Chapter Ⅴ 後編

 十一月下旬。
 木枯らしの晴天。

 熱を欠いてはいるが、いつの日かの事故を想起させるかの如く、その日の風は吹き荒んでいた。
 表通りの街路樹から散った落ち葉が渦を巻きながら低空を舞い、その苛烈さが風の威力を遺憾なく知らせてくれている。

 土曜日昼間の天辺を回り過ぎた時分。

 東凪斗は、カウンセリングルームの窓から裏通りを見下ろしていた。
 外界の荒れようとはまるで縁もなく、窓が軋むこともなければ風の音ひとつ聞こえもしない。
 その一室ではいついかなる時でも静穏は保たれる。

 そのように保証された空間だった。

 彼の背後では、その精巧に仕組まれた静穏と手を取り合って、五月雨虹架が一所懸命に『箱庭』と向き合っていた。

 少年が作業に着手してから三十分は経とうとしているが、ずっと『箱庭』の砂を弄るままこれといった動きはない。
 なにやら思案を巡らしているようで、全体像を捉えてから作り出す腹積りらしい。
 物言わずとも愉しげな雰囲気が伝わってくるので、彼は余計な詮索はせず、無心の静観に徹した。

 そんな折、作業の合間に余裕でも見つけたのか。

「───調子が悪そうですね、先生」
 と、そのような事を唐突に指摘してきた。

 先生と呼び親しむ彼の事を一瞥もせず、虹架は砂場を弄り続けている。

 はぐらかそうか一瞬迷いはしたものの、そこは素直に頷いておいた。

「うん、体調が優れないんだ。でも、どうしてわかったんだい? 見破られた後では不味い言い訳にも聞こえるかもしれないが、これでも一応は、おくびにも出さないつもりでいたんだけど」
「こういうのも一目瞭然っていうのかな、先生の頭がぐずぐずに乱れてましたから」

 東凪斗は目線だけ自分の頭部を見遣った。
 どうも寝癖の話ではないようだ。
 そして、薄らと窓に映る頭部の虚像の奥には、青空と白い雲が透けていた。

「ああ、『色彩』の話か。なるほど、虹架くんの見る人の感情は、体調までも包括するんだね」
「当然です。風邪に罹れば誰も彼もが不快という感情を示し、外界に発散されないそれは次第に内側へと逆流し、渦として不快を生み出す根源に宿る。腹痛を堪えればお腹に渦が、という具合に」
「つまり、僕の体調が優れないのは、頭痛のせいだというところまでも悟っているわけだ」

「……そう、ですね」

 そこで急に言い淀まれると、彼は疑問に思う。何も間違った解釈は披露していないはずなのだが。

「なにやら歯切れが悪いようだけど」

 そう問いただしてみれば、明らかに一旦手が止まった。

「いえ、まあ───」

 そうして虹架のそういった模糊な態度は手先にまで渡り、潮騒を思わせる砂の掻き混ぜられる音が次いで聞こえてくる。

 その手はおそらく渦を描いていた。

「その原因までは、僕にもわからないので」

 いくらか気落ちした様子で、虹架はそう呟いた。

 ───五月雨虹架の捉える現像は本質的なようでいて、そのじつ、常に表面的だ。

 一瞬間に蠢動し続ける『色彩』は、蠢くゆえに当人の本性──それより深い層にある無意識を覆い隠す。
 あくまで現状においては、人が長年懸けて培うであろう“機微を察する能”を、異質な形で生まれついて先取りしているに過ぎない。

 少なくとも東凪斗は以前そのように解していた。

「そういえば」と、東凪斗は切り出す。
「虹架くんは前に、僕の事をこう見て取ったね。あの時の発言を端的にすれば、普遍的な善性の下に執拗的な本性が隠されている、ということになるのだろうか」

 そんなことも話しましたか、と虹架は気を取り直して笑った。
 緊張がとうにほぐれているのが窺え、そこには打算も意図も感じられなかった。

 大空も暖まれば風を吹かせる。
 それほどの自然な笑い方だった。

「先生が次に言うことも読めました。僕の目に今の貴方がどう映っているか。それを訊きたいんでしょう」
「まずは僕の解釈が合っているかも聞きたいね」
「それなら間違ってます」

 にべもなく否定されてしまった。

「綺麗だからといって善性に結びつけるのは浅はかと言わざるを得ませんね。先生の場合はそれだけではない──美への追求がある。どちらかと言うと、そちらのほうが本流だ。物事の根源を突き止めたい、斯くある世界の本性を知りたい、そういう欲だ。その下に生への執着がある。長く在れと叫ぶ郷愁がある。執拗的という解釈は当たっていましたが、具体性に欠けていますよ」

 すると、少年が棚の中を物色し出した。
 どうやら、『箱庭』の構想をあらかた練り終えたようだ。

「それを踏まえて、先生が今どういう風に見えているか、でしたか」

 変わりないですよ、と虹架は言い放った。

「もちろん些細な違いはありますが、それだって言葉にするほどの事でもない。一貫してる。先生はきっと、死ぬ間際まで今のままだ」
「そうかい。ありがとう、参考になったよ」

