Chapter Ⅵ 前編
───ガチリ。
白い厚木の仕切り越しに、鍵の回る幽かな音を聴く。
洞穴の泉に石粒を投げ込まれたかのように、どくんと彼女の胸が高鳴った。
咄嗟に手指を胸元へ充てがう。
今までに類を見ない緊張。
高鳴りは一度きり。
戸惑いのあまり、傾げるように頭をゆらゆらと揺らしてしまう。
だが、その鼓動を飲み干し消化し切るだけの時間を、部屋の主は与えてくれないだろう。
戸惑いをありのまま残しつつ、慌てるようにして仕切りのあるほうへ視線をぶつけた。
彼女は布団から起き上がった体勢のまま、部屋の主が踏み込んでくるのを茫洋と待ち構えた。
「どんな人なんだろう」
と、彼女はとてもか細い声音で浮かれた関心を吐露した。
ここに残ろうと思った理由はそれだけ。
その場の好奇心に縛られた。
後数日も経てば書物に飲まれてしまいそうなこの一室、愚直に世界を追いかけようという意思が滲み出た生活ぶりのその人と一目会って、話してみたいと思った。
それに助けてくれたお礼も言わないと。
よし、と意気込む彼女の表情は、やはり危機感に欠けていた。
エアコンのささやかな風がはっきりと耳に残るほど音の微々たる一室では、仕切りを隔てた向こう側の事情は間近に聴こえてくる。
玄関扉の扱い、
鍵をかけるまでのテンポ、
歩調はまるで活気がなく、
そのすべてがおとなしい。
伸縮性のある布がつるつるとした板を擦る足音が、仕切りの前で一旦立ち止まる。
ほどなくして、仕切りが無造作に開かれた。
奥から現れたのは、草臥れた印象の受ける青年だった。
「目が覚めたようだね」
開口一番、黒縁の眼鏡を掛けた青年はそう無難な笑みを彼女へ向けた。
楕円状のテーブルを迂回し、床に山の如く積まれた本の間を彼は抜き足差し足で通り抜けながら、淀みない足取りで彼女のそばに歩み寄る。
そして手に提げていた白いビニール袋をそっと
彼は仰向けにした古めかしいハードカバーの洋書二冊分ほどの距離も置きつつ、彼女の目線の高さにちょうど合うよう腰を屈めた。
「………」
彼女はただ無言で、知らず知らず彼の所作を目で追っていた。
「具合はどうだろう。聞いた話によると、君は炎天下の路上に倒れかけたそうだから、日射病かな?」
「………ぁ、えっと、わからないです。倒れそうになったところを誰かに抱き留められて、気がついた時には、ここで目が覚めたから」
彼女は意図して、倒れかける直前まで相対していた白昼夢、趣味の悪いまぼろしについては言及しなかった。
その事についてまだ心が整理し切れていなかったというのもあるが、初対面の見知らない相手に、さも自分の心の弱さを投影したかのような話を打ち明けようとは思えなかったのだ。
彼女の齢は今年で十七、思春期真っ只中でもある。
相手はどうやら大学生らしき年上の男と彼女の目には歳が近く映り、なおさら自分の心を曝け出せようもなく、そこまで人肌に飢えているつもりもなかった。
尤も──。
あくまでもそれは、彼女の自覚における“つもり”に過ぎないのだが。
「そうかい。まあ命に別状はなさそうだ。
不幸中の幸いだね」
彼はそう言うと、先ほど置いたビニール袋の中から透明な水の入ったペットボトルを取り出して、さっと彼女に手渡した。
予想に反して容器が生ぬるい。
彼女は手渡されてすぐに気がついたが、どうやら常温のようだった。
「外は夏場も夏場、そして君は病人だ。水分補給はマメに行わなくてはね。目の前で衰弱されては困りものだ」
「………………」
簡便ながらも処置の手際はいい。
相手の思慮が伝わってくるようだ。
だからこそ、その眼差しの硬さが際立った。
あたかも透明な壁を介したかのような初対面。
指を伸ばせば容易く鼻をつまめそうなほどの距離にありながら、近寄り難い独特の雰囲気が彼にはあった。
一触は柔らかで温かいのに、どこか心地よくない。
