Chapter Ⅵ 前編
水平線の彼方より、夕陽が海面を染める。
雲と影、空と雲、それらを別け隔てる境界線は溶け合い──橙を帯び始めた雲の向こうには、清涼青々とした空が控えている。
波が寄せ、潮風が彼女の黒い髪をありったけさらい上げていく。
風は鬱蒼とした小高い山を昇っていった。
刃先のような砂浜にちらほらと人の影が見られる。
おそらく地元の子供たちが上半身裸で走り回り、学生やその家族が思い思いに戯れていた。
そんな一緒くたの風景を離れて、波打ち際を沿いながら、詠と幹の二人が一歩ずつ足跡を刻むように歩んでいた。
五歩刻む毎に、潮騒が時の経過を唄った。
無論、柔らかな砂に足を取られながらの歩みなので、精度は埃の染み付いた古時計ほどもない。
しかしそれゆえ、まるで合奏しているかのように嵌る瞬間があると、そのたびに詠の歩調が小気味よく弾んでしまっていた。
──なんて単純な自己。一時の幻想めいた情景に抗う術もなく、心が流されている。
「なんだかとても楽しそうに見えるけど、海は初めて?」
「いいえ」
詠は背後を振り返ると、幹に微笑みかけた。
「流石に初めてではないですよ。
自分の記憶を振り返りながらも、その記憶に確証を持てずにいるような希薄性を節々に漂わせ、詠の口振りは闇の中の探り探りのものだった。
「…………。ということは、結構久しぶりなわけだ」
「はい!」
波の声が一段と高まる。
漣が彼女の素足に絡み、勢いそのままに踝をも呑み込む。
それに小鳥のような驚きの声を洩らしつつも屈託なく頷き返す詠の後ろ姿を、幹は眩しげに目を細めて見ていた。
それはそうとして。
どれほど他人事のように薄らいだ触感であろうと、大切な記憶には違いなく、いい思い出に変わりはなかった。
詠は思い出していた。
波風に煽られた心地よさと、
助手席から仰いだ雲隠れの粒々とした青空を。
気が付けば両親を亡くしていた八年前。
それから忽然と一年が経ったとある日の早朝。
雲雀は唐突にただ一言「海に行こう」とだけ一方的に言い放つと、日々闇雲に世間を彷徨き回る、まさに生きる屍のようだった幼い彼女を街の外へと連れ出した。
人の一生よりも杳々と広大かつ深遠な海のすぐそばまで。
細めの丸太で組まれた簡素な柵越しの海を目前にしても感動はなく、砂浜に降り立っても、その膨大な量に圧倒されることはなかった。
悪戯に途方もない広さへの寂寞が潮風を伴い迫るばかりで、悠久の景色に抱く感慨はそれだけだった。
だから、その時の詠は別の何かを求めて、伯母のはっきりとした横顔を見上げたのだ。
……根拠もなく湛えられた薄い笑み。
恐れる事は何もないと大胆に物語る立ち姿に、詠は衝撃を受けた。
それらの力強い印象は、今でも心の奥に構えていて、まだこの世界に生きていようと思わせてくれている。
一言も語ろうとしなかった伯母の意図など、当時はおろか、現在の詠にも与り知らないこと。
ただそれ以来、詠は他の物事に関心を持ち、目移りするようになったのだから、何も感じなかったわけではないのだろう。
少なくとも、無感覚ではなかったのだ。
「───わざとですよね?」と詠が問い質す。
不承不承と口許を尖らしてはいるが、今し方の楽しげな声の弾みを隠しきれていなかった。
「いや。案外そうでもないさ」
幹が呆れるようにして首をすくめる。
言うまでもなく、自分自身に対して彼は心底呆れていた。
「なんというか、行き当たりばったりだよ。終わり良ければ全て良しという成句があるが、すべて僕の醜態に因るのだから、やっぱり格好がつかない。この際、笑ってくれると助かる」
ふふ、と詠は上機嫌に笑みをこぼす。
「寝不足は大敵でしたね?」
「まったく。しかし、後日といいながら翌日に訪ねてくるせっかちな子がいるとは思わなかったな」
「───うぅ。
そ、その節は、はい、申し訳ないと思ってます……」
「冗談だよ」
そんな彼女の大袈裟に畏まった態度に思わず吹き出しつつも、幹はそう言って笑い飛ばしてみせた。
二人して顔も見合わせず笑い合う。
