Chapter Ⅴ 後編
何処とも知れない街の路地裏。
敷き詰められた黒灰色のビル群、その空隙から覗ける白雲の天蓋は対照的によく引き立っている。
そこへふらふらと逃げ込む影が一人。
五月雨虹架は、頼りない足取りで無人の路地を彷徨う。
時折足裏を引き摺り転び掛けてしまうその姿は、これから未練を果たそうとする末期患者のようで。
己が死に場所を定めんとする、鬼気迫る面影が、その少年にはあった。
……声が、聴こえてきた。
それは外から掛けられたものではなくて、彼の内側から響く声のようだった。
性別はどちらとも取れない。
“大人”のようではあるが、その響きは命知らずの機械のように平坦で、テクストがそのまま音になったかのような声だった。
その声が言う。
『初めましてだな、五月雨虹架』
虹架が、笑う。
「余所余所しいですね、僕とあなたの仲でしょう?」
ビルの壁を背に寄り掛かるようにして、塵と小粒の石で黒く薄汚れた地面に虹架は座り込む。
そして、浮浪者さながらに顔を俯かせた。
残留した湿気により、じんわりと身体の芯が冷えていく。
「けれど、確かに。
混じり気のないあなたとは初対面だ」
ずきん、と脳自体が軋みを上げる。
それが厚みのある風船みたく段々と膨らんでいって、内側から圧迫されていくようなこの気色悪い違和感は、東凪斗の脳に、そして宵閉鈴音の脳に、さらに今、五月雨虹架の脳に取り憑いたモノの仕業に違いない。
「………はは、ッ」
残された時間は絶望的に短く、茶菓子のようにあっさりと底を突くのだろう。
虹架は誰に語るでもなくそのような自分の最期を想像し、曲解した上で受け入れた。
「……っ。改めて、名前を聞きましょうか」
生憎と私には名前がない、とさっそく断られてしまった。
『私は所詮乗り継ぐもの、云うなれば雑多数多の客人だ。そんなものが大本の名前を持っていては、宝の持ち腐れになってしまう』
声が血潮を巡る度に脳が疼き、その痛みを奥深くへ沈ませるように虹架は呼吸を反覆する。
「そうですか。それが、あなたの生き様というわけだ」
『課せられた使命でもある。こればかりは、誰にも譲るつもりはない』
「ようやく合点がいった。永遠に対する執着はあなたの分か。永遠を生きる事が目的。
……でも、だとしたらあまりにも憐れだ」
『なに?』と、声が不快を露わに訝しむ。
どういう意味だ、と声が重ねて問う。
虹架は愉快そうに含み笑いを零した。
「それは、あなたが一番よく理解している傷みでしょう。あなたの弱さを、僕に答えさせないでほしい」
『………』
自分でも思うところがあるらしく、彼は反論のひとつも波打たず、押し黙ってしまった。
「あなたには恩がある。僕の今までの人生で、この世界と真剣に向き合ってくれた人はいなかった。同情なり期待なり興味なり、半端な色を向けられる事の多い人生だったけど、思慮深い言葉と深遠なる洞察、思わず『色彩』が翻るような発想を与えてくれたのは、先生──あなただけだった。だからかな、使い捨てられると承知であなたの本意に協力するのも、やぶさかではなかった」
それが、嘘偽りない虹架の本心。
この先、五月雨虹架にどんな人生が待ち受けようとも、その心は死後さえも塗り変わらないだろう。
「でも、あなたは一つだけ、道を間違えてしまった」
『……宵閉鈴音のことか?』
「───残念ながら違います。僕の感情とはまるで関係ありませんから、この間違いに関しては。ッ…──うん、焦らず、焦らず」
脳に巣くう厳しい異物感に押され意識が白線の向こう側へ飛んでしまわないよう、慎重に息を整える。
「あなたは人の脳を乗っ取るそうですね。
……そこまでは、僕にも見えてなかった」
