Chapter Ⅵ 前編

 
           ◇
 
 室温が適度に保たれ、陽の邪魔が入らないようカーテンも締め切られた部屋の中にいては、時の経過にも疎くなり、ふと彼女が外を気に掛けた頃には、とっくに日も暮れ始めていた。

 カーテン下側の隙間から差し込む光は、純白から鮮やかな火色へ。

 彼女の手に持つスマホが、午後六時過ぎを表示する。
 ぽん、と伯母からのLINEの着信をちょうど受け取った。

[遅くなるの?]
[ごめんなさい。もうすぐ帰ります]

 彼女は手早く返信した。

「ご家族から?」と彼が訊く。
「……はい。ちょっと、心配させてしまったみたいです。私、いつも五時には家に帰ってるから」

 厳しく言いつけられて仕方なくそうしているのではなく、彼女の場合は自主的な配慮だった。
 訳あって母方の伯母と二人暮らしの彼女は、必要以上に迷惑を掛けないようにと、日頃から波風立てないよう人一倍気を配っているのだ。

 今日は、有り体に言えば油断した。
 いろいろな異変が次から次へと積み重なって、とても処理が追いついていなかったとはいえ、いくらでも確認できる瞬間はあったのに。

 そろそろ、気を引き締めなおさないと……。

 彼女は反省の念を込めるようにして、スマホの画面を落とす。

「そうかい。なら僕のミスでもあるわけだ」

 自らを責めるような彼の言葉に、彼女は慌てて顔を上げた。

「気にしないでください。
 別にだからといって、怒られるわけでもないですし」

 両手を振りながら弁明までしてしまう始末だった。

「ほんとう、気にしないでください」

 同じ轍を踏まないように、足下に意識を集中しつつ、彼女はよたよたと立ち上がる。
 長話が過ぎたのだろう、膝が錆びたバネのような鈍い感触を起こした。

 ただこれから家路を辿るだけのことで、彼女は名残惜しく思う。
 足首が泥沼に浸かっている。
 先ほどまで──ちりちりと火色に空が灼かれてしまうまで、それなりに非日常的な気分を味わっていただけに、落差が激しかった。

「なら、せめて家まで送るよ。また昼間のように君が倒れるかもしれないと思うと、寝覚めが悪い。それにまだ空は明るくとも逢魔時に差し掛かる頃でもある。この辺はなにかと物騒だからね」

 同じく立ち上がっていた彼に、そんな申し出をされる。

「──────」

 彼女の中に巻き起こる、僅かな逡巡。胸が弾むような、呼吸がぎごちなくなるような──それでいて、過分に申し訳ないような……。
 ぐるぐると目が回る。

「───えっと、お願いします」

 けっきょく、彼女ははにかみそうになる頬を隠すようにして、その申し出を受け入れた。

 
 
 自分の自転車を彼に押してもらいながら、彼女は両手を宙ぶらりんにがらんとした道路を歩む。

 辺りを見回し、家からそう離れていない事を彼女は知る。
 白昼夢に見舞われた坂を降った先の住宅地。
 見上げる先には、緩やかな直進の勾配と、行き当たりを直角に折れて、長方形を蛇のように斜めに連ねた擁壁に沿って件の坂が伸びている。

 風が生温かい。
 湿気が気ぜわしくうなじの汗に絡み、溶け合う。

 しかし滲むような外気とは別に、彼女は体が火照っているようだった……。

 脚をぴんと伸ばし、学生靴の底で拍子を打ち鳴らすような気取った歩調ながら、夕空へと視線を彷徨わせる。

 命のかぎり放散された空蝉の熱をこだまに、黄昏の夏がおおきく赤らんでいる。
 焦げる山の向こう、残照烟る鮮烈な夕陽もいずれ遠くない内に水平線の彼方へ沈み、しくしくと蒸し暑い夜を迎えるのだろう。

