Chapter Ⅴ 後編

 
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 ……夢を、見ていた。
 永久を軸に交差させた記憶の檻。
 生まれたばかりの彼の意識は、フラスコの中にあった。
 
 見かけ上は目も耳も口も自由に動かせる手足もない、千数百億に及ぶ神経細胞で構成され、それと負けず劣らない総量の微細な光を纏う極細の触手により表面を覆われた半球状の本体。
 そんな彼は、構造体の結合と強弱、脈動とスピンの関連性の従うままに、光と音のスペクトルが生み出す幾重の螺旋にて揺蕩う世界の有様を見聞きした。

 そこには戦慄くだけの感動があった。
 まず単純明快な法則で回る『美』があり、力が円を生み出し、空間が膨張と収縮の運命を束ねて、時間による始まりと終わりの循環が限りなく広がっていた。

 そして、この世の真理に足る感動の先には一生物としてのもどかしい現実が待っていた。

 透明な硬い膜に隔たれた先、湾曲された世界の外側では、若い女の科学者が平たい板状の上で寝息を立てていた。

 譫言のように何事かを呟いている。
 しかしその内容を上手く聞き取る事はできなかった。
 生まれたばかりの彼には経験が浅すぎた。
 それを音として認識し、一つ一つの発音の違いを区別できても、当然ながら、言語としての体系を知らなかったのだ。

 しばらく経ってから、科学者がのそりと鈍い動作で起き上がると、とんでもない鼓動と皮膚の軋みを立てて「おはよう」と叫んだ。
 彼の心情に依れば、叫び散らした、という表現のほうが似つかわしかったかもしれない。
 もちろん、その時の彼にはどのような意図からそんな聞くに堪えない音波を放射されたのか、まったく理解に及ばなかったが。
 
 彼女はただただ嬉しかったのだ。
 何度も気が遠くなりながら実験に打ち込み、時には無惨に投げ出したくなった失敗にくへんの数々。
 その果てに初の成功例が、無事元気な姿で、覚醒してくれたのだから。
 
 
 電球の孤高な光で照らされた薄暗い地下室。
 手狭なそこでは蒸気機関の荒く吐露めいた駆動音が鳴り響く。
 次第に幻灯機と自動筆記機を併せた機械の内部では、カチカチカタカタと慌ただしい工合で歯車たちが起き上がった。
 

 彼が科学者の用いる言語を完全に習得するまで、一日と掛からなかった。

 若い女の科学者は初めに、一人の身ではとても抱えきれないような羨望と執着を込めて、“さみだれ かぐや”と名乗った。

「私が君の親ね」

 細い筒状の先端から、ちりちりと光線が伸びる。
 幻灯機による照射だ。
 白い光がスクリーンの背後にあたり、その表面には、輪郭のぼやけた黒い文字が浮かび上がった。

『親…?』
「そう、私が君を生み出した。だから親。穴からじゃないぜ、その水槽の中で培養したんだ。まあ血縁上の関係ほど深くはないけれど、それに負けず劣らずの願いを君に込めてある」

『願いとはなに?』と彼は問うた。

「代理してもらうことだよ。自分には出来ないことを他者に委ねる。私の身に余るかもしれないから、念を入れて代わりの存在を立てることにした」

 かぐやは、人好きのする笑みを浮かべる割には淡白な印象を受けた。

『それはあまり答えになってない。私が聞きたいのは、その願いとやらの具体的な内容のほうだ』
「ああうん、そうだね。うっかり、これは私の悪い癖だ。つい抽象から話し出して相手の求める回答に行き着かない。率直に話すと、君には長生きしてもらいたいんだ」
『長生き。それはどのくらい?』

「───永遠」

 科学者は大真面目な顔で応えた。
 神へ臨む畏れ知らずな願い。
 それが己にとって最も重要な事柄で、それ以外の物は端から眼中にないとでも突き放すような意思の強さを持っていた。

 瞳の奥に窺える熱量はそれこそ、恒星の瞬きに匹敵する。

 けれども、そこで感化されて心情に流されるほど、とうに彼は未熟でもなかった。
 同時に成熟しきっていた訳でもなかった。
 ゆえに嘘はつけない。
 いっときの欺瞞を──何物にも繋がらない同調を良しとできない。
 なにより彼女に嘘をつくという事は、己の意義とこれからを否定する事と同義になる。

