Chapter Ⅵ 前編
肌身を晒して、野生に帰りたくなるほどの猛暑だった。
今日も今日とて遠くの木立では油蝉が翅を震わせ、ジージーと真っ青な空にがなっていた。
陽炎は電柱を途切れ途切れに燻らせ、アスファルトを鏡面張りの水溜りで覆い、有り余る熱が道行く少数の人々の眼を惑わした。
茹だるような日中、日除けに帽子を被った詠は伸ばした髪を遊ばせながら、通学用の冴えない自転車を走らせ、幹の住まう研究施設めいたアパートに訪れた。
キャミソールの上に肩を露出させた半袖のブラウス。
ショートパンツより晒された太ももが白々と日光を跳ね返し、身に纏う雰囲気は淑やかながらも溌剌とした生気を覚えさせた。
ガラス戸を押し開けて、日陰の通路に踏み入る。
道順は昨日と寸分の狂いもない。
ただし、足の運びは心持ち固かった。
意識しないよう極力頭を空っぽにしながら歩みを進めているようだが、昨日のやり取りが寝て覚めても尾を引いており、澄まし顔もドアまで距離が縮まる次第に強張っていった。
スチール製の障壁が昨日と同じく立ち塞がる。
機械仕掛けのように無心でインターホンを押し込む。
仄暗い蒸し暑さに取り囲まれ、詠はうっすらと汗ばむ首元にそっと指の甲をあてつつ、控えめにブラウスの胸元の衿を仰いだ。
───ガチリ、と。錠が回る。
幾許も経たないでドアが開かれた。
その僅かな間に詠はさっと我が身を見下ろし、佇まいを正す。
「───」
「………」
数秒ほど無言で見つめ合う二人。
険悪な雰囲気を彷彿とさせるが、その実、密室のような熱を孕んだ空気感。
帽子の陰からつんと氷細工のように取り澄ました顔つきで見上げてくる詠に、幹は当惑を交えた少しぎこちない笑みで応じた。
「今日も来てくれたんだね」
白地のゆったりとした半袖シャツ、黒めのイージーパンツと彼女の伯母のようなシンプルに楽を追求した出立ち。
顔色は流石に良いとまでは言えないが、昨日ほど悪くもなく、起き抜けに応対に出たわけでもないようだ。
「…………」
問題ないらしいと見て取り、詠がさっそく用を口にしかけた時だった。
「服装もなんだか…うん、君に似合ってる」
「え、えっ。な、なんで急に、褒めてきたんですかっ?」
「いや、君がじっと見つめてくるものだから。昨日と感じも違うし、感想を求めているのかと」
「べ、別にそういうのじゃないです!」
詠は咄嗟に帽子を深く被り直す。
時期が悪い。
要らない汗までかいてしまった。
息を整えてから、詠は喉元につっかえさせたままの用事を取り直すように言い放った。
「本の片付け、結局昨日できず終いでしたから」
「ああ、そういえば確かに。君もなかなか強情だね」
まあ上がってと幹は笑い、ドアを手で押さえたまま、道を開けるようにして詠を部屋へ招き入れる。
「……お邪魔、します」
平常心を取り戻しつつ誘いに乗る。
日々の不摂生を表すかのような彼のほっそりとした腕が伸びており、ドアの横を過ぎれば彼そのものの気配が間近に感じられ、玄関まで入り切ると、背後でがちゃりと鍵を閉められた。
そこに不覚にも心臓の一拍が重なる。
充満した涼気が腕やふくらはぎにピッタリと張り付く。
部屋の薄暗さは相変わらずだ。
しかし、様相は明らかに変わっていた。
まず古書の奥に埋もれていた布団が仕切りを跨いだ玄関のあるこちら側の部屋にまで移動させたようで、今は開かずの部屋のドアの前に折り畳まれている。
そして布団の代わりに空いた奥のスペースには、文庫本が山積みされた楕円状のテーブルが据えられていた。
別の部屋に移したのだろう、密集していた古書も一部その数を減らし、また積み上げ方や並びは昨日と比較して整然としており、全体的に余裕が生まれていた。
──意外と捻くれているというか、素直じゃないというか。
