Chapter Ⅴ 後編

 
 そこは、白く硬く一点のくすみもない空間だった。

 街中に塊然と聳える塔の中の如き、切り離された静けさ。
 此処まで小さく木霊してくるアナウンスは、夢の中まで無遠慮に指を伸ばす現実の目覚ましのようだ。
 はっきりと聴こえるのは、二人ぶんの乱れた息遣いのみ。
 喧騒の鎧が次第に肌身から剥がれ落ちて、遠く、虹架は薄ら寒いような疎外感を覚えた。

 弱くも強くもない、ただただ満遍なく広がる白々しい発光が女の全貌を隈なく照らし出す。
 そこには、虹架と同程度の身長を持つ、そこそこ整った顔立ちの若々しい婦人がいるだけだった。

「………………」

 驚きを通り越して動揺するほど、何の感慨も湧かない。
 女の右手首を掴んでいても、何も感じない。

 この虚無を手探りに掻き回す感覚は、つい今し方体験したばかりのような──。

「あなたは、なんなんだ……?」

 そうして衝いて出た一声がそれだった。
 女が心外とでも言いたげに眉を曲げる。

「君こそ急になに? 少し乱暴気味だったのはまぁ、まだ子供のようだから大目に見てあげるけどね? ナンパなら他を当たってちょうだい。これでも私、娘がいるんだから。残念だけど君の相手はしてあげられない」
「惚けないでほしい。僕相手に普通を装ってどうするんです?
 はっ、まるで意味がない」

 絶世ほどの美しさもない不可解なモノに気分を曲げられて、虹架は脆そうな手首をキツく握り締める。

「い、いたっ」

 握り締められた手首と同じ側の瞼と頬を痙攣させて、本当に痛そうに女の表情が歪む。
 だが、痛みを感じるとこんな風に歪むんだ、と感慨に浸る余裕も、今の彼にはなかった。

「質問に答えてほしい。あなたはなんなんだ?」

 間違いなく、この女は死人だ。
 死人でありながら、生前の人格を軋ませる事なく保ち、思考を言語に換えている。

 五月雨虹架には覚えがない。
 それなのに、この女は死人なのだ。

「なんなんだも何も、君の言いたい事がよく…わからない。気に障ったならごめんね? でも本当に、私には何もないから」
「………」

 弱い女だった。
 その艶かしく細い首元を掴み上げれば、一分もしない内に本来あるべき姿へ還せるほどに。
 この女は弱く映った。

 虹架は力んでいた左手を少しだけ緩める。

「……質問を変えましょう。まず貴女の名前は?」

 ───宵閉よいとじ鈴音すずね、と生ける屍の女はそう名乗った。

「宵閉……」

 その苗字には聞き覚えがあった。一月前、東凪斗せんせいの紹介で自分の下までやってきたという小学三年生の女の子が、確かそんな苗字だった。
 あまりに珍しい綴りと響きだったものだから、まだ印象に残っていたのだ。

 なるほど、と虹架は内心くすりと笑う。

 状況が、薄々とだが視えてきた。
 宵閉ながめのおかげで、幸いにも情報はある程度出揃っている。

 後はこの手札からどう切り崩し、真相に至るかだ。

 虹架は質問を続ける。

「今日はどんな用事でここに?」
「尋問されてるみたいで嫌ね」

 そう愚痴をこぼしながら、宵閉鈴音が渋々といった様子で答える。
 少年の力が見た目以上に強く振り解けないため、素直に答えてさっさと話を終わらせようという算段のようだ。

「……単なる買い物。クリスマスがもうそろそろでしょう? 娘がいるのはさっき話したと思うけど、プレゼントを用意しておこうと思って」
「本当にそれだけですか?
 これから誰かと会う予定は?」
「いたなら今頃一緒に見て回っていたでしょうね」
「そうですか。では、ここで少し趣旨を変えましょうか。娘さんの名前は確か、ながめ、と呼ぶんでしたよね?」