『正確に言えば違うが……。まあ、嬉しい誤算、というヤツだ。君はついぞ私には触れられなかったからな。触れずに見られるのは大雑把な表層意識までと見える。事故の影響かその真相はもはや闇の奥だが、私は自分を見失っていた。意識から欠け落ちていたのさ、こうやって生き継いできた矜持が。ゆえに、ここまで君に悟られなかった』
「……生き継いできた矜持」
本気で言っているつもりなら、ますます憐れだ。
そんな矜持に然程の価値もない。
その無慈悲な事実さえ、彼のほうが身に染みているはずなのに。
虹架は寂寞として自分の身を見下ろし続ける。
「僕が視る『色彩』の正体、その核心にあなたは迫った。光を見たんでしょう、だから僕へ乗り移ろうと考えた」
『ああ』と頷く代わりに少年の脳の一箇所が幽かに揺れた。
『君が視ている『色彩 』は、人に宿った“霊魂”と呼ばれる存在だ。
非物質性の人格、
精神の原動力たる永遠の指向。
それに色があるという君個人の世界観とに比重はなく、肉体が滅びた後、それがどういった変遷を遂げるか、死後の世界を一度見てみたくなった ──。
君の脳と瞳がなければ到底至れない望みだ』
天性の才能に手を届かせるには、根底から同じ存在に成り代わってしまえばいい。
それが、彼の生き方を象徴とする本来の志向性。
「………」
だが声には全くの自覚がない。
その想いが、初めの願いからまるで逸れてしまっている事に。
虹架の脳髄に寄ろうとする声は、平然とした韻で種明かしを続ける。
『しかし乗り移ろうにも、東凪斗のままでは為しえなかった。君も察しての通り、原因不明の不調が長引いてね。君と対峙するには力不足だと感じたし、このままではいずれ、私の思うままに動けなくなると憂いた。
そこで段階を踏もうと、最初に狙いをつけたのが宵閉鈴音だった。
霊魂の存在が真であるのならば、肉体とそれを媒介するのは脳髄であるという仮説。
あの試みは半ば賭けではあったが、結果として上手くいってくれた』
「……彼女は仮説を実証するための道具であり、また僕を誘うための撒き餌だった。僕なんかが人の事をとやかく言えた立場ではないけれど───なかなか、他者を人として見ていない」
『無論。すべては足掛かりだ』と、声が情を介さない波長のように自分の本性を告げた。
出し惜しみはない。
五月雨虹架との関係はこの寂れた路地で閉幕を迎えるのだと、未練なく断ち切っていく。
「つまり僕は、人でなしに人を見知る機会を貰った、という事になるのか」
───なんて皮肉だ、と。
「そして同じもの同士、肝心なところで分かり合えず、最後まで分かち合えなかった」
───これほど悲しいすれ違いはないと。
「この望みが叶う日は未来永劫訪れないだろうけれど。あなたにも、あの二人の悲哀と寂寥が、染み付けばよかったのに……」
水面下で眺め梳いていた数多の『色彩』、うち一つだけを残して、虹架は今まで手繰り寄せ集めたそれらの繋がりをひそかにほどいて還していった。
『……何をしている?』
だが声は目敏く異変を感じ取り、咎めてきた。
「まあ、終活、というヤツですよ」
現状、彼に成し得る過去の清算はこれくらいが精一杯。
もう一度逢いたい気持ちは今も変わらないけれど、その日が来る頃には、きっと何もかもが変わってしまっている。
なら、後腐れなく回り道を歩むまでだ。
『終活。この期に及んで無駄な足掻きに出るか……。
諸共私を葬るつもりか?』
「まさか。僕を殺すのはあなただ、先生 。その事実は何をどうしようと覆らない。だけど───先に言ったでしょう、あなたは道を間違えたと。
ここから先は、行き止まりだ」
明確な答えはついぞ口にしないまま。
虹架は、ゆったりと頭をもたげて、最後に、なんでもない曇り空を見上げた。
頭痛がひどい。
瞼の裏が熱い。
脳が沸騰するようだ。
