Chapter Ⅵ 前編
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『───詠はどうするの? 進路とか』
帰りの電車を降り、舞と二人きりで辿る帰路。
舞にしてみれば、さりげない問い掛けのつもりだった。
いつもぼんやりと日々を過ごす大切な友人の将来を慮ってのもの。
しかし、問われた本人は、いつまでもだんまりだ。
うまく答える事ができずにいる。
ほつれかけのセーターのような曇天に覆われる黄昏が駅周辺の風景に血色のどんよりとした影を落とす中、詠は舞の隣をぴったりと張り付いて歩む。
未来のことはどうしても想像できない。
彼女には、昔からそうだったように思える。
自分の記憶以上に捉えようがなく、漠然としていて、太陽の足を掴めと言われているようでもどかしくなる。
しかし、それさえいつものことだ。
舞も詠のその危うさは承知している。
その上で問いかけた。
『詠は将来、どうするの?』
と。心の底から心配を露わにした顔と声で。
その問いを前にすると、詠はどうしようもなく言葉が枯れてしまう。
隣を歩き続ける舞は、寂しさや切なさといった微妙な感情を微笑の内に綯い交ぜ、最後には目元の影に忍ばせた。
胸に靄が残る。
舞の問いがずっと、反響漠々として思考を覆っている。
周囲は蒸し蒸しとした闇に没し、山並みに近い事もあり、夥しいほどの夏虫の声に遠慮なく溢れていた。
街灯が夜道を照らし、その周辺の垣では何種類もの小さな蛾が英気を養っている。
今にもけたたましい鳴き声を上げそうで、絶対にありえないと頭では理解しているが、傍を通るたび、詠はそのような不安に駆られる。
雲雀には足りなくなった物を買い足しにコンビニへ行くと言い残し、家を出てから数分後。
詠はひとり、学校指定のジャージ姿で夜半の住宅街を歩いていた。
その足取りは朧げに見えた。
実際のところ、コンビニに用はない。
一応目指してはいるものの、目の前まで着いたらすぐに引き返すつもりでいる。
部屋のベッドにいてもなぜだか気分が落ち着かないから、仕方なく彷徨いているだけだった。
今日は一段と、どこもかしこも騒がしい。
胸騒ぎがする。
この地に足が着かない感覚には、覚えがあった。
悪い夢に魘される夜がそうだった。
ゆえに今、彼女は悪い夢の内に囚われているのだろう。
すると、輪郭を散り散りの毛糸状にぼやかした周囲の視界の隅々が、魔物を生み出す幻想の影に思われた。
それは彼女自身に向けられた悪意や害意で蠢くのではなく。
ひたすら、顔も知らない誰かへ向けられた、胸が張り裂けるほどの執着。
どうか救ってくれと苦しげに呼吸を乱す、怨嗟のさざめきだった。
一際激しく夜道に伸びた光が、緩やかなカーブの先に窺えた。
車道が整理されていない住宅街特有の息苦しい景色を、一部切り取るかのように描き出している。
コンビニの駐車場から一台のミニバンが顔を出し、手慣れた動作で夜闇の奥に走り去った。
まざまざと漏れ出す明かりの下まで、あと数歩。
どん、と物音がした。
人間同士がぶつかった衝撃、あるいは誰かが誰かを強く殴りつけたような──いずれにしたところで、良い方向に事態が向かわない事は、嫌でも想像された。
次いで間も無く、どさり、という幽かな物音。
大量の精米が入った紙袋を誤って地面に落とすと、もしかしたら、こんな風に響くかもしれない。
それくらいの重みを一瞬に感じさせ、夏の騒音ばかりが、無闇に鼓膜を苛んだ。
詠の足が思わず竦む。
ここが現実の外なのか、あるいは夢の中なのか。
めっきり区別がつかなくなる。
首筋や脇腹に滲む汗さえ、まるで雨の一雫が垂れたよう。
既視感。
彼女は、一度、この場面に立ち会った事がある。
……手先の冷える、既視感。
瞳は仄かに潤み、悴むような危うげな呼気の震えは、彼女のきめ細かな口許に白い息を幻想させる。
今の彼女の見過ごす事は、命を見捨てるのと相違ない。
主人である彼女の意思に反して、華奢な脚がその歩みを再開させた。
あと数歩の距離。
言ってしまえば、夢の終わりまでの換算距離。
彼女の無意識が総動員して、なけなしの救いに縋った結果だった。
モルタルで固められた垣の角が目前に迫る。
電柱が実際の現場を野次馬の背中のように隠している。
詠は静かに顔を出して、対象を覗き込んだ。
その先には、彼女の想像通り、人が立っていた。
背丈は平均より高く、細身の男性らしきシルエット。
その傍に誰かが、血塗れで倒れ伏していた──。
ぼそぼそと唸り声が聞こえる。おそらくまだ息がある。
背中を鋭利な刃物で刺されたのだろう、純白の布地に浅黒い染みが広がっていた。
ああ、と詠が細く息を漏らす刹那。
遺体の傍に立ち尽くすカレと、目が合った。
その瞳は不思議な色を湛えていて……。
体が竦み上がる。
音の絶えた過呼吸は、空中で身動きも取れないまま、手足が空を切るように頼りない。
視界がしらずむ。
意識も朧げに包まれ、無我夢中に後ずさろうとするものの、つるりとした障壁にあたり、どこへも行けない。
彼女は、知らぬ間に地面に尻餅をついて……。
脚が暴れている。
のたうち回るミミズを彷彿とさせる。
それはスケート場の氷のような床の上を滑り、時折キュッキュッと耳障りな音が空虚然とした館内に響き渡っていた。
街灯。照明。
世界が漂白されている。
地面も、白い。
手も、白くなっている。
誰の手だろう。
果たして自分の物だろうか。
目の前より、手を伸ばした先。
人が倒れている。
襟の隙間に、蝋のような肌色を晒している。
初めて見た。
瞳から、水が零れ落ちている。
指で掬うと、それは生温かく、すぐに冷たくなる。
彼女は知っている。
これは、涙と呼ぶのだ。
人が、倒れている。
見覚えのある顔だった。
いつも身近に居たはずの顔だった。
けれど。
これは、知らない。
こんな場面に、出会した事などない。
知らない。知りたくない。知らなかった。
死んでいる。すでに空っぽだ。
抱え上げた頭蓋が、空箱のよう。
息も凝るほどに軽い音を立てた。
これは一体、誰の記憶なのだろう───?
☆
階段を降りる/階段を上がる。
遠くで三時の鐘が鳴っている/互いの息遣いが響き合う。
和気藹々と談笑する少女四人組/一触即発の空気を漂わせ、睨み合う二人の男女。
場所は踊り場/時は正午過ぎ。
口々の声/少年の独り言。
叫び、笑い、嘆き、呟き、反響する。
彼女の目が床を滑る/少年がその場にへたり込む。
二つの視線が、ぴたりと重なる。
チョーク色の擦り切れた床/がらんどうの骸が一つ。
憎らしいと感じた/綺麗だと思った。
───涙が、溢れそうだった。
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