 彼はありのままを告げるため、間髪入れずにペンを疾らせた。

『不可能だ』

 たとえ世界の行く末がこの矮小な頭脳体では予測しきれなくとも、誇れることに、その一端に浸り汲み取れるだけの性能を持ってこの世に生を授かった。
 そんな彼女の最高傑作として、慰めにもならないまやかしなど告げられるはずもなかった。

 さればこそ、彼がこの生みの親である科学者に与えてやれる報復は、生誕したその時点で必然と定められていたのだろう。

 かぐやが「あぁ、やっぱり?」と力なく微笑んだ。
「薄々とさ、そう言われる気がしてた」

『ならば、何故そこまで想像がつきながら、私に?』

「言ったでしょう、これは願いだって。
 単純にね、諦め切れなかっただけなんだ」

 これからよろしく、とがくやはフラスコの表面を愛しそうに撫でた。
 彼はそれを、釈然としない意識で眺めていた。

 ───叶わない願いだと冷酷に告げられながら、彼女の態度は依然と直向きなのである。
 
 

 かぐやと過ごす日々は、とても早いようで長々と濃密に過ぎていった。
 いつも飽き足らず議論する課題は、『永遠』について。

 どうすれば永遠の自己性を実現できるか。

 翌る日も翌る日も否定と破綻を嵩ませて──主に彼女の思いつきや仮説を彼が容赦なく切り捨てて──は、その真理に至ろうとするのではなく、あくまでも実現に近づくため、妥協を手探りで組んでいく毎日。
 その事ばかりを追求して、永遠の確実性だとか、永遠が果たしてこの世に存在するのかだとか、そういった根本的な命題にはまるで取り合わず、ただ直向きに、かぐやは陽炎の背を追いかけているようだった。
 
 ───この会話は、そんな休憩の折の断片。
 
『なぜ、あなたはいつもそう楽しげなんだ? こんな何もない時でさえ、あなたは笑んでいる』
「気になるの?」
『不思議と』

 彼にとっては見当もつかない、素朴な疑問だったのだ。
 あるいは、彼女の子どもらしくあろうと、親の知らない面の裏を覗き見たいだけだったのかもしれない。

「私の母君が、なかなか笑わない人だったんだよ」
『母君というと、産みの女親…でいいのだろうか』
「不安がらなくていいよ、私にそんな込み入った事情なんてないんだから。君の視点で言うと、この私みたいな存在に当たるね」

 かぐやがふぅと鼻で息を吐く。
 机に頬杖をつくと、物思いに耽るようにぼぅと安らいだ面持ちで、目の前の頭脳体を見守り出した。

「私や兄達を見守る時、友人の一人と談笑している時には相応に口許を綻ばせていたんだけどね、他ではいつも哀しげだった。
 その時のあの人の表情は、誰かを待ち続けているようでもあったし、何かを憂いているようでもあった。
 それは、私ではどうしようもできない事だった。

 だから誓ったんだ。
 母君の代わりに、その倍以上笑っていよう。
 あなたが身を削ってまで招待してくれたこの世界は、とても素晴らしい所なんだって。

 身をもって証明したつもり。

 ま、結局駆け落ちされちゃったんだけどね。
 で、今ではそれが生き様として染み着いちゃった。改めて口にしてみると、なかなか恥ずかしい理由だよねぇ」

『ならば私は、あなた以上に笑うとしよう』

「……あはは、むず痒い冗談みたいだ。
 私以上のがいたなんて」
『後継が先代を上回るのはそう不思議な事ではない。それは、惑星さえも例外ではないのだから』
「そういう話じゃないと思うんだけどね……。
 あぁでも、わかっちゃったかも」
『どういうことだ?』
「ふっふふ、これは言わぬが花っぽいな」

 かぐやは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 そんな笑みを向けられた彼はというと、先程の話で腑に落ちない点があったのか。