なにやら声が心臓の鼓動に同調して響いてくるが、今となっては瑣末なから騒ぎ。
人差し指で側頭部に触れる。
それはまるで、拳銃自殺する直前の気味の悪い静けさを思わせて。
そんな彼の表情は、微睡みに落ちる寸前の痺れるような安穏に包まれていた。
「ああ───やっと、見られた。
僕、あんまり無色 が好きじゃなかったんだ」
曖昧模糊とした朝方の記憶によると。
予報では、明日には雪が降るらしい。
だからだろう。
軀の末端がこんなにも、屍人のように凍えている。
「………………」
車の排気する騒々しさが、次第に息を吹き返していく。
今の今まで、悪い夢に魘されていたみたいだ。
気がつけば、冷や汗でびっしょりと首元と背中が濡れていた。
肌寒さのあまり、自分の肩を抱き締める。
彼は何も思考せず──得も言われぬ引力に突き動かされるまま、曇り空の薄暗さにより一層と見窄らしい光景となった路地裏の片隅から、緩慢に腰を上げた。
身体が重量以上に沈む。
悪夢ばかりでなく、質の悪い熱病にも罹っているのかもしれない。
ふらりと、寂れた路地裏を後にした。
渇いていた。
望みのない欲を抱えて、逸る脚が縺れて倒れそうになってしまうくらい。
胸の中が腫れて、灼熱の砂漠が罅割れていくように。
なによりも、果てがなく息苦しかった。
空気を肺に送り込んでいるはずが、原理に背いて、霞を腹に流し込んでいるようだ。
「……っ、ははは」
ならば、満たされないのももっともだ。
むしろ道理に準じていると云えるだろう。
ただ漫然と生きているだけで器が満たされるのなら、元より人間が欲という罪過を背負うはずがないのだから。
「……逢いたい。アナタに、もう一度───」
人知れず零れ落ちた望みは、誰に向けた恋しさだったか。
それを唯一知る者は、均衡は保てど既に罪過の混成に呑まれ、原型を留めていなかった。
*
十二月中旬。寒風の曇り空。
落ち着いた息遣い。
痙攣する手指。
汗ばんだ肢体は青白く。
汚らしい排泄物の悪臭が鼻に付く。
五月雨虹架は、その日初めて、殺人に手を染めた──。
敷き詰められた黒灰色のビル群、その空隙から覗ける白雲の天蓋は対照的によく引き立っている。
そこへふらふらと逃げ込む影が一人。
五月雨虹架は、頼りない足取りで無人の路地を彷徨う。
時折足裏を引き摺り転び掛けてしまうその姿は、これから未練を果たそうとする末期患者のようで。
己が死に場所を定めんとする、鬼気迫る面影が、その少年にはあった。
……声が、聴こえてきた。
それは外から掛けられたものではなくて、彼の内側から響く声のようだった。
性別はどちらとも取れない。
“大人”のようではあるが、その響きは命知らずの機械のように平坦で、テクストがそのまま音になったかのような声だった。
その声が言う。
『初めましてだな、五月雨虹架』
虹架が、笑う。
「余所余所しいですね、僕とあなたの仲でしょう?」
ビルの壁を背に寄り掛かるようにして、塵と小粒の石で黒く薄汚れた地面に虹架は座り込む。
そして、浮浪者さながらに顔を俯かせた。
残留した湿気により、じんわりと身体の芯が冷えていく。
「けれど、確かに。
混じり気のないあなたとは初対面だ」
ずきん、と脳自体が軋みを上げる。
それが厚みのある風船みたく段々と膨らんでいって、内側から圧迫されていくようなこの気色悪い違和感は、東凪斗の脳に、そして宵閉鈴音の脳に、さらに今、五月雨虹架の脳に取り憑いたモノの仕業に違いない。
「………はは、ッ」
残された時間は絶望的に短く、茶菓子のようにあっさりと底を突くのだろう。
虹架は誰に語るでもなくそのような自分の最期を想像し、曲解した上で受け入れた。
「……っ。改めて、名前を聞きましょうか」
生憎と私には名前がない、とさっそく断られてしまった。
