Chapter Ⅵ 前編

 本格的に栄えた街のほうまでは出ず、二人はその道中のバス停近くに広々と口を開けたファミレスへと入店した。
 本の整理に掛かる時間を考慮しての詠による速やかな判断である。
店内は程よく賑わっていた。
 夏休みという世情もあり、家族連れが目立つ。
 もしかしたら高校の同級生がいるかもしれない。

 しかしそのような警戒心は、詠の中からまるっきり失せていた。
 彼の生活改善に殆どの思考が占められていたために。

 待ち時間や食事の際に交わされた二人の会話は、当たり障りのない内容に留まった。

「専攻は人類学、中でも自然人類学が主だね」
「自然……?」
「簡単に説明すると、遺伝形質や骨格の構成などから人類の進化の足跡やルーツを辿る分野かな」
「……んー、微妙に解釈不一致です」
「微妙になんだ?」
「あれほど哲学の解釈をすらすらと言えるので、もっとそっちよりかなって勝手に思ってました」
「哲学はあくまで趣味の一環だよ。いや、生き甲斐の一種? いずれにしても、大学に求めてはいないかな」

 学校や勉学のこと、最近の流行も挟んだりと節操なく話題を転がしていき、帰りのバスでは、いつしかこの手の話題に立ち返っていた。

「心理学にも手を出したんだ?」
「はい」
 と、詠は一段落着いたといった様子で頷く。

 転機は確か、詠が一時期、歴史に傾倒していたことがあったと話し始めた辺りからだろうか。
 そんな話題に事欠かない歴史の中でも、それぞれの時代における人々の生活風景に関心があったと詠は切り出し、幹が補足するようにして打ち出した文化人類学の初歩を飛び台に、追憶はその深部へと足を踏み入れていったのだ。

「きっかけはさっき部屋で話した〈死に至る病〉…でしたっけ? それと似た感じになります」

〈死に至る病〉の場合と異なる点は、中身をまず流し読みしてから購入を決めた事になる。
 どの種目にもっとも興味がそそられたのか、明瞭な理由もなく、感性に依る部分は大きいものの、彼女なりに精査した。
 そうして最初に手に取ったのが、社会心理学に関する書籍だった。
 それがもっとも、彼女の心の琴線に触れた。

 以来、詠はちょくちょく心理学に関する書籍を購入しては、細々と無理のないペースで読み進めている。

「なら、大学は心理学部に入るのかい?」
「それは……どうでしょう。まだわからないです」

 と、曖昧に濁すが、しかし今のところ、他に関心が続いているものもなかった。
 一時期は熱に浮かされたようにさまざまの本を読み漁ったが、今ではその熱も引いて、散々掘り尽くされた鉱山さながらの荒涼な心境が進歩を止めている。
 潤いのある山岳を遥か先に、萎びた大地の上、詠は数年以上も跪くままでいた。

 過ぎゆくバスの窓より、詠はぼぅと空を見上げる。
 遥か上空の雲はあれよあれよという間に形を乱すが、この地上においては停滞するかのように風が微弱だ。
 活きているのは太陽の反照ばかり。
 盆地のために、いつにも増して日差しが猛威を奮っている。

 現在時刻は午後二時と少し。
 熱暑は依然として地上に烈しく照りを出し、衰微する風がなかった。

 するとそこに、とん、と何か重たいものが突然彼女の薄く頼りない肩にもたれた。

 詠は反射的にぴくりと肩を震わせて、心の隅では事態を察しながらも、なんだなんだと盗み見るように首だけを回し、さっとその方向を確認した。

「………」

 案の定、そこでは気持ちよさそうに幹が眠りこけていた。
 眼鏡が落ちそうになっていたので、つい外してしまう。
 無防備な寝顔。
 眠る時は誰もがそう童心に帰るかのように、目元や頬が緩んでいる。
 徹夜明け後の外食にバスの無作為な揺れと来て、とうとう眠気に耐えられなくなったのだろう。

 少し前の会話を振り返ってみれば、彼の口調は過剰なまでに流暢を装っていたように思う。
 相当眠かったのだ。

「次で降りないといけないのに……」

 こんなにもすやすやと寝入っていては、急いで叩き起こすのも気が引ける。

 しょうがないと言わんばかりに詠は嘆息した。

 やらなければいけない事が文字通り山積みではあるけれど、きっとこういう日があってもいい。
 大丈夫、待つのは慣れっこだ。
 何処が終着だったかも今は棚に上げて、ただ身を任せていよう。

 外界の一分一秒を争う灼熱を他所にこの緩行とした車内においては、ひたすら静かな時が流れていった。
 
           ◆
 
 空蝉が吠えていた。

 えんえん、えんえん……と、警鐘が鳴っているみたい。
 ここにいない誰かを必死に呼び戻しまいと、哭いている。

 涼風の密閉されたリビングを駆け巡り、そこでは外界での苛烈さも乏しく木霊する。

 まるで鐘を一心不乱に掻いたような騒がしさで、それが室内になると堪らなく寂しげに響くものだから、少女はやっと耳を塞いだ。
 その懸命な声に起こされて、いまにも泣いてしまいそうだった。

 伽藍がらんとした家にひとりきり。
 無闇に広い家の一角をひとりじめ。

 円光による黒白の対照がテーブルやソファにべっとりと張り詰めている。
 このままじっと見つめ続けていれば、いつか部屋全体が影の内に沈んで消えてなくなるように少女には思えた。
 自分もはやくそうなればいいのにと、少女は瞳に涙を溜めながら考えた。

 ……それがとても恐くて、ソファの奥側から一歩も動けなくなる。

 三人掛けのソファの上で膝を抱えながら、口許を埋める少女。

 白昼の零時を告げようと、時計の針が音もなく廻る。

 そのとき、遠くで音が鳴った。

 ──ガチリ、と。

 親の帰還を厳かに告げる、たった一度切りの合図。
 
 ……そうして。
 血塗れの骸骨が、リビングのドアをくぐって、現れた。
 頭蓋を横一線にぱっくりと開いて、肝心の中味は、空っぽだった───。
 
           ◆
 
 きらきらと散らつく戦慄きに、詠は目を覚ました。

「……ぇ、あれっ?」

 大急ぎで頭を起こし、前方を横目に窓の外を確認した。
 あれから乗客は一人も増えないまま──どころか本格的な夕暮れ入り前のどことなく閑散とした空気感だけを漂わせつつ、路線バスは峠を越えて、詠の気がついた頃には、砂浜沿いを真っ直ぐ走っていた。

「───おはよう、早いお目覚めだね」

 早々呑気な声が隣から掛かり、詠は何とも言えない気持ちで振り向く。

「……起きてたんですか」

 そこで幹が出し抜けに詠へハンカチを差し出した。

 燦々と降り注ぐ陽の下では、車中といえど白い無地が一際輝いて見える。

「……? あの?」

 しかし差し出されたとうの詠は彼の意図が読めず、困惑は視線の動きに如実に表れ、ハンカチと彼の顔とを往復した。

「涙を拭うといい」
「─────……」

 はっとするように、詠は指先を頬に持っていった。

 ひたり、と指先が濡れる。

 人差し指の平に付着した小さな一雫が、真夏の太陽の余光を切に照り返していた。

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