Chapter Ⅵ 前編
白い靄を脳裏に漂わす奇妙な感覚に苛まれるも、その日、詠はいつも通りの時間に起床した。
ボサボサの髪をゆるりと振り払い、寝ぼけ眼にカーテンからの漏れ日を視界に収め、それと裏腹に思考は淀みなく巡り出した。
今日は伯母である晴川雲雀と買い物に出掛ける約束があり、明日は高校の友人たちと遊びに出掛ける約束がある。
だからこの二日、とりあえず彼の事はひとまず記憶の片隅からも追い出し、忘れておかないといけない。
そうでもしないと、おそらく隙を突かれるだろうから。
「よしっ」と一息入れると、詠は彼との出会いにより少しだけ狂った針をそれ以前の軸に合わせ直した。
そうして、久しぶりにも思える、彼とは何の関わりもない一日が始まる。
「ねぇ、詠」
揺れの微かな助手席で車窓の景色を見送り続ける事、おそらく三十分。
ハンドルを軽く握り、前方に注意を払い続けていた雲雀が、隣で暇そうにしている詠に隙をみて声をかけた。
詠は横目にそれとなく続きを待った。
流れゆく景色が緑一色と退屈のあまり、心地よい眠気を誘っていた。
「例の男の子とはうまくいってる?」
「────ッッ!」
一瞬で吹き飛んでしまったけれど。
胸の辺りがきゅっと詰まる。
今朝方、一旦忘れると決めたばかりだというのに……。
これまでは学校の事ばかりを当たり障りなく拾っていた雲雀だが、一つ愉快なネタがぶら下がれば、嬉々としてご覧の有り様らしい。
デリカシーのない伯母を慌てて仰ぐのも馬鹿らしいので、詠はそっぽを向いたまま答える。
「……ノーコメント」
「ああ。うまくいってるんだ?」
見なくとも伝わってくるニヤニヤとした笑み。
詠は苛つきも惜しまず声を低くする。
「なんで……?」
「だって否定したくないから濁すんでしょう?」
「…………」
───図星ではない。
誓って図星などではないが、唇を尖らせてしまう。
「三日連続帰りが遅くなるなんて、今までの詠ならありえなかったことだもの。普通、どうしても気になるでしょう。自分を縛っていた子が、その枷を自ら取り外して外の世界へ飛び出そうとしてる、それも脇目も振らずに。お節介かもしれない親心としては、そこに一抹の寂しさを覚えない訳でもないのよ」
「……その語彙力、自分の作品で活かせばいいのに」
「心配なく。ちゃんと毎日のように奮ってるから」
渾身の皮肉も難なく受け流されてはつまらない。
詠は、力んだ満杯の肺を休めようと、ため息を吐いた。
「……あくまで“友達”ですから」
「あら、あたしはそのつもりで聞いてたけど?」
「え? ……〜〜〜〜〜ッッッ!」
「ま、友達以上の関係をお望みなら、年長者として相談に乗──」
「ぜっっったいに、いや」
すると、雲雀が我慢できないといった様子で吹き出した。
「……ちょっと。ちっとも面白くないんですけど?」
雲雀の気紛れに順路が左右されるドライブ。
手頃な野菜を買い揃えに何処かの道の駅へ向かう途中の車内は、女二人の不器用に歩み寄るような掛け合いで占められて……。
運転席の大笑いを鬱陶しがった助手席の少女が頭を冷まそうと窓を開けると、ぶぅんと耳障りな振動を耳元に触れさせ、ちょうど間が悪く蜂のような虫が飛び込み、悲鳴が上がったのはほんの短い横道。
日が暮れる頃には無事家に着いている。そんなありきたりの日常の一幕は、くっきりとした蛍光の下、詠が微睡みの光沢に沈む最後の瞬間まで、
⭐︎
フードコートは連日の猛暑の如く賑わいを見せ、夏休み中の学生やら子連れの家族やらで犇めいていた。
幼子のサイレンめいた泣き声、
声変わり中途の少年たちの遠慮のない騒ぎ、
張りのある母親同士の団欒などなど。
枚挙にいとまがないほどには、数多の人の姿が散見される。人間観察の展示として申し分なく売りに出せる光景だろう。
詠とその友人たち、計四名もその統率の取れてない群集に溶け込み、一つのテーブルを占有していた。
「とにかく曲がまじ最高だった」
黒を基調としながらも所々に茶髪を流すセミロングの女子、
「わかる。特に最後のピアノね!」
それに若干興奮気味に同調するのは、日本人形のような幼い容姿をした前髪ぱっつんの女子、
「あーね。タイミング完璧、流れがいいんだよ、男の子の懸命に手を伸ばして駆け寄るようなモノローグと引き合う感じのイントロの切なさも。ぶわって込み上げるものがあった」
