。
以前ほど悪い状態ではないとはいえ、習慣としてもう染み付いてしまっているのだろう。
改善の方向にはあまり乗り気ではなさそうだ。
「僕が通う大学の近くにカフェがあるんだけど、そこなんてどうかな?」
流れるままに詠は彼の隣に入って、示されたスマホの画面を二人一緒になって覗き込んだ。
マップ上に表示されたカフェの位置情報と、その外観や内装。口コミは常連客のものばかり。
駅から徒歩七〜八分ほどの距離にあるお店のようだった。
途中までバスで移動し、そこから地下鉄に乗り換えるルート。
少し遠出になってしまうが、気分転換にはなる。
ゆったり過ごせるならどこでもよかった詠としては、いくつか気になる部分はあれど、これといって断る理由も見つからず、素直に頷き返した。
「…………ふぅ」
地下からのやたらと長い階段を登り、地上に出ると、灼熱の日差しが二人を迎えた。
木陰と日照り、境界線は明白だ。
その線を前にして、鉛の枷を括られたかのように詠の足が止まった。
この気分は、五分休憩が明けた後のマラソンと引けを取らない。
少し走っただけでバテてしまうような億劫さに嫌気が差している。
それと喉元には石ほどの小さな吐き気。
踏み出せば、きっとずるずると行けてしまうのだろうけど。その一歩までがどうしようもなく重い。
「大丈夫?」
幹が心配そうな顔で訊ねてきた。
「いえ、その……やっぱり暑いなぁって」
憂さを晴らすように茶化してみると、案外、気分は軽くなる。
「はは、だね。なんでも、今年一の猛暑らしい」
詠は内心ため息を吐きながら、ふっと向こうの空を見上げた。
屋内から見遣れば、暢気な感想を抱くに違いない。
清々しいだとか形容して。
夏にあまりいい思い出なんてないけれど、人並みの感受性くらいはあるのだから……。
しかし今は、蒼褪めた空が恨めしい。
お盆を控えた夏休みの半ばとあって、街は人や車通りで目まぐるしい。
詠や幹の住む片隅とは大違いだ。
太陽の顔が明るい熱暑であれ、鳥籠から放たれたように活気があり、喧騒が数珠繋ぎに撓っている。
「ここだと通行の邪魔になってしまうし、ひとまずあっちの日陰に移ろうか」
幹が指さした方向には、シャッターの閉まった店舗ビルがあった。
そこまでの道は、街路樹が映し出す影により──穴だらけではあるが──舗装されていた。
「……そうですね」
今は人が通らないからいいものの、いつまでも地下鉄に繋がる階段の出入り口前で立ち話しているわけにもいかない。
詠は幹の背中に付いて、ビルの軒下に身を移した。
「今は交差点の信号が赤だから、そうだね──次のは見送ることにして、その次であっちに渡ろうか」
それまでここで少し涼んでいこう、と幹は言う。
カッコウの鳴き声にも聴こえる甲高い電子音を立てて、信号が切り換わった。
続々と学生っぽい人や社会人らしき人々が擦れた道路を横断し、この暑さに愚痴を垂らしたり、限定アイスの話題にあれこれと感想を溢したり、あるいは汗を拭いながら黙々と、思い思いの方角へ背を消していく。
その間、二人はビルの軒下から街路樹の立ち並ぶ葉緑の影鮮やかな街中の景色を目でなぞっていた。
うんざりするほどの晴れ模様でありながら、状況はまるで雨宿りの様相を呈し、それが数分も続くと、詠はなんだかおかしくなり、思わず声に漏らして微笑んだ。
「んん? おかしなものでも見つけたのかい?」
「ううん、そうではなくて。ほら、なんだか雨宿りしてるみたいで。こんなにも晴れてるのに」
「なるほど。向こうには傘を差してる人もいる、小降りだね」
たわいもない冗談に幹が乗ってくれた。
それが嬉しくて、笑みが溢れる。
彼女の微笑みに呼応してか、梢が一斉にさざめき出し、どうやら微風が通りを走る合図のようで、髪や衣服を微かに揺らしていった。
風が落ち着いて、幾許かに息を吹きおろす。
「少し、気分が楽になりました」
