Chapter Ⅵ 前編


 薄暗い一室に通されても、不安は少しも湧かない。

 部屋に招き入れられると、詠は開け放たれた仕切りの前で立ち往生する羽目になった。
 足の踏み場もないとはこの事。
 周囲のあちこちに水溜まりが広がり、本の隙間はほんの僅かに顔を覗かす地面のようだ。
 あるいは、薄明の墓標と化した都市を見下ろせば、おそらくこのような雑然とした景色になるだろう。

 カーテンを締め切った部屋に埃を被った配色の中では、部屋の奥に敷かれたままの布団が蛍光のように仄かな青光を放っていた。
 その姿には砂浜に乗り上げた鯨のような哀愁がある。

「あの、気のせいかもしれないですけど……。いや、でも──やっぱり、明らかに本、増えてません?」
「君の目には、そう見えるのかい?」
「それ、逃げ口として弱いと思います」

 呆れ気味に睥睨する詠から、幹はそそくさと目線を明後日の方向へ逸らした。
 私生活の奔放振りには、時の経過になすがままの倉庫の如き光景を作り出した張本人でも、多少の引け目を覚えているようだった。

 依然として本棚に空きが見られないにも関わらず、塔の建設は滞りなく進んでいる様子だ。
 これはもう、昨日の内に何処かしらから仕入れてきたとしか考えられない。
 タイミングは、彼女と別れた直後が絶好だろうか。

「他の方から譲ってもらったんですか?」

 流石にこれだけの古本を揃えられる本屋など、近所にはない。

「うん」
 幹は躊躇いがちに相槌を打つ。
「養親からね。相変わらず『私にはもう必要のないものだ』と言うのだから、喜ばしくはあるけど、どうも……。役回りとしては、体のいい引き継ぎだ」

 詠の斜め後ろに立つ幹が苦笑気味に呟いた。

 昨日ちらっと聞いた響きと同じ意味合いの『養親』という他人行儀を隠せていない呼び方からして、諸々と察しうるものがあり、あまり仲が上手くいってないのかもしれないと詠は思ったが、話を聞いているうちに、それは杞憂に終わった。

「完全に読み終えたと言い切れるものは隣の部屋にも運び出したりと──これでも片付けたほうなんだ。それでもまだ読んでないものが多く、どうしたものかと迷っていたら夜も更けて、結局この有り様だ。しかしかといって、保管場所には不自由していないわけだから、マッチポンプながら利害の一致、養親さまさまとしか言いようがないね」

 アパートのオーナーが件の育ての親ということで、大量の書物と共に押し付けられた経緯でここに住んでいるらしい。
 古本の管理をしやすくするためだろうと幹は踏んでいたが、それで納得してしまうあたり、変わり者には違いない。
 そのため、一階の他の部屋は漏れなく倉庫代わりだった。
 電気だけは使える状態にしてあるそうだが、四部屋ある内の一部屋──正面入り口から見て右奥の部屋は現状手付かずであり、そこだけはライフラインも通ってないという。

「……なんだか、お金持ちの道楽みたい」
「すると僕は文字通りしもべになるね」

 と、詠の零した感想に幹がそう笑い返した。

 いまいち笑いどころのわからない冗句である。

 二階にはちゃんと住人が居り、曰く変わり者ばかりという話だが、詳しくは聞かなかった。
 興味がなかった。

「徹夜してまで片付けてたんですか?」
「……あー、いや。その件に関しては単純にこの本を読み耽っていただけだね」

 バツが悪そうに言うと、幹は手前に積み重なったものから一冊を取り上げた。
 詠はちらりと表紙を覗き込む。
 蛇の皮、あるいはミミズクの翼を彷彿とさせる意匠が凝らしてあり、丁寧に保管されていたのだろう、古臭さはあるものの見た目は小綺麗だった。
 革製の表紙を捲ると、彼女の知らない言語で綴られたタイトルがページの上部に掠れ気味の字体で見られた。

「シンドローム……? でも綴りが違う」

 惜しいと言う幹の笑い声が彼女の頭上から聞こえる。

「君の察する通り、これは英語ではなく、デンマーク語なんだ。どちらも語族を同じくゲルマン祖語とするから、形や発音もよく似ている。日本の書籍では、〈死に至る病〉と翻訳されているものになる。おそらく初版にあたる。とんでもない貴重品を気軽に寄越してくれるよ、本当に」

 日本語版のタイトルを聞き、詠はピンと来たように頷いた。

「それなら読んだ覚えがあります。といっても私には難しすぎて、一読に留まっちゃったんですけど……」

 キェルケゴール著の〈死に至る病〉は、絶望を主軸に論が展開され、生きながらに死んだまま続く人生の悲哀を説いた書籍、くらいの認識だった。
 それから脱するための結論がキリスト教における信仰だったはずだと詠は記憶している。おそらくこれでも内容の半分も理解できていないだろう。

