Chapter Ⅲ

 話は少し変わってしまうが。
 ごく一般的事実として、青年には家族がいた。
 母親がいて父親がいて姉がいて兄がいて妹がいて弟がいて、県外に住む祖父母は今も存命中だ。
 そして一年に一度は必ずと言っていいほど、ほとんどの親戚と顔を合わせた。
 三歳頃からずっと一緒に連んでいた幼馴染が男女合わせて四人ほどいる。内一人は引越しで会う事が難しくなったが、関係自体は今でも続いており、連絡はいつでも取り合える仲であった。
 中学からの付き合いではあるが、親友と呼んでくれる間柄の相手もいるし、恋人の経験人数など片手では数え切れず、つい先月には婚約者までできた。

 彼の人生は二十二年余り。
 手首に絡まった不可視の糸は数知れず。
 その短い人生の中で構築できるおおよその人間関係を青年は握っていた。

 しかし青年にとっては不運と呼ぶべきか、あるいは必然だったと言うべきか、とある不満がしつこく付き纏った。
 青年と関係を結んだ相手は、一部の無口な例外──口で語らずとも目に見えてはいるが──を除き大方一人残らず、このような事を申し合わせたように語る。

『彼は私\俺\僕と似ている──』

『君\お前\あなたはまるで鏡みたいだ──』

 ふざけた屈折だと、青年は忌々しげに吐き捨てる。

 好き好んで他人の鏡に重んじている訳ではないというのに、誰も彼も好き勝手に、青年から人生観や価値観はおろか、芽生えたばかりの個性までも啄んでいった。

 その上で彼らは青年に対して、心置きなく感謝の言葉を向けるのだ。

 ありがとう、あなたのおかげで自分を見つめ直せた──と。

 どうやら彼らは、青年という彼は誰時めく生き写しを通して、“自分”を正しく清らかな方向性に補正したらしい。
 憎しみを通り越して、逞しい想像力と豊かな自慰能力だと毎々感心してしまう。
 なぜなら、彼らはいつもいつも良い面ばかりを採用して、既存の色を塗り替えるか、または剥ぎ取ってしまう。
 体のいい猿真似の出来上がりだ。
 そしてそれを新たな発見だったと勘違いし、満足そうに青年の元から去るのである。
 
 話を聞く。
     ───話をした。

 相談に乗る。
     ───話をした。

 手や頬に触れながら、時にはそれ以上の接触を以て、心身に時間を費やしてみる。

     ───僕を晒し続けた。

 その程度の事で満たされてしまう人生だというのなら、なんて安い器だろう。

 ───ああ、反吐が出る。なんだって、こんな自分を見つめなくちゃいけない。

 余分なスペースの埋め合わせに置かれる観葉植物のような人生。その狭く補完された世界に誤算があったとしたら、それは、青年が善人を気取るだけで幸福を感じられる気質の持ち主ではなかったことだろう。