何が可笑しかったのかも大して意識しないまま、胸に手を当てた際に感じ取る若干の鼓動程度の愉快な気持ちに引き摺り込まれては、空に海にくすくす笑い声を散らした。
湯水のように幸福が打ち寄せる
まるで、今まで使われてこなかった炉が何かの拍子で回り始め、感情を揺り動かす内燃機関が起動するようになったかのようだった。
それほどの制御の効かない情動が詠の背中を、足を、胸を押し上げては止まないのだ。
そして一頻り笑い終えると、詠は肩で息をした。
「久しぶりです、こんなに笑ったの」
その一言に幹が同意を示した。
それだけの共有で胸の底からじんわりと熱が広がる。
詠はそっと胸に手を当てて、自然体を装いながら深く息を整えようとした。
──かつての私とは、まるで別種の生き物だ。
門出幹との出会いより、そう思えてならなかった。
それ自体が直接的な原因ではなくとも、そこにはある種の必然性を呼び込む因果が潜み、目には見えない力が作用し、自分をこの現状に縫い止めている。
急な変革に平静を維持できない。
俯瞰から降ろされる。
無関心の薄皮を剥ぎ取られてしまう。
だからこそ、不安の種がここで芽吹き、口を衝いた。
それは、何気ない吐露のつもりだった。
「───昨日の昼間。私、コワイ夢に遭ったんです」
真夏の深夜。
夏虫たちの絶叫。
人気の絶えた住宅街に暗がりへの舗道が延びる。
蛾の集った電灯と一本の柱。うつ伏せに斃れた男のヒト。
背中の刺し傷。
ソレが突然起き上がる。
操り人形のようだった。
第一印象は知り合いの誰かと似ていたが、うまく思い出せない。
そうして身動きもできず、とうとう意識が限界を迎え、見上げた先には太陽が燦々と鎮座していた──。
……現実感を持ち合わせた不気味な夢は、何も初めての
内容だけに的を絞れば時折迷い込む夢の一パターンに過ぎない。
先程見た夢と大差はない。
しかし問題なのは、それが白昼夢だったという点だ。
前触れもなく現実の延長線上に立ちはだかり、真夏日のもと、彼女の意識を容赦なく刈り取っていった。
……もし。
──そう、これは、あくまで万に一つの可能性。
……もし、あの白昼夢に見舞われて以来──彼の部屋で目が覚めた瞬間から今に至るまでの出来事が余す事なく、単なる幻だとしたら。
──いや。そんなことを今更宣うくらいなら。
詠は首を振る。
……ぎりり、内側で吹き返す音、音、音。
圧迫された心臓、
ピンと張る糸、
蛇口を捻り脳神経を遮断する。
断絶された感覚と、ノイズが耳朶を障み、黒い渦巻きが縮こまる彼女を呑み込んだ──。
「─────っ…ぁ」
呼吸を思い出す。
白昼夢の残照が手元で波打ち、それは蝉時雨じみた鼓動かと感じれば、砂浜との一線を引く木立の陰でまさに蝉が雄叫びを上げた。
足許を浚う漣と、まばゆいばかりの反照。
水平線の垂直上にて口を広げた黄道の孔が雲間より白金色の絹を垂れ流し、海面を煌びやかに光り輝いて見せている。
じき、白を落とし、黄に着く。
真夏のしっとりとした生暖かい潮風が彼女の長く伸ばされた黒髪を梳く。
この世界は水槽の脳が見る夢。
幸福に対する疑心暗鬼の表れがそんな幻覚への恐れ。
いつものように無意識下に、その一切を拭い去ることはできなかった。
「───ねぇ、幹さんならわかる?
私が遭った、白昼夢の正体」
水を吸えなくなったシクラメンのように引き絞られた唇、切なげに濡れた瞳が夕陽の赫きをより鮮彩に落とし込んでいた。
互いに相手の瞳を見据え合い、数秒ほどで詠が先に折れ、照れ笑うように目を逸らした。
「ああもう、何話してるんでしょう、私。……ごめんなさい。いきなりこんな病んだ話されても、どうしようもないし、全然意味不明だし、迷惑ですよね、ほんと」
忘れてください──。
そう言うと、今度は所在なげに目を伏せた。
出会って二日しか経ってない相手に、一体何をぶつけているのか。
昨日彼の前から逃げ去ろうとした時と似た性質の熱が、彼女を苛んだ。
どうしても、顔を、見られたくなかった。
──もしかして、期待、してたの?
