Chapter Ⅵ 前編
次の日。
門出幹に今朝方、お礼の品を持ってそちらに向かう旨のメッセージを送ったが、こうして昼間を迎える今でも、既読はつかなかった。
晴川詠は多少の勘違いを伴いつつも約束通り、構わず突撃をかますことにした。
閑静な住宅地の比較的見通しの良い場所の角っこに、彼の住処はある。
……周りと比較すると、それは異質な建物だった。
立方体をした二階建てのアパート前。
横腹にベランダのスペースがなければ、一見して何かしらの研修施設と見間違える。
出入り口であるガラス戸の奥は光の反射で仄暗く映り、詠は入り難い閉塞感を覚えるが、それは客人ゆえの遠慮から生じる疎外感だろう。
他の住人方の邪魔にならなそうな敷地内──昨日と同じ場所──に詠は自転車を停めると、籠の中より紙袋を掴み取り、アパート内部へと踏み行った。
両開きのガラス戸を押し開けた途端、温風が彼女の背を押した。
内と外の明暗差で狭まるように一瞬視界が暗むが、中庭に差す陽光の助けを借りてすぐに馴染んだ。
出入り口を繋ぐ短い通路を抜けると、中庭に面した回廊に出る。
アパート中央の中庭には、一本の枝垂れ柳が植えられており、吹き抜けからの陽光を一心に浴びている。
憩いの場として設けられた空間は、あたかも彼の一人舞台だ。
ユーカリやローズマリーなどの鉢植えが引き立て役のように、その周囲を取り巻いていた。
共通する花言葉は、思い出と追憶、そして蘇りへの希望。
「………」
このまま中庭を突き抜けて向かいの回廊に出ると、二階への階段にあたるが、今のところ二階に用はない。
中庭の鮮やかながらも寂寥たる風景を振り払い、変則的な十字から回廊を左に折れる。
程なく歩くと、門出幹が住まう部屋の前に辿り着いた。
インターホンが指先に触れ──そこではたと、指の動きがぴたっと止まった。
本当に押しちゃってもいいのだろうか、と。
「………っ」
──ああ、心臓が逸り出した。
初対面より二度目のほうが却って緊張する。意識の明白さが想像を遥かに超えて高まっていた。
そんなのは当たり前だ。
足踏みしつつも、彼女自らが勇み望もうとしているのだから。
受け身と積極性では出力の系統が違う。
昨日が上流から下流へ身を任せていた礫だとしたら、今日の彼女は大海原へと直接舟を漕ぎ出そうとしている。
それはあてもない旅。
冗談で済んでいた反射の数々がたちまち
関係を築くとはそういう錯覚を照らし合わせ、積み上げるもの。
紙袋を持つ手に自然、力が篭る。
──でも、そう。このじれったい錯覚に紛れもない答えを出したくて、ここまで来たんだから。
覚悟を新たに、詠はインターホンを押した。
軽い手応えとドア越しに漏れ聞こえる単調なチャイム。
「………?」
だが、一向に待ってもドアが開く様子はない。
遠耳にはつんざくような蝉の鳴き声、
静謐にどっしりと構えるスチール製の扉、
日陰とはいえ湿度も温度も連日記録の頂きに手を掛ける世界、
じんわりと滲む汗に気を取られる。
「……出かけてるのかな。大学生って言ってたし、なにかと忙しいとか」
LINEにはすでにそのような確認のチャットを送ってはいるのだが、ここへ訪ねる前に送ったものと同様、相変わらず既読はつかない。うんともすんとも返ってこない。
忘れられていたらどうしよう、なんて不安がそろそろと胸元にのしかかるように翳り出す。
大学生の夏休みは人生において最も暇な時期というイメージのある詠だったが、どうも違ったらしい。
さすがに偏見はよくなかったと思い直す。
それでも念のため、もう一度インターホンを押してみる。