彼女の来訪を予想外とでも言うようなリアクションをしておきながら、ちゃんと準備はしてある様子だった。
詠がそうやって玄関から部屋を軽く観察しているうちに、視界の端で影により青白くなった布地が流れると、幹が背中を晒して前に躍りでた。
「外、結構暑かったろう。昨日はなにも用意できなかったけど、今日は大丈夫。冷たいお茶くらいなら出せるし、君に貰ったゼリー、あれも一緒に食べよう。僕ひとりには勿体ないからね」
「……そんなことないですけど」
ボソリと言う詠。
サンダルを脱ぎ、框を踏み、それからサンダルの並びを揃える。
「あっ」
そこで幹が急に声を上げた。
「? どうしたんです?」
「あのテーブルもこっちに移動させとけばよかったなと思ってさ。うっかりしてた」
「お構いなく。気にしませんから」
やんわりと微笑み返す。
昨日は彼一人の状況に対する気まずさから。
一緒であるぶんには思い煩うこともない。
適当な場所を見つけて、詠はちょこんと床に正座する。
初めに麦茶の注がれた、何の装飾も施されていない透明なガラスのコップを手渡され、それから味のイメージに添った色合い──詠のはオレンジ色だった──の堅めの紙で包装された容器が膝下に置かれた。
その上には小さなプラスチックのスプーンが乗っかっている。
対面から若干右に逸れた位置に幹が腰を下ろした。
「幹さんって私のこと、君って呼びますよね?」
唐突な指摘に意味を掴み兼ねたのか、コップを掴むまでの彼の動作が鈍っていた。
「もしかして、嫌だった?」
「嫌、ではないですけど……」
不満はある。
詠は彼の事をさん付けとは言え下の名前で呼んでいる。
対する相手は頑なに二人称と来た。単純に距離を感じるし、それに味気ない。
不平等だ。
「じゃあ、晴川さん?」
「………」
「詠さん?」
「んー……」
「詠くん」
「それはなんか…助手みたいです」
「詠ちゃん」
「──────」
どきりとした。
幼い頃にはありふれていた、今も一部の友人に呼ばれている一つの響きに過ぎないのに。
明らかにそれ以上の不可逆的な
草原を撫でる風の余韻が、じんわりと内に染み渡る触感。
それほどのもどかしい既知感だった。
「それ──」
隠微な興奮に息を急かされ、詠は無意識に僅かながらも身を乗り出していた。
「その呼び名が、良いです」
「そうかい? 流石に子供っぽい気がするけどね」
「全然っ。むしろそれ以外ありえないです」
「そんなに?」
詠の過剰な反応に圧されて、幹は呆気に取られたように笑った。
「じゃあ、今度からそう呼ばせてもらうよ」
「はい!」
昨日の夕暮れ、別れ際の深刻さは片隅へ除けるように。
斯くして、和気藹々と三日目の交流が始まった。
古書を抱えられる限り抱えながら、詠は幹の住まう部屋から回廊に出ると、慣れない足取りで隣の部屋に移る。
両方ともドアは開きっぱなしのため、出入り自体はスムーズだった。
その移動中、日陰たる回廊においては中庭に差し込む陽の光が自然と目を引き、必然それを浴びる枝垂れ柳にも関心が向いた。
「むしは古本の大敵と言うけど、大丈夫なのかな?」
首元まで迫り上がる古書を下目に、そんな事をぼやきながら玄関を潜り、框の上に一旦それらを置いた。
その奥では幹が一冊ごとに古書と睨み合いながら、書棚の整理に勤しんでいた──いや、というよりも、あれはもう一度読むか読むまいか頭を悩ましている顔だ。
彼が片方の一冊を棚に収めながら話しかける。
「虫食いのことなら心配いらないよ。中庭の鉢植え、あれ全部虫除けなんだ。それ以外にも対策は施してある。自慢じゃないけど、これでも一応、抜かりないつもりだ」
「聞こえてたんですかっ?」
片足立ちでサンダルを脱ぐ手を止めて、詠が上擦った声を上げた。
「そりゃね。君の声は通りがいいし、なにより綺麗だから」
「───…っ」