自身では導き出せない答えをくれると。
優しげな声音で、見えない暗闇の先を諭してくれると。
勝手に期待を寄せて、その挙句に今、失望の底に身を投げしようとしていた。
馬鹿だなと嘲る声は、紛れもなく彼女自身の内から沸いたものに違いなかった。
じっとままならず立ち尽くしている。
まるで幽霊を恐れる子供のように目を閉じて、暗闇に閉じこもり、混沌の内に自己を陥しいれ、未だ希薄な夢に囚われている。
茫々と打ち寄せる波の音とその絡みつくような生暖かさだけが、彼女を自覚させる現実だった。
その時──。
ふっ、と誰かが手を取った。
痛くないくらい力強く、握られた。
いや、この期に及んで誰も何もない。
この場に彼を措いて他に誰が彼女の手を取ると言うのだろう。
「───うたた寝はいけないと叱ってくれたのは、君だったろうに」
恐る恐る顔を上げると、目の前にはやはり彼がいた。
優しげな笑みこそ浮かべてはいるが、表情にはそこはかとない悲愴感を纏っていた。
詠には不思議だった。
とても、目が離せない。
どうして……。
どうして、この人は──。
「……どうして、あなたがそんな顔をするの?」
「……どうしてだろうね、僕にもわからない」
…
帰るにはまだ時期尚早とあってか、バスの乗客は詠と幹の二人だけ。
閃光めいた日差しがほぼ真横から二人を殴りつける。
しかしそれも山道の入り口付近に差し掛かれば、何重にも張り巡らされた木々のベールに阻まれ、急速に光の手が剥がされていき、車内は涼やかな森の影に覆われた。
すると、静まり返ったかのような平穏が訪れた。
耳にひびがみしみしと入っていくような振動と無言の中、不意に幹がその静寂を突いた。
「僕には、中学三年以前の記憶がない」
「え……?」
詠が窓の景色から首を持ち上げ、幹を見遣ると、彼は通路を挟んだ向こう側の窓の外を眺めていた。
「現実との乖離感を埋めたのは知識だった。ひたすら文字の連なりを追い、人々の思想と触れ合い。僕はそうして、自分の隙間をなくしていった」
「……恐く、ならなかったんですか?」
「ああ、そうか、君はそこで挫折して……だから」
しばらく絵にもならないごちゃごちゃとした風景ばかりが流れていき、詠はただ、その続きを待った。
「世界との繋がりを保つ為、その頃の僕には、書物に蓄えられた知識しかなかったからね」
と、田園風景を視界に収めた丁度、幹が一息に笑った。
「───しかし、僕は超人であれなかった」
幹が静寂の渓流に橋を架けるように言葉を繋いだ。
「すると、僕の友人はこう笑ったんだ、『君は君でしかない』と。なかなかに悲観的な解釈だ。あれは言うなれば超人礼賛、ツァラトゥストラの足跡を追った物語に過ぎないと。単なる紙面上の理想論、フィクションだとね。……その考えに僕は一度頷いてしまった。自らこの苦しみを放棄した。手元には往く目処もない知識だけが残されていた。毎日が惰性だった」
「………」
昨日の自信に満ちた口振りと、今日に見られた強迫的とも取れる生活態度との乖離。
そのもやもやとした痼りが次第に氷解していく。
門出幹は、見かけの安穏な冷静さに依らず、見栄っ張りなのだろう。
「毎日が夢の続き。僕も君と変わらない。だから──いや、これは止そうか」
仄かに自虐の籠ったその笑みを、詠は遣る瀬無く瞳の中に溜め、それが長年凝りに固まった不安や不満とぶつかり合い、解き崩れ、喉元に迫り上がると、何か湿った感情が口を衝いた。
「───私も、昔の記憶が曖昧なんです」
「…………」
「きっかけも、よくわからなくて。ずっと夢を見ているみたいな気分で、毎日を過ごしてました。今も、それは変わりません。そしたら本当に、真っ昼間から夢を見る羽目になっちゃって、それも悪夢なんですから、ままなりませんね」
詠が少しでも重たい話題を紛らわせるように軽く笑みを繕った。
「でも、幹さんといると、気が楽になるというか、懐かしい気持ちになるんです。ただ傍にいるだけで……身勝手かもしれませんけど」
「そんな事はないさ。誰かに頼りにされるというのも、気分としては悪くない。ましてや君のような可愛らしい子ともなれば尚更ね」
「……そういう事を真顔で言える人とは知りませんでしたけど」
「それに相互補助が関係の理想形だ。君が僕に友人関係を求めるというのなら、先は長い。その中で今回のように話を聞いてほしい、僕の助けを借りたい時は、いつでも相談に乗るし、微力ながら力を貸そう」
「───。あの、どうしてそんなにも、私に優しくしてくれるんですか? 昨日からずっと、迷惑かけてばかりなのに」
「特に理由はないよ。こういう性分だからとしか言いようがない。弱ってる人から、目を離せないんだ」
「…………」
最後の一言が、不可解にも、ちりちりと胸を炙った。
車内には弛緩した空気と、若干の倦怠感を漂わせ、ひぐらしの折り重なる唄声が、後を引いていた。
その夜。
詠はベッドへ倒れ込むように突っ伏し、寝転がりながらふかふかの枕を抱えて仰向けになった。
からりと音が空いた部屋は、いつもよりも大きく感じられる。
エアコンの風が微熱を保った首元を撫でるような手つきで吹きつけていた。
放心するようにしばらく天井を眺めていると、輪っかの電灯に夕陽の残影が重なり、それを引き合いに砂浜での出来事が徐ろに再生された。
終点は、彼の意味深長な表情だった。
乗じて、掌の冷たく乾いた感触が指先に灯った。
下唇を喰みながら、枕に口許を埋める。
その仕草はまるで咄嗟の行為を羞じるかのようだ。
「………………」
枕を抱えたまま横向きになり、ベッドの端っこに投げ出されたスマホを手に取ると、カタカタと指で画面を叩いた。
[今日のこと やっぱり忘れてください]
しばらく悶々として、不意にバスでの彼の憂う色に染まった顔を思い出し、文面を削除した。
──だって、こっちが忘れられそうにないから。
詠はスマホを放って、枕に力いっぱい額を押し付けた。
そして、明滅する瞼の裏が息詰まった頃合いに、ぷはっと顔を離し、頬を涼めた。
[今日はその、ありがとうございました]
一見淡白な一文、それでもやっとの思いで返信した。
熱帯夜は、静々と壁を隔て更けていった。
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