「……どうして、知ってるの?」

「以前僕の下まで、ある悩みの種を相談しに来てくれた事があるんです。クラスのお友達と仲違いしてしまったようで、どうすればいいか助言が欲しいと。元気にしてますか?」

「……えぇ、ある時から急に笑顔に戻ってくれた。前よりも生き生きとしているくらい。でもその代わり、話題にする事もぱったりなくなったけど。今に思えば、あれは吹っ切れたんじゃなくて、ただ忘れ去ってしまったみたい」

「元気そうなら何より」
 と、虹架は嬉々として真似事に興じる。

 対して宵閉鈴音は、ひとりの親として警戒の眼差しで彼を注視する。
 その瞳に宿るのは漠然とした恐怖心などではなく、明確な敵意のように思えた。

 それでも彼女の表面に、感情の荒波は生じない。
 こちらに歯向かおうとするサカナさえ一匹も起きない。

 ──出来のいい人形の出来の悪い猿真似みたいで、それはひどくチグハグで、気分が悪くなる。

「なぜ娘さんが僕なんかにとても大事な悩みを打ち明けに行ったのか、気になりませんか?」
「……そうね、気になるかもしれない」

 その肯定は暗に、他に信頼できる人がいるでしょうにと嘆息しているようだった。

「きっと、あなたも知る人物に唆されたんでしょう。
 東凪斗という男に」

 咽喉がぎゅっと鎖すように、女の息が詰まる。

「……う、嘘よ」

 ───突如として、それは起きた。

 どぷ、と女の右頬の上側と左口角から粘性のある不言どうようの色が溢れ出し、洋服の上を伝って地面に零れ落ちた。
 瞬く間に溶けて消えて、一切の痕跡も残らない。
 ただし、身体の表面にこびりついた残滓は別として。

 虹架はその際、思わず手を離しかけ、仰け反りそうになる。
 間一髪で堪えようと踏ん張りはしたが、跳ね起きた衝動は完全には殺しきれず、結果、ぎこちない身震いで女の腕を引っ張ってしまった。
 
 鈴音が怪訝に目をぱちくりさせていたが、虹架は意に介さないよう努めた。

「嘘ではないですよ。そもそもここで嘘を吐いたところで得られる物はせいぜいあなたからの疑心だけ。それどころか失う時間のほうが多い。まあ思い込むのは勝手ですが、その選択ほど愚かな事もそうそうにない」

 虹架はここに至って間違いを訂正し、確信する。

 この女はまだ死んでいない──生かされている、と。

 視認するのも難いほど微弱だが、記憶のほうも一瞬一時の花弁を散らそうとしている。
 その一弾指の間には、本人だけが持つ、わずか静止画フレーム一枚程度の真実が折々に隠されているのだろう。

 だがそれを掴み上げるには、やはりまだ物足りない。
 夢幻の瞬きに人の指が触れたところで脆く拡散するだけ。
 もっとおもみがいる。

 微かに感情の湧水が零れ落ちた時、空っぽの器の中に糸通しほどの『孔』があったように思う。
 そこをこじ開けてやれば、『色彩』が溢れ出すはずだ。

 そのトリガーに関しては、わざわざ顧みるまでもない。

「どうやらあなたにとって、東凪斗という人物は特別のようだ。自分の娘以上に懐く想いが強いようだ。そこに一匹ほどの失望もなくはないけれど、あなたは今年の夏に最愛の方を亡くしたばかりのようだし、致し方ない弱さだとこの際目を瞑りましょう。人間一人では生きていけない、もう一人も抱えているとなればなおさらね」

「……何が、言いたいの?」

 仄暗い影がまるで蝶の着地を彷彿とさせるようにふんわりと女の相貌に張り付く。
 純白光の照射と絶妙な角度が合わさった視覚効果だろう、と虹架は彼女の変貌をそう無感動に捉えた。

「……私の何を知っているというの?」

 それはあまりに聞き取れたものではない、とても弱く震えた吐露だった。
 ゆえに自分だけで手一杯の虹架には──人前を取り繕う言葉選びに必死の子供には、彼女の弱音など一音も届かなかった。

「宵閉鈴音は弱い人間だ。それだけです。これは無色透明な独りよがりの独り言。全霊を懸けた言葉による大それた干渉は、まだ僕が有する能力の遥か範疇の外だから。僕の発言の片隅で、ありもしない心を乱してくれたら御の字だ」