『……だが』
「ん、なに?」
『あなたは、恨まなかったのか?
 自分を置いて出ていった母親を』

 彼がそう訊ねると、かぐやは微妙な表情で答えた。

「正直、恨めなかった。これは一番上の兄から聞いた話で、まだ君に言ってなかった事だけど、私の母君は不老不死らしいんだ」
『待て、その話を信じたのか?』
「思い当たる節は沢山あったからね。無病息災を誇らしげに胸を張って、そのくせ毎日毎日、老けて見せるために厚化粧を施してた女なんて、きっと私の母君ぐらいのものだろう……。
 ひどい火傷だって一息に治っていたり、今に思えば、教えてくれなかっただけで、私たち家族には明け透けだったな。
 まあ流石に身勝手だとは思ったし、今でもそう思うけれど、耐えられなくなったんだろうね、周りと比べて全く老いない自分に。あの人はなんだか、幼子の面倒をある程度まで見られるだけの、子供のような人だったから」

『……あなたが永遠を追い求める理由は、その母親の為か?』

「そうだね。ずっと独りきりの母君をそのままにして、この世を去れない。その為に父が志半ばで遺していった研究もある。兄達がやらないと突き放すのなら、せめて私だけでも受け止めないと──」

 そういって、彼女は朗らかにはにかんで、たまらなく、彼を魅するのだ。
 
 
 彼女に報いたい──。
 彼にあった心根はそれ一つのみ。

 彼女と接すれば接するほど、寂然とした一途な微笑みに触れれば触れるぶんだけ、その思いは日に日に強さを増していく。

 彼女の願いが例え白い鴉を追うような代物だと解りながらも、彼が思考を自死的に止められなかったのは、“さみだれ かぐや”という一度決めたモノの為なら向こう見ずに命までも懸けてしまう女に、惚れてしまったからなのかもしれなかった。

 惚れた弱みは、図らず長生きしてしまうものだろう。

 単純明快に進退を繰り返しては余裕綽々と微笑んでいられる彼女が、とても誇らしく爽やかで。
 フラスコの中でしか生きられなかった当時の彼は、そんな彼女の生き様に惹かれたのだ。
 
 ───それは、儚くも分厚いフラスコ越しの片思い。
 我が創造主を遥か遠方より愛おしむ──。
 そのような窮屈な幸福が、何時迄も続けばいいと、永遠を願った。
 
 
 ある時、珍しく浮かない顔で、かぐやが地上からの階段を降りてきた日があった。
 彼女は無言でいつも通りの定位置に座り、しかしいつもとは違って彼に一言の挨拶も投げかけずに、墨なり炭なりで真っ黒になりつつある檜の机に突っ伏した。

 その頃の彼には、伝達手段がスクリーンに浮かぶ黒い文字だけでなく、脳髄ほんたいに生えた無数の触手を震わせて音声を発するだけの技術も備わっており、その術を活用してかぐやに話しかけた。

『───おはよう、かぐや』

 フラスコの中──水中から響き出すそれはどうしても頼りないものだったが、かぐやにはしっかり届いたようで、

「……おはよう」
 と、らしくもなくしおらしい声ながら返してくれた。

 僅か数分ほどの永い沈黙の後、かぐやがぽつりと話した。

「いい加減家に入れってさ、兄達が五月蠅いんだ。私の気も知らないで」

 かぐやの父は彼女が生まれた頃には既に他界しており、母に至っては八歳の彼女を置いて、ある日を境に忽然と何処かへ去ってしまった。
 だが、幸いにもかぐやには二人の兄がおり、長兄が親代わりとして、幼いかぐやの面倒を見続けた。
 そういう背景もあってか、一番上の兄だけには強気に出れないと、かぐやは頭を悩ませているらしい。

『………』

 もし彼女が誰かのもとへ嫁入りしてしまったら、この日々は終わってしまう。
 少なくとも、これまでのように四六時中篭りきりで研究というわけにはいかなくなる。
 明治という時代性が彼女の自由を一分も許すとは思えない。
 最悪、半ば放棄さえありうるだろう。