「わかるわかる! あれが流れたら全然興味ない方から告白されてもオーケーしちゃいそうだもん」
「いや、流石にそこまでは……」
「急にハシゴ外すじゃん。晴川ちゃんは私の想いに応えてくれるよね!」
「えぇー」
と、突然振られた詠は困ったという風に眉を八の字にする。
「やめなさいやめなさい。この子はこういう感想戦には気の毒なくらい弱いんだから」
庇っているのか毒を吐いているのか、どちらとも取れる穏やかな口調でみことから詠を抱き寄せるようにして離すのは、柔めにパームのかかった栗色のセミロングの女子、
詠はされるがまま、その手には赤色をした大きめの紙カップが収まっている。
周囲の喧騒などお構いなしの態度で、自分たちの関心ごとをテキトーに交わしては相槌を打ち合う。
当人たちにとっては至って普通の、いつもと代わり映えしない、仲良し女子の集まりだった。
現在は、先ほど見てきたばかりの恋愛映画の感想を駄弁っているところ。
小説原作の実写化だと詠は事前に聞かされていたが、特に不満らしい不満もなければ、一部シーンを除いてそれほどの印象も残らず、「まあ面白かったのかな?」といまいち首を傾げたような感想を抱きながら劇場を後にし、今は蚊帳の外でストローをそっと咥え、余りのウーロン茶で喉を潤していた。
中身はまだ半分以上も残っている。
「でもでも。私個人の
みことが指を折りながら言う。
「面白かった、部分的に面白かった、どちらとも言えない、あまり好みではなかった、まったく好みではなかった」
それを横で聞いていた飾璃が軽く吹き出した。
思わぬ角度でツボに入ったのだろう。
顔を伏せながら体を小刻みに震わせ、下品な笑いが周囲一帯に散らばらないよう、おそらくはお腹までも押さえていた。
漏れ聞こえてくる途切れ途切れの声は聞くからに息が苦しげだった。
しかし、みことの誇張気味な指摘に対し、詠は心外そうに反論した。
「そう? みことに比べればまあ劣るかもしれないけれど、でも私、けっこう感想言ってると思う…んだけど」
言葉尻が引っ込み気味になってしまったのは、『けっこう』と話した辺りでみことに思い切り首を傾げられたからだった。
「妙に自信がおありで?」
「だって……もしかしたら、口にはしていなかったのかもしれないけど、私だって人並みの感想くらい言えますし」
「はーん?」
そこまで言うならと、みことがその挑戦受け取ったと言わんばかりに掌を差し出して、お膳立てする。
「さあ、晴川ちゃん。今回の映画の感想をどうぞ!」
しかし、いざ求められるとなると、思考がぱったり止まってしまうのもよくある話で……。
「えっと、まあ面白かった、かな?」
「⭐︎3・5…っ!」
みことの眉根の皺から苦々しく染み出たような叫びに今度は耐えきれなかったようで、飾璃がそれはもう盛大に吹き出した。
同時にみことがぶうたれるようにしてテーブルに顎を放った。
詠の隣では先程庇ってくれていた舞までもが必死に笑いを堪えていた。そんな舞が、呼吸を整えたのちに口を挟んだ。
「私の記憶が確かであれば、中盤のキスシーンなんかは詠、熱心にじぃっと見入ってたよね?」
「えっ」「ほう」
唐突に脇腹をまさぐられた思いで詠が舞のほうをぱっと振り向く──その対面の席では、みことがテーブルに両肘をついて意味ありげな笑みを湛えていた。
「詳しく窺おうじゃあ、ありませんか」
もはやどんなテンションなのかも掴めやしない。
しかし、この場の三人にとって、みことのソレは見慣れた光景である。
場の空気が暖まり過ぎると、みことの頬にほのかな赤みが差す。
それこそ今がそうであるように。
酒に酔いしれたようなテンションにアガッてしまうという、いわゆる場酔いだった。
「そんな」と詠は上擦った声を上げる。
「特に何もないよ?」
無抵抗の意を示すようにして、胸元あたりの高さに両方の掌を弱々しく晒し広げ、左右に不規則に振っている。
「その、ちょうど目に入っただけというか」
「──あくまで“偶然”、目に入っただけと?」
詠がこくりと頷く。
みことへ向けられた視線は傍目からでも弱気に映った。
「お隣の色境さんからの証言。熱心に見入っていたという目撃情報にはどう釈明を?」
どこか仰々しいみことの言に乗ってか、『私、見てました』と検察の傍で主張する証人のように居住まいを正す舞。