『色彩』なしでは人の機微を読み取れない。
 言葉の裏もうまく計れない。
 そこまで考えが及んでいなかった。

 言葉さえあればいいと思っていた。
 それさえあれば、少しは人と折り合いがつけられると、そんな風に虹架は甘く考えていた。

 しかし、この宵閉鈴音模造品を目の前にしてそれも砕けた。

 わからない事だらけだ。
 圧倒的に経験が足りない。

 表情を見ても、発言を聴いていても、一瞬間の継ぎ接ぎである上辺からは、相手の事などあまりに知れたモノではない。
 すべては推量の域を出ず、踏ん切りがつかなければ閉じ籠る。
 役に立たない靄ばかりが無尽蔵に嵩んでいって、もくもくと頭が鈍く重くなっていく。

 無理にでも選び取る必要があった。

 そこからいろいろなモノを選んで、例えその選択が理不尽であれ、正しくあろうと演じる必要があった。

 それは、五月雨虹架の人生にはなかった逡巡と葛藤の渦だった。

 そこには苦痛を伴う。
 足が竦む思いだ。

 ───だが、これほどの鈍感に陥りながらも、なんて、人間らしい一時だろう。

「ただ強いて一つ上げるとすれば。あなたに思う事は、たったの一点。その身に施された不可解を白日の色に塗り潰したい──あなたの現在までを理解し尽くしたい。この欲動のみ」

 それを満たす為ならば、手段などとてもとても選んでいられない。
 歩みたい光明みちがその先に続いているのなら、がむしゃらに手を伸ばし続ける他ない。

「───東凪斗という存在はやはり、その足掛かりに相応しい」

 思い立ったが吉日か、彼は女の手首を握り締めたまま、踵を返し、階段を降り始めた。が、それに宵閉鈴音が抵抗し、虹架は階段を二、三段ほど降りたところで、そして彼女は踊り場の縁で踏み止まった。

「ッ……ど、どこに行くの?」

 宵閉鈴音は掴まれた腕を引き離そうと、無闇矢鱈と抵抗を続けている。

「先生──東凪斗さんの所に。これから落ち合う約束なんですよ。ちょうどいいから、あなたにも着いてきてもらおうかと思いまして」
「ど、どうしてッ?
 それに先生って、君は凪斗くんとどういう関係なの?」

「……まったく無自覚って本当に空っぽなんだな、察しも悪い」

 “あの人”もこうだったらどうしようか、と要らぬ不安が虹架の脳裏に過ぎるが、すぐさま捨て置いた。

「僕と先生との関係性については、ちょうど僕と宵閉詠の関係と似たようなものですよ。相談する側とされる側。あなただって知らないワケではないでしょう? 先生は心理カウンセラーだ、そういった繋がりが一つや二つあっても何もおかしくはない。僕はその一例に過ぎません」
「それで全部答えたつもり? ふざけないで……! 私を連れていく理由はなによ⁉︎ い。今更私と彼を会わせるなんて、なんのつ、つもりなのよッ……⁉︎」