 ……タチの悪い偶然に遭わなければ、もう少し長く、セカイは続いたのかもしれないが。

 馬鹿馬鹿しいと青年は思う。
 自分なんて透明な残骸に過ぎない。

 ゆえに彼らは盲目だ。

 鏡だなんだと口では言いながら、けっきょく、醜い面影を捉えようとしなかった。
 穢らわしい色彩に目を向けず、身近に潜む鬼の陰翳に少しも気付かなかった。

 命を奪われる最後まで……。

 感触を思い出す。

 最初は叫ばれることを嫌って、首を絞めた。
 抵抗されて傷が付かないように、あれは冬だったか。

 予想外に湧き出た発力。

 指と骨の軋み、軋轢は汚らしい泡を産み、詰まり気味の産声のような悲鳴は拙い吐息となり、それらは今にも沈み込んできそうな灰白の空に透過していった。

 呆気ない宙ぶらりん。
 虚脱した軀。
 熱っぽく吐き出された溜息は、凍えて薄白い。

 内にも外にも、狂躁は起きなかった。

 ただ、一度だけ頷いた。

 ──人は死んだら、全身が仄かに青白く変色するようだ。

 信じられない。
 思っていた通り、皆は鈍感だ。
 普段からこのような屍体と接しているのかと思うと、吐き気がする。せかい全土が泥濘むように感じられた。

 ──屍体は一色。僕は無意識にヴェールを搾り落とした。

 だったら……と、とても細かな囁きが白く広がり散っていった。

 次の殺害は、悲鳴を聴きたくて春にした。
 冬では駄目だ。凍えて千切れてしまう。
 夏も駄目だ。虫がうるさくて敵わない。
 秋は、少しばかり気が遠い。

 わざわざお誂え向きの廃屋を探し、中途半端な模造を誘き寄せて、その靄を取り払うように皮膚を削いでいった。

 そうして、骨と眼球と脳だけが真新しい椅子の上に残された。
 それこそが青年の真の姿であると誇示するかのように。

 大量の血と排泄物で椅子は汚れてしまっていたが、拭き取れば綺麗だっただろう。

 三度目はさて、どうしただろうか。
 その次も。
 忘れてしまった。

 何事にも飽きがくる。
 それは設計された寿命の如く運命性を帯びて。

 だからこそ、あの出逢いは劇的だった。
 いわゆる回心の瞬間だったのだと。

 ──蝉が、忙しなく鳴いている。

 窓の外を一羽の影が素早く横切っていった。

「………思えば、あの日もこんな昼ごろだった」

 青年はあの日の情景を、遥か昔の出来事のように思い起こした。

 現在より二週間前。
 地上の住人が茹だる熱に喘ぐ炎天下。
 最もソラに近い地瀝青の頂上で、迷える青年は転落する天使を目撃した。

 最初、彼はその存在に全く気がつけなかった。他にも歩いている人間が数人はいたが、青年と同様であった。誰も声を上げなかったし、誰も声を掛けられなかった。
 
 おそらく、立ち止まったタイミングにも大きな差はなかっただろう。

 きっかけは極めて些細な変化だった。

 視界の何気ない位置で、ふと、純白のワンピースがはためいた。

 少女が青空の表面に浮遊している──否、よく見るとそれは違った。
 少女は翼のように両手を広げ、片足だけをガードレールの上に残して立っていた。

 この世に生まれてより二度、青年は人間の造形美に固唾を飲んだ。
 彫刻や絵画の中だけの幻想だと信じ続けていたが、そうではなかったらしい。

 赤黒いセミロング。
 華奢な長駆。
 ワンピースの切れ端から覗く、細やかで肉付きの良さそうな長い手足。
 そうでありながら、背徳的で病的に白い肌。
 青空の中で一際目立って、少女は微かな燐光を纏っているように青年には見えた。
 靴とか何も履いていないようで、脆そうな素足が無作法な陽の下に晒されていた。

 ───透明感がある。

 街中より望む宵の明星の如きその微笑みに、一拍一拍ごと心が縫い止められる。

 真夏の昼間に忽然と現れた少女の幽霊。

 今にも、ふっ、と消えても不思議ではない儚げな雰囲気を纏わせたその少女は、不安定な足場にいながら、しかし微塵も揺れなかった。確固とした平衡を保って、地上を見定めるように見渡していた。そして視線は周囲にも向けられ、青年は自殺を図ろうとしているようにしか見えない少女と瞳を合わせた。

 ……いや、合わせてしまった、といった方が後の事を考えれば正しいだろう。

 それだけのことで、青年は羞恥に駆られた。
 今までの自分が、途端にちっぽけに思えてしまったのだ。

 あの少女はこれから死ぬ。

 この場に立ち尽くす観客には全く理解の及ばない必然性を帯びて、それ故に転落死する。寄生虫の震えを彷彿とさせる寒気をその身に走らせながら、青年はなんとなくそう肌で感じていた。