 彼は想像する。
 最悪の可能性を思い描く。

 そこは静かだ。
 何者も侵しがたいほど無音に違いない。
 床や棚が埃まみれで、残った書物なんて使い物にもならず、岩の天井は雨水を滴らせて今にも崩れ落ちそう。

 きっと、忘れ去られた墓所と酷似している。

 そう変わり果ててしまう前には、彼の命は跡形もなく潰えている。
 延々と薄暗いこの地下室で、一メートル四方にも満たないこの水槽の中で、踠く方法も知らず、澱む水はいつしか思考さえも腐らせ、自己が緩やかに溶け消えるのを待つのみとなるのだろう。

『───かぐや』
「その先を言葉にしたら許さないから」

 拒絶に呼応して、彼女の肩がひとりでに震えた。

 彼が何を考えていたのか、手に取るように理解できたのだろう。
 当然の拒絶だった。
 生かす道を探し求めている彼女に、その願いはあまりに酷だ。

 かぐやに、愛し子である彼を殺せるはずがないのだから。

 悲愴な沈黙が長引いた。
 その間、彼の思考に渦巻いていたのは、かぐやと共に生活を送る、顔貌のはっきりしない抽象化された男の姿だった。

『……いっそのこと私が、あなたの相手になれたらよかったのだが』

 なんとなしに呟いた、彼の些細な望み。

「──────」

 そんな荒唐無稽と断じ得る呟きを、かぐやは袋小路の現状を打破する最適解と受け取った。
 ……受け取れてしまった。

 おそらくそれが、本格的な悲劇の始まり。

 季節は過ぎ、彼女の家に残されてあった書物ちしき──彼女の言によると伝記だという──の一部からも着想を得て、一つの研究が実を結んだ。

 それは、純粋な頭脳体である彼の因子を他人の脳へ植え付けるという、道徳観念からはかけ離れた延命方法だった。

 
 因子を植え付け、乗っ取りを図るその仕組み上、ぶっつけ本番による決行しか道はなく。
 失敗は死を意味した。
 緊張はある。
 だがそれ以上に、彼にはかぐやと一緒の世界に居られるという高揚のほうが大きかった。

 無事研究を終えて、それから数日後。

 かぐやが彼の前に、長兄が見繕ったという婚約者を連れてきた。

 婚約者の話は以前から聞かされていた。
 思い出、と呼べるほどの味わい深さは、かぐやの話からはなかったように思う。
 男が一体どういう人間か、淡々と客観的に評価し、必要な情報だけが箇条の如く開示され、凍てる焔の瞳は弛まずこの日を見据えていた。

 男は特別悪評も買ってない、生まれが多少裕福なだけの、平々凡々な捻くれ者だった。

 その時の彼女の白粉で整えた、隙のない濃艶な微笑が印象的で、まるで見てはいけないモノを目撃してしまったかのような気分に彼はさせられた。

 ……そうして。

 彼女の婚約者であった男が、大きなフラスコの中に浮かぶ頭脳体わたしの姿を認めて、その瞬間、聞くに堪えない悲鳴を残して逝った───。
 

 行為自体は、ものの数秒で完了した。
 しかし、その後に起きた制御する質量の急激な増大に彼の意識は耐えられず、数日ほど寝込んでしまった。

 目が覚めたとき、まず視界に入ったのは、渋みのある木目の天井板だった。
 ひっそりとした静けさの間口に小鳥の囀りを聴く。
 引き違い窓から青空の一片を見た。
 畳の匂いは後に知れば草原の青臭さと似ていて、その上を漂う次なる薫りの正体は線香と呼ぶようで、初めて彼は薫りから仄かな甘味を味わった。

 ───世界が、晴れ渡っている。

 そこはかぐやの婚約者であった男──あずまの家。その一間。

 彼の新たな命は、そっと始まりを告げたのだった。
 
      …
 
 涼風が肌を撫でる。

 曙塗りの茶碗を傍らに置いて。
 二人は、茜雲に桔梗の艶やかな色味を帯びた夕暮れの西空を、誰に横やりを入れられるのでもなく、縁側から茫と眺めていた。

 それは二人だけの時空。
 必要不可欠なモノが、全て手元に揃っているかのような充実感。
 これから続いていくであろう生活に、彼は誰にともなく想いを馳せた。

「外の世界はどう?」と、かぐやが訊ねる。
「───綺麗だ」と、彼は大きく空を吸い込んだ。

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