 叫びは後に連れ、苦痛に喘ぐ悲鳴となっていった。
 宵閉鈴音は火を見るよりも明らかに錯乱していた。

 ──ああ、穢らしい色彩が羽虫の死骸のように散っている。

 憎悪と悲哀、裏返った愛の鋒。
 溝に滑落した虫襖色の厖大な殺意の飛沫に晒されて、恐ろしさよりも苛立ちが優った。

 だって、そこには、確たる記憶よりどころ観念だんりょくが欠落したままだ。

 そんな彼女のしつこい追求に嫌気が差しつつもあったのだろう。
 虹架は逸る気持ちを抑え切れず、どこまでも冷淡に、ついこんな本音が飛び出てしまった。

「あなたに話したって理解できない、黙って着いてきてください」

 ──連れていかれる。
 ──このままじゃ、彼と再会してしまう。

 ましてや連絡も取らなくなって一週間以上。
 募る想いは黒々としてみっともない。
 そういった惨めを見る未来が、彼女の心の琴線に激しく触れたのか。

 瞬間、女の像がどろりと溶け出した。
 否。『色彩』が濁流の如く全身から溢れ出したのだ。

「いや──いやっ、いやよ!
 だって…彼は、アイツはッ───!」

 実感の乏しい夢の中で、こわいこわいと駄々を捏ねている。
 必死になって泣き叫ぶ自分の喉が、まるで他人の所有物みたい。

「私を、虫ケラみたく捨てたんだから……あ────」

 力に負けたのか、踏み外したのか。

 遅かった。
 認識は、黒と白の狭間に……。

 両者は互いに、疑問の息を吐き終える暇もなく。
 氾濫した濁流を虹架が認識する一瞬の隙を突いて、彼の視界は前方から襲い来る衝撃と同時に暗転する。

 宵閉鈴音が覆い被さるように自分へ倒れ込んできたのだと気がつくのは、二階の踊り場に投げ出されて、身体の節々が激痛を訴えるなか、女の冷徹かつ嘲笑うような微笑に至近距離で見入られてから……。

「──────」

 その女の姿が、さらに自分の烈しい動揺から生み出された理想の怪物だと悟ったのは、スライム状の混沌を煮詰めたような『色彩』にしなだれかかられてからだった。
 
      …
 
 記憶も感情も、観念さえも、余さず雪崩れ込んできた。

「はぁっ、はぁっ、はぁッ──」

 それは、憐れな女の生涯だった。

 特別な事が両の腕で収まるくらい、一般的な波瀾の日々。
 周囲に満ち満ちた“色彩”とは一線を画すわけでもなく。
 画一された日常の裡に、些細な悲喜交々を詰め込むだけの繰り返し。
 詩文にして、その大半は一行足るに臥していっただろう。

 膨大な積み重ねは時として灰燼に帰し。

 それ以上に、崩壊は一瞬だっただけの事。

「はぁっ、はぁ…っ、ッはぁ、ぁ──」

 女の訥々とした述懐が脳裏の暗闇に浮かび上がる。

 先立つ夫。
 残された女と娘。
 取り巻く奇異な視線。

 この先続いてくれるかも不明瞭な、蜉蝣の日差し。

 それでも女は幸福だった。
 失われてしまったものよりも、手元に残ったもの、新たに掴んだものへ固執した。

 投げ出す訳にはいかないと奮い立たせた、あの碧い夕焼けの空が我が物のように思い起こされる。

 その帰路のただ中で、東凪斗と出逢った。

 それからのここ半年は、禍福を疑う以上のスピードで四季が過ぎていった。
 時の潮流に篩い落とされないよう、女は必死だったように思う。

 それ以上に、崩壊は一瞬だっただけの事。

「はぁッ、はッ、ッ…はぁ──」

 厭くほど喰い散らした尊厳だ。
 さんざ掠め取ってきた余熱だ。
 そんなありふれた光輝に、今更感慨はない。

 ───それにもかかわらず、なんなんだ、この胸苦しさは。

「っ、はぁ…ッ、ぁ──────」

 今にも凍りつきそうな曇天越しの仄かな日差しに、踊り場の無機質な照射が重なる。
 荒れるような雑踏の騒ぎ、軽やかに知らせを告げるアナウンスの声が、遠く、遥か遠くに聴こえた。

 生暖かい軀。
 ぐったりと放り出された四肢。
 ゆっくりと鳴りを潜めていく、宵閉鈴音の『色彩』。

 慌てて干渉した頃には悉くが既に手遅れで。
 今までとはまるで、虚無の感触さえも違えていて……。

 血が流れ出ていたのでも、打ちどころが悪かったわけでもなく。

 ───初めて、零れ落ちる涙を見た。

「たかが、赤の他人に……!
 なんで、僕がッ───!」

 遣る瀬無さに堪えられず、虹架はその場を逃げ出した。

 走る。走る。走る。

 人波を裂いて、何もかもを振り切って彼は走った。
 寒空に一層と頬を刺されながらも、しゃにむに走り続けた。

 宵閉鈴音はもう、死んでしまったのだから。
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