「それはほら、映画館って上映中は案外暗いし、舞が私のほうを向いた時はキスシーンだったらしいですし、その時の主観的な補正も入って、そういう甘く背徳的な雰囲気に惹かれたというか、だから私が熱中しちゃってる風に見えたんだと思います。そう、つまりは錯覚」
「やけに饒舌じゃん。これは図星かな?」
「……その一方的な論調、ずるだと思うの」
太刀打ちしていたはずが、唐突にルールを張り替えられたような理不尽さがある。
あるいは対話劇から一人芝居への移行。
一緒にやっていた演者がなぜか客席で笑んでいる光景を目の当たりにした感覚が心境としては近い。
言うなれば会話の土台、論理の階層が違っており、初めから対等ではなかった。
これは論を戦わせる舞台ではなく、いかに気儘な風雨を潜り抜けるかの、詠にとって忍耐の試練だったのだ。
「…………」
しかし、その事にいま気がついたところで現状では手遅れだ。
反論せざるを得ない心境に追い込まれた段階では、その後の言動は全て敗残兵の戯言としてあしらうように聞き流されてしまうだけなのだから。
「……何が、望みなの?」
詠の迫真とも評せる負けを認める潔い一言を聞き、みことの口元はこれ以上ないくらいに歪む。
「赤裸々を。晴川ちゃんの歯に衣着せぬ心の声を聞きたい。私の要求はいつもたったのそれだけですよ」
と、なんだか明後日の方角に夕陽が沈んでいきそうな熱いやり取りが交わされる中、そこに淡々と割って入る声があった。飾璃がいつの間にか席を立っていた。
「───あのさ、ヒートアップしてるとこ悪いんだけど。私、トイレ行ってくんね」
「あ、私も行きます」
と、みことがさっと席を立つ。
「私は、ここで待ってる」と詠が座り直す隣では、舞が詠の意見に同調するようにして、席を立った二人を見て微笑む。
飾璃とみこと──二人の背が入れ替わりの激しい人混みの中に消えていく。
先程までの白熱はどこへやら、二人がいなくなった途端に、彼女たちのテーブル席は相変わらずの周囲の喧騒に紛れ、まるで大きな波が去ったかのようだった。
詠はため息を吐き、腰掛けの縁に両手をつくと、背もたれに深く背を預けた。
「なんか、今日は一段と酷かった気がする」
弱々しい詠の呟きを聞くなり、舞が軽く握った手の人差し指の甲を口許にあて、ふふっと一見上品な笑みを漏らした。
「でも今回ばかりは、みことちゃんの気持ちもわかるかなぁ」
「……どうして?」
「だって、詠、いつもと雰囲気が違うもの。どこかぼんやりしてるのはいつも通りなんだけど、そのぼんやりの仕方がね、熱っぽいって呼ぶのかな? ああ、それとも浮かれてるとか? そんな感じがする」
「───えっ。そ、そう?」
うん、と舞にあっさり頷かれてしまい、詠はこっ恥ずかしいところを見られたような、うずうずと行き場のないむず痒さに目がまわった。
まさか、そこまで見られていたなんて──。
思いがけない舞の言葉をどう処理したらよいのか手もつけられず、詠はあたふたと思考を空回りさせていた。
その繊細なほど詰め込まれた無言の間がしばらく誰かの掌の上で転がると、舞がまた笑みを零した。
「みことちゃんではないけれど、さっきの映画はどうだった? 少しは面白いと思ったんでしょう?」
どの辺が面白いと感じられたのかと問われる詠。
急な話題の転換ではあるが、ずっとあの微妙な間が続けられるよりかは断然マシである。
が、しかし、そうは言っても。
「映像作品、特に映画の感想は苦手なんだよね……」
「あぁ、自分のペースで“飲み込めないから”だっけ?」
そう、と詠は頷く。
飲み込めないとは、文字通りの比喩だ。
登場人物の感情や状況の変化などの情報が次々とまだ残留物のあるコップに注ぎ込まれ、最終的に飲み干すはいいものの、口の中に残る味の正体が判然としないまま掴めなくなってしまう。そんな感覚だ。
飲み込むではなく、飲み干す。
両者の違いは決定的だ。
蓄える経験の質が違う。
そうして舌が干からびた感想というのは、得てして面白いか面白くないかの不毛な二元論のみで語られるほかないのだ。
「ようするに、私の場合だと、思考が追いついてないんだと思う。一つのシーンを処理する頃には、次のシーンが始まっちゃってて、それの繰り返しだから、結局なんとなくこうかなって無味乾燥な感触しか残らない」
「なるほどね。確かに感想文は昔からそつないし、別に全くの苦手ってわけでもないものね、詠って」