それを“緊張の糸が解れない”とも呼ぶのかもしれない。
ようするに歓迎されていないのだ。
それ自体は抱いて当然の不満だ。
しかし、できることならさっさとこの部屋から出て行ってほしいと、彼の纏うやんわりとした雰囲気が言外にそう物語っていた。
「──────」
ペットボトルを握る両手にぎゅっと力が篭る。
なんとも複雑な気分が彼女の胸中に去来する。
病院を選ばず、わざわざこの部屋に自ら運び入れておいて、しょっぱなこの仕打ち。
表面上の手厚い処置に反して、昼間の冬空のように、どうしようもなく突き放された感触だった。
彼女自身にも理解できない、微弱な衝動だけれど。
到底、受け流せるものではなかった。
彼女はむざむざ追い返されたくない気儘で、
「この度は助けてくれてありがとうございます。でも私、あなたからそんな目で見られる筋合いはないと思う」
できる限り平気な顔を繕ったつもりの彼女だが、声音のほうは聞くからに拗ねているようだった。
「あぁ…────」
丁寧なご挨拶も早々に難癖をつけられた彼はというと、なんとも言えない笑みをたたえながら困った風に眉を曲げていた。
「何か気に障ったのならすまない。
ただ、一口曖昧に“そんな目”と言われてもね。
僕としては困ってしまう」
「うそ、私をうっとうしく思ってるのに。
それが無自覚なんだ」
不満たらたらも甚だしかった。
「君をうっとうしく?」
彼は考え込むような仕草で目線を真下の洋書に落とすと、一息つくほどの間をあけてから、再び彼女に視線を合わせた。
「……なかなか、鋭いんだね。確かに僕は君がここに留まる事を良しとは思っていないらしい。うん、無自覚だったな」
雰囲気が和らいだ。
その微妙な変わりようを聡く察した彼女はしかし、未だ気候のような複雑な心境を眺めるほかなく。
むしろ、より彼の心理が理解から遠のいていくように思えてしまった。
「一つ誤解を解いておくと、君を助けたのは僕じゃない。友人が君をここまで運んだんだよ、僕に断りも入れずね。それで快く思っていないのが君に伝わってしまったのかもしれない」
「……面倒な荷物が届いた気でいたんですか?」
「穿ち過ぎだね。そこまで悲観的に捉えなくてもいい。僕だって人並みの善意は当然持ち合わせているし、君を放っておけないと思ったからこそ、こうして簡単な処置くらいはしたのだから。それに甘んじてもらえると、こちらとしては嬉しいね」
彼の底ぬけに穏やかな笑みは聞き分けの悪い子供を宥めるみたいで、急に彼女は立つ瀬がなくなり、つい目を逸らし伏せてしまった。
人並みの善意と彼は云うが、あまりにも人間を買い被り過ぎていると思う。
それはまた、別の観点で腹が立ってしまうほどに。
でも、と彼は緩い波風のまま続けて言う。
「なんだか不思議だ。敢えて訊ねるけど、君は道端で倒れてしまった自分の容態よりも僕の内面ばかり気にしてるね、何故だい?」
「………………」
指摘された瞬間、彼女は頭の中が真っ白になった。
「……──────!」
別に好きとか嫌いとか惚れた腫れたの話でもないのに、理性とは関係なく、まるで恥の上塗りだ。彼女は、体の内でじわじわと熱の嵩が張っていくのを感じ取った。
思い返してみると、なかなかにアレな物言いをしていたと今更ながら気がつく彼女だった。
その苦し紛れ。
彼女は咄嗟に声を漏らした。
それは消え入る間際の小雪のように儚く、聞こえ難かったに違いない。
「ッ…帰ります」
たった一言そう零して。
乱れに布団から立ち上がった。
だが、彼女はすっかり失念していた。
その身が病み上がりと相違ないことに。
勢いよく立ち上がった途端、強烈な眩暈に襲われた。
時間にして二秒もないブラックアウト。
人間の体躯が機能停止に追い込まれ、そのまま糸の切れた人形のように倒れ込んでしまうには十分な隙。