『私は所詮乗り継ぐもの、云うなれば雑多数多の客人だ。そんなものが大本の名前を持っていては、宝の持ち腐れになってしまう』
声が血潮を巡る度に脳が疼き、その痛みを奥深くへ沈ませるように虹架は呼吸を反覆する。
「そうですか。それが、あなたの生き様というわけだ」
『課せられた使命でもある。こればかりは、誰にも譲るつもりはない』
「ようやく合点がいった。永遠に対する執着はあなたの分か。永遠を生きる事が目的。
……でも、だとしたらあまりにも憐れだ」
『なに?』と、声が不快を露わに訝しむ。
どういう意味だ、と声が重ねて問う。
虹架は愉快そうに含み笑いを零した。
「それは、あなたが一番よく理解している傷みでしょう。あなたの弱さを、僕に答えさせないでほしい」
『………』
自分でも思うところがあるらしく、彼は反論のひとつも波打たず、押し黙ってしまった。
「あなたには恩がある。僕の今までの人生で、この世界と真剣に向き合ってくれた人はいなかった。同情なり期待なり興味なり、半端な色を向けられる事の多い人生だったけど、思慮深い言葉と深遠なる洞察、思わず『色彩』が翻るような発想を与えてくれたのは、先生──あなただけだった。だからかな、使い捨てられると承知であなたの本意に協力するのも、やぶさかではなかった」
それが、嘘偽りない虹架の本心。
この先、五月雨虹架にどんな人生が待ち受けようとも、その心は死後さえも塗り変わらないだろう。
「でも、あなたは一つだけ、道を間違えてしまった」
『……宵閉鈴音のことか?』
「───残念ながら違います。僕の感情とはまるで関係ありませんから、この間違いに関しては。ッ…──うん、焦らず、焦らず」
脳に巣くう厳しい異物感に押され意識が白線の向こう側へ飛んでしまわないよう、慎重に息を整える。
「あなたは人の脳を乗っ取るそうですね。
……そこまでは、僕にも見えてなかった」
『正確に言えば違うが……。まあ、嬉しい誤算、というヤツだ。君はついぞ私には触れられなかったからな。触れずに見られるのは大雑把な表層意識までと見える。事故の影響かその真相はもはや闇の奥だが、私は自分を見失っていた。意識から欠け落ちていたのさ、こうやって生き継いできた矜持が。ゆえに、ここまで君に悟られなかった』
「……生き継いできた矜持」
本気で言っているつもりなら、ますます憐れだ。
そんな矜持に然程の価値もない。
その無慈悲な事実さえ、彼のほうが身に染みているはずなのに。
虹架は寂寞として自分の身を見下ろし続ける。
「僕が視る『色彩』の正体、その核心にあなたは迫った。光を見たんでしょう、だから僕へ乗り移ろうと考えた」
『ああ』と頷く代わりに少年の脳の一箇所が幽かに揺れた。
『君が視ている『
非物質性の人格、
精神の原動力たる永遠の指向。
それに色があるという君個人の世界観とに比重はなく、肉体が滅びた後、それがどういった変遷を遂げるか、
君の脳と瞳がなければ到底至れない望みだ』
天性の才能に手を届かせるには、根底から同じ存在に成り代わってしまえばいい。
それが、彼の生き方を象徴とする本来の志向性。
「………」
だが声には全くの自覚がない。
その想いが、初めの願いからまるで逸れてしまっている事に。
虹架の脳髄に寄ろうとする声は、平然とした韻で種明かしを続ける。
『しかし乗り移ろうにも、東凪斗のままでは為しえなかった。君も察しての通り、原因不明の不調が長引いてね。君と対峙するには力不足だと感じたし、このままではいずれ、私の思うままに動けなくなると憂いた。
そこで段階を踏もうと、最初に狙いをつけたのが宵閉鈴音だった。
霊魂の存在が真であるのならば、肉体とそれを媒介するのは脳髄であるという仮説。
あの試みは半ば賭けではあったが、結果として上手くいってくれた』