「大丈夫だよ、要点は抑えられている。そこから一歩踏み込んで、キリスト教における信仰などから抽象化を進め、それを実存の人間に当てはめながら改めて内容を振り返ると、神学から哲学への思考の変遷が読み取れると思うから、気が向いたら試してみてほしい。彼の意図も最初より紐解けるようになるだろうしね。例えばキリスト教における信仰の抽象化は、愛や節制、罪や幸福の概念が挙がると思う。それらは例外なく絶望との関係を持ちうる。自己は諸々の総合にあたり、絶望を内含する関係にあるものとして描かれており、そして絶望は諸々の分裂関係とも表記されている。そこでわかりやすく、愛を取り上げてみるとしよう。親子愛、友愛、恋愛、色々とこまかな形態が見られる。それらと絶望は分裂の関係を持つ、つまりは切っても切り離せない枝分かれのような関係を取るんだね。あとは実際の経験に当てはめるだけなのだが、この本に綴られているように、絶望とは隠されたもの。自覚症状を得るには多大な時を要するという具合だ。……かつて僕もこの本を読んで、君と同じ感想を抱いた。絶望を自覚するのと同じく、理解を得るのにも時間は必要だ。その点において、僕もまた君と同じだと言える」

 幹の長丁場に呆気に取られたのも束の間、

「学校の先生みたいな事を言うんですね」

 と、詠はくすくすと笑い始めた。

「───あー、さすがに余計なお世話だったかな」
「いいえ。そういうお話聞くの、嫌いじゃありませんから」
「そうかい。それなら、よかった」

 幹はほっとするように息を吐いた。彼にとって知識の共有は、友愛の証でもあったのだ。

「しかし、これを読んだことがあるとはね……。君は哲学に興味があるのかい?」
「いえ、哲学そのものにはそこまで……。書店を巡っていたら、そのタイトルが目に入って、気がつけばレジまで持っていってました。いわゆる衝動買いですね」

 本当のところ、その衝動の源に思い当たる節はあったのだが、まるで鉄板に触れた水滴のように蒸発していき、うまく言葉にならなかった。
 症状としてはど忘れと相似する。
 しかしそれは大抵いつもの事なので、飲み込むように自己完結してしまう。

「内容はその、期待とは違いましたけど」
「期待って?」
「医学的な話が書かれていると思っていたので」
「そういった本は山ほどあるから、今度貸そうか?」
「はい──あ、でも、できれば日本語に訳されたものでお願いします……」

 後につれて弱くなる語り口に幹が満足げに頷き返した。

 そこで話はひと段落し、詠は本をもとの位置に戻す背中を眺めやりながら、彼がそこから本を取り上げてよりずっと気になっていた事を問うた。

「さっきまで寝ていたと言ってましたけど、何処で眠ってたんですか? あの布団からだと、とてもこっちまで出てこられそうにないし……」

 やまなりに積み重なった本の僅かな間をすり抜ける。
 徹夜明けのぼんやりとした意識でそんな芸当が無音無傷で為せるとは、詠にはどうしても思えなかった。
 それと他にも気掛かりなことがある。
 徹夜で本を読み耽っていたというには、本を取り出した場所が布団の傍ではなく、仕切りの傍なのだ。

「ん、あぁ──」

 その疑問を聞き、幹は当然のように足元を指し示した。

「だらしなく見えてしまうだろうけど、仕方なくここの床でね。本当は今日、一気に整理するつもりでいたんだ。まあ、気の向き次第では明日になるかもしれないけど」

「──────」

「一日や二日くらいなら全くもって平気さ。夏のおかげで意外と寝心地がいいんだ」

 なんて、幹は得意げに話すが、詠の耳には印象として何一つ残らない。
 詠の目線は目下、足下に降ろされている。
 なめらかなフローリングの影には冷涼かつ堅牢な基盤が秘されており、そのいかめしさは足の裏を介して遺憾なく伝わってくる。

 ──こんなところで眠りこけていたというの?

 詠は彼のあまりの無頓着さに呆れて言葉を失う。

「で、見ての通り、ここでは腰を落ち着けて話もできないだろう。猛暑のなかではあるが、街に出てみるのはどう──」
「片付けましょう」

 沈黙が隙間風のように二人の間を通り過ぎていった。

「───…んん?」

「だから、予定通りちゃんと、片付けましょう。私、手伝います。いっそのこと全部私に任せて、幹さんは、ちゃんと布団を敷いて眠っててもいいし」

 いつの間にか二人は対峙する形で見つめ合い、幹は彼女の鬼気迫る瞳に気圧されていた。

「……うん、申し出はありがたいんだけど。
 結構な力仕事になるし、君がそこまで気を遣うことはない」

「大丈夫です、本の整理整頓は家や委員会で慣れっこですから」
 と、詠は息巻く。

「やる気満々だね……」

 対して、幹は押され気味に苦笑いを浮かべた。
 幹のその様子を見上げながら、詠が小首を傾げた。

「そんなに片付けるのが嫌なんですか? それとも、やっぱり迷惑でした?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ほら、せっかく来てもらったのに、つまらない男の部屋の片付け作業なんかに、学生である君の貴重な一日を潰してしまうのは申し訳なく思ってね」
「それこそ無用な気遣いです。それにつまらなくなんかありません。好きで手伝いたいって言ってるんですから」
「なにかムキになってないかい、君?」
「なってません」