 試しに深く息を吸ってみると、空の焦げるような匂いがあまねく気道に染み込んだ。

 郷愁のような欲深さがじくじくと胸の底から湧く。

 この瞬間が、永遠に続いてしまえばいいのに──。

 よくある上の空。
 黄昏が意識を掠めるたび、彼女はそんな益体もない切なさを覚えずにはいられない。
 箱の中に仕舞いたいという浮遊した衝動に駆られてしまう。
 この瞬間を切り取れば、甘ったるい平穏だけが残り続けると疑っていないからだろう。
 信じて止まないからだろう。

 心の何処かでは、ありえないと毒づきながら……。

 急勾配の坂に差し掛かると、しばらく西の空を見上げながら、そこを登っていった。

 そして感傷も程々に、そういえばあの子が飛び降りる幻覚に遭ったのはこの坂の頂上だったと彼女は思い出しつつ、目線を正面に直すと、音もなく、ちょうどその場所のそばに人の影があった。

 南風が黒々と繁る梢の葉を吹き鳴らす。
 斜光のカーテンを通して、少女と思しき影は木陰にひっそりと佇み、ワンピースの裾がゆらゆらと焔のようにはためいていた。

「え───暁月、さん?」

 彼女が戸惑いのあまりにそう呟くと、ワンピースの少女──暁月冥がゆるりと振り向いた。

 相変わらず、綺麗な顔立ちだった。
 嫉妬を通り越して、美しい人形を前にした感情が首をもたげるほどの、どこか人間離れした雰囲気を醸す美貌。
 それは色濃い夕陽を透くような艶やかな肌合いから。
 薄く細められた瞳が誰彼なしに心奥を見通すような恐さから。

 あるいは、一瞬も淀む事のない表情から。

 しかし、それらの掴み難い神秘性は、少女の反応が重なる次第に薄らいでいく。

 暁月冥が彼女の姿を認めるなり、右腕をそっと背中に押しやると同じように残りの左手で肘の辺りを掴み固定し、足元は戸惑いがちに揺れていた。

「あー、えっと……晴川はるかわさん、だっけ?」

 瞳が微かに開かれた以外に表情にはほとんど変化は見られず、声音も疑問形の割に平坦に聴こえた。

 しかし、彼女──晴川は内心、ほっとしていた。

 学校の時の様子と、今の暁月冥の様子は、想像の通り何一つ変わらないから。あれはやっぱり、趣味の悪いまぼろしに過ぎなかったのだと、そう思えたから。

「暁月さん、私の名前、覚えてくれてたんですね」
「……まあ。だって、二年も一緒のクラスなんだし」

 私もそこまで薄情じゃないよ、と暁月冥は少しズレた物言いをする。

 視線はちらりと彼女の斜め後方に向けられ、それからのぎこちない会釈は彼に応えたものだろう。

「その、ここで何してたんです? 暁月さんの家からだと確か、結構距離もあったはずですし」

 帰り道はいつも真逆の方向、また自転車通学で済んでいる彼女とは異なり、暁月冥はバスと電車の両方を利用しているという。
 夕飯時に、わざわざこんな辺鄙な坂の上の住宅地に訪れる理由なんてそうそうない。
 この近くに住む彼女としては、どうしても気になってしまった。

「散歩の途中でコレが気になって、景色を眺めてたの」

 晴川が頑なに視界からも意識からも逸らしていた物を、暁月冥は好奇心を露わに促した。

 会話の流れから乗らない訳にも行かず、彼女はまるで足首に巻き付いた蛇を確認するように、足元を見下ろした。

 死人に手向けられた、ささやかな昼間の残骸。
 無神経にも事実を歪める同情の群れが質素ながら横たえられている。
 一日中、猛暑に晒され、二輪の菊の花が凝固寸前の血液を思わせる見るも無惨な姿で萎れていた。

 一瞬だけ、眩暈を起こす。

 彼女の脳裏にフラッシュバックするのは、一週間前の刹那の情景。
 白昼に遭ったあのまぼろし──、ワンピースを身に纏う少女、目の前の暁月冥がガードレールの上からゆらり地上へと落下していく、まるで悪夢のようなはっきりとした幻覚だった。