彼の冗談はそこまで面白くなかったが、その素朴さが愉快げだった。
「幹さんのおかげですね」
「よかった。うん、やっぱり詠ちゃんには笑顔が似合うよ」
「────っ」
また、そうやって──。
さらりと耳道をなぶった思わせぶりな台詞に心臓が跳ねてしまい、詠はこほんと咳払いして平常を装った。
しかし、まったく気にならないほど器用ではいられなくて。
「……あの、前から聞こうと思ってたんですけど、幹さんっていつもそんな感じなんですか?」
「そんな感じって?」
「だから……女の子を、軽率におだてるというか」
ワンチャン、期待させるというか。
「軽率におだてるって……。なんだか棘があるな」
どう表情を浮かべたらいいか迷ったのだろう、脇目に微笑んではいたが、よくよく観察すると口角がひくついていた。
「思った事を口に出しているだけなんだけどね」
「でも、途中で恥ずかしくなりません?」
「それは、自分が相手にどう見られているかを気にしているからさ。他人の目は、瑣末な事だよ。影響を受けたつもりでいる、結局は内面性の表れだ。感受性と言い換えても意味は通るだろうね。僕は、どうもそれが鈍い。どこかで落としてきたのかもしれない」
「……そういえば、記憶を失くしてるって」
過去を失くした。
それは同時に、長く培ってきた感情をもリセットされたという事。
喜怒哀楽、全てがまっさらな状態に還ったという事。
中途半端に成熟した軀のみが残され──それは一体、どれほどの心細さだったのだろうか。
「おそらく。原因はそこにあるのかもしれないね」
穏やかな表情、なんてことないと足早に照る街の風景を臨む彼の瞳には、何が映っているのか。
掴めそうで掴めない、到底俯くばかりの脱力感が詠を襲った。
似て非なれど、その感覚には身に覚えがある。
今朝方の夢の名残がそうだった。
これは共感なのか、あるいは──。
「終夜、冷たい光が張り詰めた一室だった。僕が初めて目を覚ました頃の記憶だ。今の養親が僕の顔を覗き込んでこう言った。『───お前はこの先、一生失くしたままだ』と。代償と言うべきか、きっと無理がある命だったんだ」
「…………」
だから、人としての機能が一部麻痺している。
他人への関心が皆無なわけではない。
現にある程度の好意を示す事はできている。
だが、それに付随するであろう、自分の言動が他者からどう見られているのか、そこに関心が向かないだけ。
完結しているのだ、自分だけの認識で。
それゆえの無頓着な生活。
書物に詰め込まれた研鑽だけが、彼の良識を裏付けている。
──思えば、一目惚れと告白したあの時も、反応が薄かった。
驚くでも、慌てるでもなく、彼は指の間から逃げていく砂を掴み握るようにして、その言葉の意味を咀嚼しているようだった。
「───ごめん。
いつの間にか、話題が暗くなってしまっていた」
彼が申し訳なさそうな顔で謝ってくる。
ううん、と詠は緩慢に首を横に振った。
彼には自覚できている。
自身の欠陥を。
異常を。
消えることのない傷跡をひた隠しもせず庇わず生きてきた。
とても真似できない生き方だ。
鈍い輝きなのに目を細めてしまう。
副作用的な強さに思えても、その根底には記憶を喪った程度では揺るぎない芯が見て取れた。
「……私とは、大違いなんだもん」
修復的で破滅的。
彼は、不足した自分を知識で補う事にも、悪戯に散乱的な可能性の
自分である事から逃げなかった。
晴川詠は、まるきりその逆だ。
自分であろうとする事から、目を背けた。
茫漠たる未来から、今も目を逸らしている。
遠耳に信号機の瞬き、ピヨピヨと陽気を点じて空に響く。
上の空の隙には、もう二度目の青光り。
「───行こうか」
手を引くような柔らかい先導に、詠は流されるままこくんと頷き、一歩踏み出した。
そうやって頷き返した頃には、咄嗟の懐疑は炎天下の眩暈の渦中に焼け焦げ、気流に流され、何処かに消え去った。