 その返答自体があからさまもあからさまだった。

「だいたい、あの部屋はなんのためにあるんですかっ」

 こんな有り様になってしまうくらいならとりあえずこっちの部屋に避難させたらいいのに、と不服を言いたげに、詠は仕切りの左隣にある開かずの間さながらのドアを後ろ手に指差した。
 訳ありであろう事は詠も承知の上、それでも口を出さずにはいられなかった。

「……あぁ、そっちは──」

 幹が何か弁明しようとしたところ──突如として、地響きのような物々しい音がそれを遮った。
 音の発信源は彼女の目線の下。
 つまりは彼の腹からである。
 あたかも地震が割って入った直後のような、微妙な間合いが二人の視線を引き合わせた。

 きょとんとした目が彼を見上げていた。

 すると、幹は思い出したかのように、

「そういえば一昨日の夜から何も口にしてなかったな」

 と、居心地悪そうに頬を掻いた。

「──────」

 本日二度目の絶句。
 次々と人間としてアレな側面が顔を出してくる。
 そこまでとは想定もしておらず、詠の中では今、がたがたと何かが崩れるような、あるいは暴れるような音を立てていた。

 他人への配慮はほぼ完璧に熟しながら、自分に対しては無関心。
 どころか、見方によっては死に急いでいるようでさえある。
 それが単なる詠の杞憂であればいいのだが、徹夜明けのどこか疲弊した顔の幹を見ていると、厭に信憑性を帯びてくる。

 詠はさっと彼から視線を外し、失礼とは思いつつ冷蔵庫の中身を改めた。
 水、水、水……。
 一・五リットルのペットボトルが三本、棚に鎮座するのみだった。
 それと先程お礼の品として持参したゼリーの箱が紙袋に入れられた状態でキッチン台に置かれてはあるが、これではあってないようなものだ。

 ──ああ、もう…なんて。

 つい昨日のこと、自分を顧みてないにも程がある、なんて台詞をよく口にできたものだと。

 詠が幹の手首をぱっと掴み取ると、無言で玄関に向かい引っ張り始めた。

「…っと、どこに行くんだい?」
「どうせここには調味料も何も揃ってないんでしょう。ならもう、しょうがないけど外食しかないじゃないですか」

 近くにコンビニもあるにはあるが、テーブルが本の山に埋もれて使用不能となっている現状、必然的に床の上で直に食事をする事になる。
 この薄暗い中、その様子を傍らで見ているだけなのは居た堪れない。
 なんとなく惨めだ。

「ああうん、それならちょうどいいな。元々君を誘うつもりでいたんだ。昼食時でもあるしね」

 そんな詠の少しばかり投げやりな態度に応える風もなく、幹は呑気に肯定した。

「……参考までにっ。
 普段、食事はどうしてるんですか?」
「まちまちだよ。外食だったり、コンビニだったり──大学に行けば学食もあるわけだから、長期休暇でもなければ、そこまで不自由はしないかな」
「……いま、夏休みの只中ですよね?」
「うん、その通り。だから、少々困っていたんだ。今年は毎日湿度も気温も高くて、機会がなければ外出も億劫でしょうがない。そういう意味では、君が来てくれたのはいい機会だった」
「……もし、私が来なかったら?」
「昼食以前の話、陽が沈む頃の起床だったろうね」
「………」

 典型的な夏休みの過ごし方の悪例だった。
 だが一人暮らしなぶん、一周回って反面教師の適性さえ失くしてるレベル。
 極端な事例は却って毒となる。
 反面教師というのは死に瀕しない程度の教訓わらいばなしであるべきだ。
 彼の場合は下手したら明日に命を落としていても何ら不思議はなく。
 それでは悲惨すぎるあまり、笑いどころなんて一つもない。
 このまま放っておくのは何らかの罪に当たるように思えた。

「今までよく生きてこられましたね……っ」
「流石に毎日こんな生活を送ってるわけじゃないさ。ここ数日の偏りに偶然君が居合わせただけだよ」
「……どうだか」

 半信半疑。
 心配なり呆れなり高揚なり縺れ合った気持ちを抱えつつも、詠はけっきょく、極端に振れた彼を猛暑たる昼間の外へと連れ出す羽目になった。

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