平気な顔で言うのは、本の整理とは名ばかりの検分に思う存分意識が向けられているからだろう。
しかし、これでまったくの空返事ではない。
受け応えはしっかりしている。
だから、素でああいう口説くような言い草なのだ。
───いちいち気に留めていたら、きっと
「ここに置いときますね」
詠は普段の用途がイマイチ掴みがたい長方形のダイニングテーブルの上に古書を積み上げた。
語調に釣られ置き方もちょっぴりなおざりなのはご愛嬌だ。
テーブルは暖かい色合いの一般的な木目調、家族四人が扱うぶんには申し分ない広さをしている。
「ん、ありがとう。助かるよ」
彼からのお礼も早々に翻して回廊へ出る。
すたすたと中間くらいまで歩くと胸に手を当てて、詠はほっと息を吐いた。
今度は彼の耳に届かないよう声を潜め、
「……びっくりしたぁ。
声が綺麗とか、思ってもふつう言わないでしょ」
ほんと、変わった人───。
そう文句を囁きながらも、彼女の口許は緩んでいた。
ささやかな喜びは歩調にも表れ、瑞々しい大きな花びらの上を舞うような身軽さで詠はまた作業にあたっていった。
「ここまで手伝ってもらっておいて不躾な質問かもしれないけど、もう八月に入ったというのに、僕なんかに構ってて大丈夫なのかい?」
作業にも一段落がついた後、最初の頃よりもすっきりとした彼の部屋を二人して眺めながら、休憩中に彼女の隣からあんまりな発言が飛んできた。
確かに不躾といえば不躾な質問で、仮に相手が彼でなければ、詠はまともに取り合わなかったかもしれない。
「……そういうとこ、けっこうノンデリですよね」
「の、のんでり?」
「デリカシーに欠けてるって意味です」
「──…うっ。そうかな?」
「そうですよ。こっちは好きでやってるって、何度も言ってるのに。ちょっと心外です」
昨日のことを考えれば仕方のないことなのかもしれないけれど、信用されてないようでちょっぴり傷ついてしまう。
「それと!」
詠がびしっと人差し指を立てる。
「自分だけを卑下してるつもりなのかもしれませんけど、それ、幹さんに構ってる私のことも貶めてるんですからね」
詠の鋭い指摘に幹が意外そうに目を見開くと、次いで天井を眺めるようにして微苦笑を浮かべた。
「あはは、これは痛いところ突かれたなぁ。
ごめん、確かに考えが足りていなかった」
しかし、それはそれとしてまだ懸念点があるようで。何かを聞きたそうな眼差しを向けてくる幹に、詠は細目で応じた。
「……何を心配しているのか知りませんけど。明日と明後日は家族や友達との予定が入ってるので、こっちには来れません。だから、今日中に片付けちゃいましょう」
ほら、立ってください──と、詠が強引に幹の腕を引っ張る。
対する幹は、自分に妹がいたらこんな風なのだろうかと詠にとっては不都合と言っていい想像を巡らしながら、もったいぶるように立ち上がった。
古本整理の手伝いはその後も順調に運ばれ、その折、思いも寄らない接近に胸をときめかせたり、共通の趣味につい立ち話が弾んだりと、終始前日の病的な不穏はどこ吹く風、大それたハプニングもなく一日を終えた。
……ただ、それでも気にかかる事があるとすれば。
彼が一度だけ席を外すと言って開かずの間へ入っていったと思ったら、見逃したつもりはなかったのに、指示通りに本を運び出していた時、殆ど手付かずだというアパート一階の右奥の部屋からいきなり姿を現したのは、果たしてなんだったのだろう、と。
耳朶を撫でる湿った風と、松虫の震え。
名残の陽も山影の奥に尽きる、仄暗い水色の空。
街灯が点々と急勾配の坂道を照らし、自転車を押す幹の背中を見詰めながら、詠はそんな疑問を反芻した。
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