Chapter Ⅴ 後編

 
       ◆
 
「───手を組みませんか、先生?」
 
 ───ずきり、と脳が律動する。

 本来それに痛覚はない。
 脳を覆う頭蓋骨の内外に張り巡らされた神経や血管が圧迫や刺激を感じた時に反応し、痛みを警笛のように発生させる。
 ゆえに、それ自体が叫ぶのではなく、その周囲が異状を訴えるのだ。

 ……だが、彼の場合は違った。

 脳が、意識同士の軋轢に悲鳴を上げている。
 堪らず男は、黙れ、と劇しく全身アタマを抱え込んだ。
 
「───目指す最終地点が違うだけで、僕らの利は一致している」
 
 裏の通りを一望できる窓ガラスにはつめたいもらい火が仄かに差している。

 光の剥がれた暗黒の空。
 貌の秘する月が唯一虚空を縁取る。

 地球が太陽から月を覆い隠し光源を断つように、その一室もまた暗闇だった。
 しかし、あくまで映画上映中の館内程度の暗がりで、全てを覆い隠してしまうほどではない。
 慣れてしまえば、普段通りの歩幅と速度でその空間を歩き回れるだろう。

 そんな何処にでもある暗闇の内で、その男は苦しみに震えていた。

 孤独な椅子の上で病人の如く頭を抱え込み揺れ動いているのは、無論、彼だ。
 東凪斗の皮を被り続ける影だ。
 
「───僕はあの人に逢いたい。
 今はただ、それだけなんです」
 
 はっ、と云う嗤い声が木目調のフロアタイルに墜ちた。

「くだらない」

 日の暮れた冷ややかな部屋で男は一蹴した。

「欺瞞だらけだ。五月雨虹架、お前が一番良く身に沁みているはずだろう。相手を理解するということは、相手の醜さを余さず汲む事と同義。お前の嫌う『色彩』を塗りたくるようなモノだろうに。それを嬉々として望むお前は、現世にただ一つの美しい生き物を穢したがる獣だ」

 しかし、その上で相手に恋していると思えるのなら。
 それは、この上ない愛の証明となるだろう。

 だからこそ──。

「くだらない」

 彼は面の底より出づる不愉快さをありったけに搾り滲ませた表情で吐き捨てた。

「くだらない、くだらない、くだらない、くだらない」

 されどぽたぽたと滲み出すように反覆される呟きは、まるで自分に言い聞かすようで。
 その様は頭痛の苦しさを耐え忍ぶばかりか、冬の寒さに凍える童のようでもあり。

 少年の言葉が幾度もリフレインする。

 ───『永遠』はあると、五月雨虹架は平然と謳った。

 彼にはその一端さえ掴めもしなかった奇蹟を、あの少年はいとも容易く看破したというのだ。

「それほどの観点を持ち合わせていながら、なぜその観念で歩みを止める──」

 それから彼が訳も解らず憶い出していたのは、『永遠』と真剣な眼差しで口にした女の旧い影だった。其処に碧い瞳をしたしおりあの女の諦観を秘めた笑みが重なる。
「……わたしには、それが理解できない」

 もはや誰に向けたかも知れない猜疑。
 熱病に冒され途切れ途切れのような聲は、人知れず闇を揺蕩う。

「───ッ、ぐ…ぁ………─────」

 頭痛は鳴り止まない。
 それどころか、より克明にその存在を主張してくる始末だ。
 心臓が早鐘を撞くように、頭蓋骨を打ち破らんと脳という神経の集積体が小刻みに脈動する。

 急激に根を太らす痛痒のあまりに、周囲から一瞬音が絶える。

「──────」

 ───その時だった。

 ふと、一条の心細い光線が視界を遮った。
 “暴走”の拍子に視神経を通して網膜まで降りてきてしまったのだろう、光子で編まれたように極めて細い繊維が彼の眼球から垂れていた。

 それは海月の触手を彷彿とさせた。

 何を囚われていたのだろう、と彼は己の間抜けさに可笑しくなって口角を曲げた。

「───そうだ、奪ってしまえばいいのか」

 そうやって生き永らえてきた。
 ずっとやってきた事だ。
 今更躊躇う事もない。

 理解できないのなら、それを成し得る存在に置き換わればいい。

 かくして、彼は一部の半生を拾い直した。
 事故の折に欠けた己の生き方を、呼吸の仕方を。
 このうつわに拘泥る必要性が、一体何処にあったというのか。
 
 ───錯乱した男の嗤い声が、黯然たる一室を塞いでいった。
 
       ◆
 
 秋が過ぎ去り、本格的な冬の到来に万全の構えを期するこの頃。

 街の雰囲気は日を追うごとに移ろいでいった。

 それは、とある聖人の降誕祭を建前に今年の終末を歓迎するムードで沸き立っている……だけではない。

 特定の人々の間を漂う空気が、白を思わせるように澄んでいた。
 あるいは、蟠りがないとでも云おうか。

 道ゆく人々の半分にもまだ及ばないが、その中には嬉しげに笑みを浮かべている者がちらほらと見られた。
 しかし白雪を誘う寒風に良からぬモノが紛れ込んでいたのか、彼らの笑みはそこはかとなく白々しく、それでいてどこか余所余所しかった。

 話しかければ気さくな返事と柔和な態度。
 万人に愛される事を努めるような淀みない所作を見せてはいるが、そんな彼らは常に上の空のようで、何かを絶えず探し回っているようでもあった。

「何かいい事でもあった?」と、勘のいい友人や知人たちが訝しむ。

 普段から不機嫌であったり無愛想な人間でもそうなのだから、不審を抱くのも当然だ。

 けれどもそう訊ねてみても、普段通りの側面に住む彼らの上機嫌が自然と顔を覗かせるだけ。
 薬物を嗜好しているようでも、宗教に傾倒しているかのようでもない。

 返ってくる言葉は多種多様だが、全てはこの二言に集約される。

「特に何も。でも、とても気分が良いんだ」

 揃いも揃って未知の風邪に罹ってしまったかのような有り様だが、何も別に悪い事は起きていないし、むしろいつもより数段良いまであるのだから、気にするだけ損だろう。
 そんな風な楽観から、次々と純白に染まっていく。

 ───街が侵食されていくようだと、誰かが囃した。
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