気がつけばいつぞやのように、あるいはつい最近のハプニングをそっくりなぞっていた。
所狭しと乱立した本の塔へ倒れる直前、彼女はまたしても異性に、今度の場合は目の前の彼に抱き留められたのである。
「───まったく、自分を顧みないにも程がある」
彼の呆れたような声が耳元に降りかかった。
「………っ」
白昼の炎天下に抱きとめられた、あの時の状況との違いは一つ。
カーテンで陽の侵入を拒む書室の薄暗さとはあべこべに、彼女の意識は朝焼けの高潮と引けをとらないほど明々白々だった。
──あと何枚、恥の上塗りを重ねれば気が済むんだろう。
心の中でそう自己嫌悪する。
まるで心臓が太鼓のよう。
その烈しさに喉笛を爪弾いて、喘いでいる。
それが指の爪先まで響き、彼の衣服にちょっとした皺までつけてしまっていた。
歯車が接触不良を起こしてばかりだ。
彼の前では何もかもがうまくいかず、立て続けに醜態を晒しまくり。
嫌になる。
誰か心臓も吐息も均してほしいと、彼女は切に願った。
「行く先々で棒にあたる犬のようだね、君は。
見ていて退屈はしないが、危なっかしくていけない」
「っ…ごめん、なさい。
迷惑かけてしまって、ほんとに……」
「謝る事はないさ。今の君は、僕の目からも平常を欠いているように見える。まずは安静に。それから僕と話をしようじゃないか。それが君の望みだったんだろう?」
───見透かされていた、と彼女は顔に次いで耳までも熱くなった。
それから彼女が彼とまともに対面できるほどの平静を取り戻すまで、渡されたペットボトル半分くらいの水量を要した。
合間にレモンゼリーのぎこちないやり取りも挟んだが、どちらも印象が薄く、彼女は布団にぺたんと沈み込む自分の熱っぽさばかりに気が散っていた。
すべては、この微熱のせいにする事にした。
そうする他に、自分の
「………」
醜態を省みてばかりで、先の事はおろか、現在の状況もどこか、他人事のようでさえある。
微かな脱力感に怠けたあられもない自分なんかうっちゃって、やはり彼女は、目先で文庫本を読み始めちゃっている彼のことが気になって仕方なかった。
ひんやりと乾いた部屋をわざとらしく見渡し、ほっ、と息を吐く。
彼女は頃合いを見計らって、それを声に変えた。
「この部屋の本は、あなたの……?」
手始めに周囲の事から。
外堀を埋めるように。
古めかしい洋書などの分厚めの書物が大多数を占めるため、蔵書数は見た目ほど多くはないだろうが、この部屋だけでも軽く一千を超えていそうだった。
本棚はびっしりと隙間がないし、今にも床が抜けそうなほど、角張った累積物により部屋は埋め尽くされていた。
「もちろん、ここは僕の部屋なのだから」
彼は頷く。
「でも、殆どは貰い物なんだ。半ば押しつけられたような次第なんだけど──まあ、僕としては降って湧いたような幸運とも云えるかな」
未知を解き明かしたい性分でね、と彼は彼女の目線の動きに倣い、部屋全体をゆらりと見回しながら続ける。
「これらは、その欲の解放へあたる為の道具であり、通過点になる」
知識の蒐集、その生き様がここに体現されていた。
日本語のタイトルで書かれている書物は、比較的多く積まれてはいるものの、それでも全体の四割には届かない。
英語、漢語、ラテン語、ロシア語、ギリシャ語、ヒンディー語……。
彼女がぱっと見で判別できた外国語はその程度。
日本語や英語ならまだしも、他の言語ともなれば内容はもとより、タイトルの意味すら理解できない書物ばかり。
装丁のいくつかは年代を古く遡る代物も散見され、もはやアンティークの域に達していた。
だから、中でもテーブルの上に置かれている新しめの文庫本は一際目を引き、この部屋の醸し出す重厚な歴史の鈍い輝度からは外れているようだった。
「えっと、なら、そのテーブルのは?