「うんうん」と、詠は軽く相槌を打つ。
「じゃあ、キスシーンはどうだったの?」
「─────ふぇぁっ?」
「あんな熱心に見入ってたんだから、そこの感想くらいなら流石に言えるでしょう?」
率直な疑問を投げかけるようでいて、実のところ、そうではない。舞の表情は普段通りの真顔を装ってはいるが、その裏ではほくそ笑んでいるに違いない。
「……っ」
詠は答えあぐねる。
その脳裏で有無を言わさず自動的に回想されるのは、舞の言う先程の映画のキスシーン。
近代文学的な内面の自暴自棄な生々しさを灰白色のフィルターに加工して通したような一連の映像。
ちょうど彼女たちと年が近い設定の少年少女が、家出という闇雲の逃避行の中盤、薄暗く手狭なネカフェで盛り合う──無論、年齢制限の範囲内で──といったなかなかに身も蓋もないような背徳的な絵面だった。
それに夢中であったと認識されているだけでも耳が熱くなるほど恥ずかしくて堪らないのに、あまつさえその感想まで述べてみよ、と。
とんだ羞恥プレイである。
「……そんな、蒸し返すほど?」
苦し紛れの反論。
しかし、紛れもない彼女の本心でもあった。
普段の自分の様子と差があるらしいからと言って、一体何がそこまで舞の関心を駆り立てるのか、詠にはイマイチ飲み込めなかったのだ。
それを舞は正面から切り返す。
「気になるわ、とても。だって、以前の詠だったらああいうシーンは完全スルー、眼中になしって感じだったのに、今回だけはなぜか反応がおもしろ──可愛らしいし。これはもうこっちが飽きるまでいじらないと」
「いや、言い直してるけどそれ、結局ぜんぜん意味変わってなくない……?」
挙句に目的もすり替わっている始末である。
「……やっぱり絶対に嫌、恥ずかしいし」
「恥ずかしい? 恥ずかしいと思ったんだ?」
舞が訝しむように微笑む。
「つまり一度は想像したわけね。自分が、まあ相手がどんな方かは不明瞭だけれど、そういうコトに耽ってしまう姿を」
「……ッ!」
どくん、と詠の心臓が跳ねた。
そして一度だけに留まらず、ばくばくと動揺を露わにし、全身が強張った。
まさしくその通りだったからだ。
詠はそれでも自然体を装いつつ、テーブルの上のカップを拾い上げ、ストローを咥えた。
中身は完全に温くなってしまっており、氷は全部溶けてしまったためか、ウーロン茶自体の味が薄くなってしまったことに加え、どことなく塩素特有の苦味が感じられた。
「ふふ、そうするってことは動揺したんだ?」
舞に耳元で囁かれ、今度は詠の肩がぴくっと震えた。
その咄嗟に取った行為自体が詠の動揺を示す兆候であり、肝心の舞には筒抜けだったようだ。
ずずず、と間の抜けた音が鳴る。
ストローがカップの中身がもう空っぽであると無情にも告げていた。
平静を保つ頼みの綱であった味の薄いウーロン茶もこれで底を突いてしまった。
隣からの視線は依然として切れない。
手持ち無沙汰同然のカップの軽さはあたかも彼女の浮ついた気分を浮き彫りにした。
詠は惜しみながらもストローから唇を離し、俯き気味だった面を上げ、舞を流し目につんと唇を尖らした。
「───だから、なによ?」
その頬と耳には、微かな赤みが浮かび上がっていた。
「まあ」
詠のそのしおらしい反応には予想外であったようで、仕掛けた張本人であるはずの舞が目を丸くしていた。
飾璃とみことの二人が戻ってきたのは、それから直後のこと。
舞が口を開きかけようとした一瞬、詠が二人の姿を人々の行き交う隙間に見つけるや、小さく手を振ると、飾璃は怪訝に目を細め、みことが少々首を傾げつつもそれに手を振り返す。
舞はそこで追求する機会をまんまと逃し、対して詠がほっと胸を撫で下ろす束の間、四人でこれからの予定を軽めに駄弁ると、彼女たちは一緒になって席を立った。
それからも退屈しない休日は続いた。
新作の洋服を見て回り、
期間限定のスイーツは行列を前に折れ、
蒸し暑い曇り空には軽いノリの愚痴を垂れ合い、
予定になかった寄り道は数知れず、
それぞれの帰路をいつも通りの何気ない会話の中で別れると、
夜道が伸びる頃には家に着く。
ありふれた一幕が連綿と透しのように織り重なる記憶の様は、例え物質的な価値に換算されずとも、詠にとっては何物にも代え難い大切な日常の象徴であり、おそらくは一生残り続ける形なきものだった。