「ここで何があったのか。晴川さんならわかる?」
「───…え」彼女は思わず言い淀んだ。

 素知らぬふりを通すつもりが、明らかに訳を知る人間の臆病な反応になってしまっていた。

 しかし幸い、相手は相当に鈍いようで、そんな晴川の様子にこてんと首を傾げるだけだった。

 彼女がそうやって言葉にまごついていると、背後から率直な答えが返ってきた。

「飛び降りがあったらしいね。しかし、遺体はおろか、痕跡も見つかっていない。ゆえに事実を示すのは目撃者の証言と、その手向けの品だけだ。まあ、およそ夏らしい怪談と言えるね」
「飛び降り……へぇ」

 唐突に会話へ入ってきた彼に臆する色もなく、暁月冥が興味もなげに落差十メートル以上はある崖を見下ろし出す。

「────」

 それがあたかも、透けた窓の縁へ身を乗り出し、今にも落下する予兆に見えてしまったから。

 晴川はつい、前のめりになって、暁月冥の手を取っていた。

「? えっと、どうしたの?」

 怪訝な顔で窺ってくる暁月冥の視線を受けて、晴川はぱっと手を離した。

「──あ、ごめんなさい。
 その……暁月さんが落ちてしまうんじゃないかって、つい想像しちゃったというか」

 一時的に取り上げられた自分の右手を暁月冥がぼんやりと見つめ、目線がガードレールへそっと逸らされると、所在なげに元の位置へ下された。

「そう、このガードレールだと心許ないものね。背が小さいし」
「…………」

 暁月冥の台詞はやはり、まるで他人事のようだった。

「私、こっちには引っ越してきたばかりで、だからこの辺りをテキトーに見て回ってたの。あ、もちろんもう子供じゃないんだし、迷子にはなってないからね」
「迷子の心配はしてないですけど……。って、え、引っ越し? どうして。こんな時期に?」
「親戚…? の人がこの近くに住んでて、余ってる部屋を借りたの。ほら、こっちのほうが高校も近いし?」
「そうなんですか」

 とことんまで曖昧な態度なのは気に掛かるが、言及は止して、とりあえず頷いておく。
 隠しておきたい事、触れられたくない部分は誰にもあるだろう。

「私、もういくね」
「え、あ、はい」

 急の会話の方向転換に戸惑い、体の筋が張ってしまう。

 ばいばい、と相変わらずの感情がこもっていない平坦な声音とともに、手を振ってから去る暁月冥。
 終始そんな不思議な少女のペースに飲まれたまま、晴川は反射的に手を振り返し、悠々と坂を登っていく華奢な背中を見送った。

「あの子と知り合いだったんだね」

 暁月冥の背中が見えなくなり、しばらくすると、彼が口を開いた。

 晴川はさっと振り返る。
 そして、微かに口を尖らす。

「暁月さんのこと、知ってたんですか。
 それにここの事も……」

 ふらりと横へ流れるようにして、彼女はその場を退けて、ガードレールのそばから離れた。

「顔を合わせた程度だけどね。ほら、あの子が親戚がどうだとかぼかしてたろう? その親戚が僕の育ての親にあたるんだ」

 なるほど、と彼女は頷いた。
 そして互いに示し合わせるでもなく、二人は再び坂を登り出した。

「飛び降りの件は、まあ成り行きだね。噂になってるし、この町に住んでるなら、余程他者との関係を絶っていない限り、大体の人が知ってると思う。夏の怪談として定着するぶんには、十分条件も整ってるからね」

 彼もまた、暁月冥とは違った形の冷淡さを見せ、興味をそそらない事象には無関心な一面を持っている。
 その飛び降りたまぼろしの姿を間近にした彼女としては、複雑な気分だった。

 とうの暁月冥は飛び降りの事も、噂になっていた事すら、全く知らない様子だった。
 自分のまぼろしが自分の知らない場所で複数の人間に目撃されながら飛び降りていったと知ったら、あの少女は何を思うのだろう。