小説…みたいですけど」
気になる箇所を順々に聞き潰していく彼女。
ああ、これかい、と彼は気を新たにして、一旦テーブルに置かれていた一冊を取り上げ示した。
「有り体に言えば趣味になる。休まず知識を取り込んでばかりでは潰れてしまうだけだから、その息抜きとしてね」
「……本の虫?」
「君には、そう見えるのか。まあ否定はしないよ」
「………? 違うの?」
彼女としては的を外したつもりはなかったのだが、彼のほうは、しっくり来ないようだ。
「ニュアンスの問題だね。君は好意的に捉えてくれたようだけど、僕の視点では、別の側面が見えてくる」
病的、と彼はそう口にした。
「………」
彼女はすこしムッとする。
「自分を卑下しすぎだと思います」
「──そうかな? そんなつもりは、まったくないんだけどね」
「そうですよ、きっと」
「参ったな」
彼がむず痒そうにして、空いたほうの人差し指で頬を掻く。
「ずいぶん踏み込むね、君は」
「……あっ、ごめんなさい。また私──」
「いいんだ、そういうのは慣れっこでね。さっき話した僕の友人もそうなんだ。彼も彼で人を見透かしたような物言いをしてさ──いや、彼の場合、君とは違って、見限っていると表現した方のが適切なのかもしれないが」
そうやって引き合いに出された、彼の友人を語る言種からは、皮肉以上の信頼がこもっているように彼女には感じられた。
……それが、どうしてだろう。
胸が、苦しく、鷲掴みにされているみたいだ。
理由はわからない。
そこには何かしらの後悔があり、歪みがあり──けれど、それを根拠とする像がなかった。
雪嵐に塞がれた記憶。
今の彼女では、掘り起こせそうもない……。
「───まだ、気分が優れないかい?」
「……いえ、大丈夫です」
と、彼女は返す。
明らかに顔色が優れてはいなかったが、何処かしらに痛みがあるわけでもなかった。
索然とした違和感。
転じてないものねだり。
それは喉の渇きを厭に喚起させる。
誤魔化そうと、もう一度水を含んだ。
「………」
偶然か必然か。彼と目が合った。
水を飲む姿をじっと見られ、彼女は若干の気恥ずかしさを覚えたが、それを超えて、鼓動がぴたりと嵌まった。
そんな奇妙な一体感に囚われた。
──この人も、私と同じなんだ、と。
互いが互いに火花のような心許ない関心を抱いて、無関心のままやり過ごせず、結局、小さな刺激を交わし合っている。
そう考えると、次第に彼女の中の暴走気味だったほとおりが和らいでいった。
水の常温が効いた。
病魔が去っていく。
すると今度は、痺れを切らした彼のほうからこんな事を訊ねてきた。
「今更ではあるんだけど、君は怖くないのかい? こんな僕でも
「───ああ、言われてみれば」
彼女は確かに今更も今更で、なんだかおかしくなって、吹き出しそうになった。
ペットボトルのキャップを閉め、底の水をちゃぷちゃぷと揺らす。
質問の意図が言葉の表側にない事は、彼女にはわかっていた。
彼が聞きたいのは、どうして怖がらないのか、不安に駆られないのか、そういった理由の方である。
ペットボトルの内壁に張り付いた水滴の一粒がつぅと滑り落ちるのを皮切りに、彼女は滔々と言葉を紡いだ。
「この本まみれの部屋を見て最初に湧いた思いは、親近感にも似た好奇心でした」
語り出しはたおやかに。
自らの衝動を宥めるようにして。
「ここで私の知らない誰かが生活している姿が全然想像できなくて、まるで仮の物置みたいだなって。それなのに布団が敷かれていて、どんな人が住んでいるだろうって。こんな狭い部屋に閉じこもりながら、世界をじっと見つめて、例え届かなくても、手を伸ばし続けているんだろうなって勝手に夢想して」
そんな時、ちょうどよくあなたが帰ってきた、と彼女は自然体で彼を見つめ直した。
「なんというか、腑に落ちてしまった。初対面なのに、ただの通りすがりの他人とはどうしても思えなかった。もうほんと、笑ってください。
たぶん──一目惚れしてしまったんです、あなたに」
ようやく、その感情の名前を見つけられた。
それは、おそらくはじめての経験であり、告白でもあった──。