先程とは違い、押すまでに微塵の躊躇もなかった。
チャイムが鳴る。同一の響きを正確になぞっていた。
それゆえに三十秒前とまるで変化のないこの有り様を際立たせた。
こころなし、蝉の求愛に一段と烈しさが増す。
「………………」
詠はというと、せっかくの覚悟も、さっそく折れかけていた。
出鼻を挫かれた形となるのだから無理もない。
継ぎ足しの木もなしに火の勢いを保てというほうが無茶な注文である。
ふっと太陽に巨大な白雲が掛かると煌々とした中庭も吹き消された蝋燭のように元気をなくし、立ち行く目処も見失って、詠は手摺りに寄りかかった。
残り一日の半分が白紙となる。
これではいつかの逆戻りだ。
行き場のない語彙ばかりを溜め込んで、また無為な一日として落陽を部屋の内から見落とすのか。
晴れない気持ちもいくばくに踏ん切りをつけ、手摺りから背を浮かす。
大人しく踵を返そうとして、その時だった。
───ガチャリ、と。
眠たげな錠の回る音がした。
詠はつい立ち止まり、ふらりとドアを顧みる。
門出幹が開いたドアの隙間からにゅっと顔を出した。
起き抜けに応対へ出たのだろう。
彼は眼鏡を掛け忘れており、そのためか、がらりと印象が様変わりしていた。
ボサボサに乱れ切った黒い髪の毛と目元には隈を刻み、昨日の彼の病的という自虐めいた揶揄を詠は思い出した。
それくらい弱々しく、強迫的な微動を醸していた。
微かに見開く目と篭り気味の目がぴたりと交差する。
「……えっと」
はっとして瞳を右往左往させる。今しがた覚悟が消沈したばかりだったので、詠は心の所在がなく、準備もまるでなっていなかった。
「───ああ、おはよう。君か」
そんな詠の様子も尻目に幹はがしがしと後頭部を掻く。
「もしかして昨日のお礼、という具合かな。ごめん、応対が遅れた。後日と言ってたから油断していたよ、まったく」
細々とした早口で捲し立て、この場で余りある眠気に負けてしまわないよう踏ん張っているかのようだ。
「もしかしなくても……その、寝てました?」
「徹夜だった。いつ寝たのかさえ定かじゃない」
ぎりぎりと瞼が抵抗している。
下眼瞼の縁に小さな妖精が立って、必死に持ち上げては押し負けてと拮抗しているみたい。
そのため、彼は口調を取り繕う余裕もなげで、情緒なく端的、気持ちぞんざいだった。
しかし、これが彼の素のようにも詠には思えた。
「ごめんなさい。その、出直し…ますね」
「いや、少し時間をくれないかな。せっかく来てくれたんだし、君の好意を無碍にはしたくない」
「でも、大丈夫…なんですか?」
大丈夫、と目頭を親指と人差し指で軽く揉み、幹はおそらく普段通りの微笑みを繕いつつ面を上げた。
「寝不足は日常茶飯だから」
「…………」
いやいや、と不安は治まる機を逸して、胸中にしがみつくばかり。
──ちゃんと寝たほうがいいと思います。
そんな言葉が喉につっかえた。
出会って二日目の早々、昨日ほどの場当たり的な勢いもない彼女には、流石にそこまで行くと差し出がましく思えてしまい、そのように語気を鋭くすべきか迷った。
そうやって詠が逡巡している内に事態は刻々と推移しており、
「そこで待っていてもらえるかな、すぐ終わるから」
と、幹が告げるや否や、さっさと顔を引っ込め、身支度に入ってしまった。
天気雨が去り、降られるままにぽつねんと置いてけぼりにされたかのような気分に陥りつつ、詠は他に人っ子一人いない回廊の左隅っこで佇むほかなかった。
「……私が慣れないといけない、感じ?」
使い古されたある一節に、恋は盲目だという。詠もまた、それと酷似した毒に冒されかけていた。