「……彼女は仮説を実証するための道具であり、また僕を誘うための撒き餌だった。僕なんかが人の事をとやかく言えた立場ではないけれど───なかなか、他者を人として見ていない」
『無論。すべては足掛かりだ』と、声が情を介さない波長のように自分の本性を告げた。
出し惜しみはない。
五月雨虹架との関係はこの寂れた路地で閉幕を迎えるのだと、未練なく断ち切っていく。
「つまり僕は、人でなしに人を見知る機会を貰った、という事になるのか」
───なんて皮肉だ、と。
「そして同じもの同士、肝心なところで分かり合えず、最後まで分かち合えなかった」
───これほど悲しいすれ違いはないと。
「この望みが叶う日は未来永劫訪れないだろうけれど。あなたにも、あの二人の悲哀と寂寥が、染み付けばよかったのに……」
水面下で眺め梳いていた数多の『色彩』、うち一つだけを残して、虹架は今まで手繰り寄せ集めたそれらの繋がりをひそかにほどいて還していった。
『……何をしている?』
だが声は目敏く異変を感じ取り、咎めてきた。
「まあ、終活、というヤツですよ」
現状、彼に成し得る過去の清算はこれくらいが精一杯。
もう一度逢いたい気持ちは今も変わらないけれど、その日が来る頃には、きっと何もかもが変わってしまっている。
なら、後腐れなく回り道を歩むまでだ。
『終活。この期に及んで無駄な足掻きに出るか……。
諸共私を葬るつもりか?』
「まさか。僕を殺すのはあなただ、
ここから先は、行き止まりだ」
明確な答えはついぞ口にしないまま。
虹架は、ゆったりと頭をもたげて、最後に、なんでもない曇り空を見上げた。
頭痛がひどい。
瞼の裏が熱い。
脳が沸騰するようだ。
なにやら声が心臓の鼓動に同調して響いてくるが、今となっては瑣末なから騒ぎ。
人差し指で側頭部に触れる。
それはまるで、拳銃自殺する直前の気味の悪い静けさを思わせて。
そんな彼の表情は、微睡みに落ちる寸前の痺れるような安穏に包まれていた。
「ああ───やっと、見られた。
僕、あんまり
曖昧模糊とした朝方の記憶によると。
予報では、明日には雪が降るらしい。
だからだろう。
軀の末端がこんなにも、屍人のように凍えている。
「………………」
車の排気する騒々しさが、次第に息を吹き返していく。
今の今まで、悪い夢に魘されていたみたいだ。
気がつけば、冷や汗でびっしょりと首元と背中が濡れていた。
肌寒さのあまり、自分の肩を抱き締める。
彼は何も思考せず──得も言われぬ引力に突き動かされるまま、曇り空の薄暗さにより一層と見窄らしい光景となった路地裏の片隅から、緩慢に腰を上げた。
身体が重量以上に沈む。
悪夢ばかりでなく、質の悪い熱病にも罹っているのかもしれない。
ふらりと、寂れた路地裏を後にした。
渇いていた。
望みのない欲を抱えて、逸る脚が縺れて倒れそうになってしまうくらい。
胸の中が腫れて、灼熱の砂漠が罅割れていくように。
なによりも、果てがなく息苦しかった。
空気を肺に送り込んでいるはずが、原理に背いて、霞を腹に流し込んでいるようだ。
「……っ、ははは」
ならば、満たされないのももっともだ。
むしろ道理に準じていると云えるだろう。
ただ漫然と生きているだけで器が満たされるのなら、元より人間が欲という罪過を背負うはずがないのだから。
「……逢いたい。アナタに、もう一度───」
人知れず零れ落ちた望みは、誰に向けた恋しさだったか。
それを唯一知る者は、均衡は保てど既に罪過の混成に呑まれ、原型を留めていなかった。
*
十二月中旬。寒風の曇り空。
落ち着いた息遣い。
痙攣する手指。
汗ばんだ肢体は青白く。
汚らしい排泄物の悪臭が鼻に付く。
五月雨虹架は、その日初めて、殺人に手を染めた──。