 その時の穏やかな微笑みの真意を問われたら、どう答えるのだろう。
 
 ───どうして、飛び降りたりなんかしたんだろう。

 そんな疑問が、熱帯夜の気持ち悪い熱気のように、皮膚の内側から体中を取り巻いた。

「忘れよう」

 熱気を追い出すための囁きは、彼女が見上げる夕空に。
 車輪のきこきこと鳴る回転、靴の音と蝉の声に彼女は暫し耳を傾けた。
 

 
「ここまでで大丈夫です」

 近所の子供たちが四角公園と呼ぶベンチと花壇と水飲み場以外何もない、三方を一軒家に囲まれた小さな広場の側まで来るなり振り返ると、彼女はそう切り出した。

 二人の視界の限り、周囲は無人だった。
 しかし、丘の上の住宅地のど真ん中とあって、そこかしこから温かな人の気配が絶えない。
 夕飯の支度の香りが何処からともなく漂い、腹の虫がきゅるきゅると首をもたげた。

 ここが現在における彼女の日常風景。
 何処にでも見られるような、それでも一つしかない居場所。

「もうすぐそこですから」
「そうかい」

 彼は頷くと、自転車を彼女へ促した。

「ありがとうございます」

 彼女は笑顔で応じ、彼と入れ替わる形でハンドルを握ると、右手をサドルの上に置き、彼を見上げる。

「こんな、坂の上まで送ってもらって」

「いいさ。そうされて当然の病状に君は見舞われたのだし、突き詰めれば、僕の自己満足でしかない」
「そんなこと──」
「あるんだよ。両方とも誇張なしだ。自覚がないようだから、これだけは言っておくけどね──炎天下であれ、道端で気を失うなんて相当な異常だ。そして、そこを通りがかりにも助けた僕の友人と、それを引き継いだ僕の善意。二つに打算はない。善意というのはすべからく自己満足、自分の為であるべきだからね。そういうものなんだ」
「……情けは人の為ならず、ですか?」
「当たらずとも遠からず、かな。その諺を引き合いに出されると、僕の考え方はネガティヴに寄ってしまうんだけど、まあいい。それよりご家族が待ってるんだろう? 僕もそろそろお暇させてもらうよ」

 じゃあ、心身には気をつけるように──。

 別れを告げながら、彼は彼女から距離を置くようにくるりと反転して、その場を立ち去ろうとする。

「ま、待って!」

 まだ話したいことも残っているのに、足早に話を切り上げられ、彼女は息を忙しげに呼び止めた。

 ぴたりと静止する背中に一息置いてから追撃する。

「その、つまり見返りは求めていないと断ってるんでしょうけど──それでも、後日改めて、お礼に伺ってもいいですかっ?」

 迷惑かもしれない、拒まれるかもしれない──。

 迅る心臓を抑えつけて、しんしんと答えを待った。

 息苦しく、現実時間では十秒にも満たない沈黙が、それこそ先方彼女の望んだ永遠かのように感じられた。

「一目惚れ、と君は言ったけど──」

 彼が僅かに振り返りながら、遠慮がちに口を開く。

「その言葉の重さを僕は知らない。でも、それは君の勘違いのように思う。不安の正当化、動揺の裏返しに思える。一度冷静になって、僕との出会いは忘れたほうがいい」

 図星を突かれた思いで彼女は一旦顔を伏せるが、しかしすぐさま彼と一目合わせると、首を横に振った。

「勘違いじゃないです。不安とか関係なしに、私はあなたの事が気になった。あなたと話がしたいと思った。誰がなんと否定しようと、その思いは本物なんです。
 だから、その、わかりやすく言い直すと──」

 ハンドルを握る左手に緊張が忍び寄りつつ、上目遣いに彼を一瞥した。

「私と、友達になってほしいな……なんて。
 ダメ、ですか?」

「要求がすり替わってるよ、それ。建前と本音だ」

 眼鏡の奥の目尻がくすぐったそうに皺を刻み、彼が呆れたような笑みを滲ませた。

 観念するかのように肩を竦めると、彼女へと向き直った。

「───いいよ、君の好きにするといい」

 門出かどでみき、と彼は心を許すように名乗った。

 薄明の橙が目映ゆい黄昏刻の境、地上の影も深まり、受けて彼女は見失わないよう踏み越えた。

ながめ──。晴川はるかわ詠といいます」
「そう、いい名前だね」

 街灯が前触れもなく白を灯し、二人を照らし出すのと同時──はい、と詠は誇らしげに頷き返した。

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