 現実は思いの外、瞬く内に過ぎていった。

 少女が小躍りするかの如く、軽く飛び跳ねたのである。
 高く青々とした空へ羽ばたこうとする白鳥のように。
 けれど、それはヒトの身に叶わぬ衝動。
 何もかもを見限ったように冷ややかな瞳を湛え、されど口許には温暖な微笑みを浮かべて、白いワンピースの少女はさらなる地上に堕ちていった。

 そこに、虚とした輪郭を蜃気楼のように歪ませて、あるいは透明なブラックホールの如き引力を不吉に残しながら。

 しかし彼には、人の身では及ばぬ透き通った翼を翳して、少女があるべき在所に帰っていったようにも視えて……。

 すると知らず強張っていた身体は急にほぐれ、どよめきが少ない人々の間を駆け抜けた。
 観客たちは一斉に太陽の熱を思い出す。
 あまりの暑さに頭をやられ、ふらりと倒れてしまう者が二人ほどいた。いや、もしかしたら、熱の所為ばかりではないのかも知れない。

 そんな周囲の変動に構わず、青年は他の誰よりも先に、今の今まで少女が立っていたガードレールの側まで走り寄り、人の手によって整えられた崖を見下ろした。

 ……青年はおそらく、その光景を一生忘れないだろう。

 十二メートルほど真下には平たい屋上のある建物。白いワンピースはその床に溶け込んでしまい、太陽の反射光も合わさってとても見え辛いが、結果として少女の頭部がよく目立った。

 そして、何よりも赤々とした血が。

 遠目に赤い円形の面積が一進一退する。
 床に拡がる血液がはやくも蒸発を始めていた。
 頭からどろりとした赤い血や、透明な液体を垂れ流した少女の遺体。

 ───それが、とけていく。
    まるで水に沁みた雪解のように。

 少女の身体が端のほうからきえていく。
 跡形もなく、痕跡の一切を世界によって否定されるかのように。

 血液も太陽熱により蒸発しているのではない。遺体と同じく、端から徐々にとけているのだ。

 完全に消え切るのに数秒も要しなかった。彼の体感的に十秒ほどは釘付けにされていた気もするが、実際は二秒にも満たなかっただろう。

 遅れて確認しに来たひとりの男が怪訝な声をあげ、続々と見物人たちが彼を囲んだが、少女がガードレールの上に前触れもなく現れた時と同じく、彼はただただ呆然と立ち尽くすばかりであった。

 彼以外の見物人たちは、自分たちはこの不可解な現実を共有していると思い込んでいる。落ちていった少女を目撃しながら、その遺体が何処にも見当たらない。疑うのは存在の有無。あれはまぼろしだったのか、と。
 ゆえに、思いも寄らぬだろう。
 少女の遺体が霧の如く掻き消えた事に。
 そして、彼がしっかとそれを目撃していた事に。

 ……且つ、その上で。

 彼の人生の方向性がたった今、この悪趣味な幻覚だけで決定づけられてしまったなどと、夢にも思わなかっただろう。

 青年はあえて、零ゆる少女を探すように、ソラを仰いだ。

 眩い太陽に重なって、一匹の鳥が甲高く鳴いていた。

 ──これは、まさに天啓だ。

 なんて奇跡、どんな運命だろうと彼は笑った。
 どうしようもなく、八年前の感動が蘇ったのだから。


 その事をキッカケに、青年は棲家を捨て去り、歯止めが効かなくなった。

 青年はしゃにむに追い求めた。
 少女の幻影を。日に日に積もり募っては一向に姿を現してはくれない自身のもどかしい欲求、それを満たしてくれるかもしれない唯一の可能性を。時の経過を忘れ去ってまで探し続けた。

 努力は必ず報われる。そんな陳腐な言葉を馬鹿正直に信じていたわけではないが、巡り巡って青年はある場所に辿り着いた。

 その成果のひとつが何を隠そう。

 目の前の椅子に拘束した少年だった。
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