 貴方は貴方のままである。
 その保証に如何程の安堵を覚えているか、彼自身は全くと言っていいほど無自覚だった。

 ───ずきん、と頭が痛む。

 それはまるで、覚醒の日を待つ胎動のようで。
 断続的に度重なる疼痛が彼の思考を鈍らせていた。

「ときに『色彩』繋がりで思い出したんだけど、この前に提案した試みは上手くいったのかな? 虹架くんへ相談を持ち掛けてきたクラスメイトや友人の『色彩』を、虹架くんが思う綺麗なカタチに整えてみようという実験だ」

 一縷の希望に懸けた同類との邂逅も期待はずれに終わった今となっては、個人的には優先度の低い話題に成り下がってはいるのだが、東凪斗の観念を保つ場として関心は捨てられず、また職務上においても聞かざるを得なかった。
 彼は律儀だった。
 物事を途中で放り出す事はどうしても許せない。
 それゆえに、彼から持ち出した提案である以上、無下に扱う訳にもいかなかったのだ。

「───ああ、そうだ。その事も先生に報告したかったんだ。すっかり忘れてました」

 うまくいきましたよ、と晴れやかな声で虹架は言う。

「やり方は相手の体に触れるだけ。いつも僕がやってた事の応用ですね。川面に手先を浸すように、そこを起点に僕の透明が流れ出していく。そうしたら──原理は今でもよくわかりませんが、漂白された人型の完成です。後は自在に仕上げられる感じでした。
 しかし僕が思うにこれは相手の心を洗い流す術ではなく、むしろ問答無用で略奪してしまう術のようだ」
「略奪? そういうからには、虹架くんは触れた人の記憶や感情などを持ち合わせているという事かい?」
「そうです、だって彼女たちの一部は僕の中で今もなお息づいている。いっそ笑えてくる、自覚がなかっただけで、僕は今までそうやって生きてきた。道理で、誰かしらと似ているなんて揶揄されるわけだ」

 自嘲気味な笑いが少年の喉奥で噛み殺される。

 彼が振り向くと、案の定虹架は作業の手を休めて、何も掴んでいない手を混沌とした眼で見つめていた。

「あまり僕好みではありません。僕は先生のように言葉を手繰って人の心に触れたい」

 彼と少年との目が合う。
 その憧憬を是とした意志に歪曲はなく、直向きに己の心を捉えていた。

「それはどうして?」

 察しはついていたが、それでも促さずにはいられなかった。

「あの人は、僕の世界では理解に及ばない代物でしたが、きっと言葉は通じる。もう一度逢って、話をして、今度こそ理解したい」

 訥々と語られた欲求は、まるで生まれて初めて口にしたかのように純真無垢そのもので──ああ、だからこそ、その手段さえも問わなかった。

 子供が危険を顧みず崖をよじ登るように、
 嫌な相手を遠ざける為に考えなしに罵るように、
 好奇心で羽虫を部位毎に捥ぐように。

『彼女たちは僕の中で今もなお息づいている──』

 目的の為なら人の意思を奪う事も厭わない。
 いや、そもそもこの少年は……。

 彼らを同類ニンゲンとすら見做していないのだ。

 無意識に徹底された差別。
 ゆえに禁忌に能わず、そこには共感の余地さえない。

 それを惨たらしくも憐れな生き物だと蔑むのは勝手だ。
 だがこの少年はそれさえも明瞭に汲み取った上で、穏やかに平然と何事もなく微笑っていられる。

 得難い醜さを素知らぬ顔で見過ごせるのだ。

 結局のところ、どれだけ周囲が醜悪でも、その一握りに美しい宝石が混じっていたとしても、それらは全て、自身の内には到底見出せないものだから。

 一生涯に渡るであろう存在としての孤独。
 地上に蔓延る現人類の中でも類稀な一筋の欠陥。

 この世の誰も五月雨虹架の世界を感知できないゆえに、その彼を含む誰一人としてその根底を知り得なかった。

 そんな峻厳な疎外の谷底に縄を垂らしたのが、対等に交わされる“言葉”と自らの無意識を反映する“箱庭”だった。

「初めてここを訪れた時、虹架くんは躓いたと言っていたね。何をすれば良いか、何をしたかったのか、途端にわからなくなったと。答えは見つかっていたようだね」

 とても喜ばしいと東凪斗は柔らかに微笑んだ。

「先生のおかげです。先生が僕に道を示してくれた」

 虹架がさらに棚からミニチュアを取り出して、砂場を整えながら箱庭に配置していく。

「大袈裟に言ってしまえば、先生がいなかったら、僕は今頃どうかしていた。今なら想像できる。その僕は普段通りの生活を送りながらもどこか塞ぎ込んで、思考を散り散りにして、彼女らを使って愚かにもあの人の再現を試みていたでしょう」

 でも、その必要はなくなった──。
 先生が身を以て教えてくれた事です、と虹架は清々しい笑みを浮かべる。

「あの人は『色彩』になんて堕ちていなかった」

 彼は己が身体を見下ろすまでもなく悟る。
 隠し事が通用しにくいのは、端からわかりきっていた事だ。

 五月雨虹架の言を余さず真実と受け取れば、記憶と感情と観念──それぞれが独立して蠢動した上に人格が生じる。
 人間とは飾らない絵画だ。
 芸術家が作品に有らん限りの思惟を質を問わず込めるのなら、少年はそのような『色彩』の混成から相手の心を──過去を暴き出す。

 だから今更驚くに値しない。
 段々とその精度を上げてきているのも、まだ彼の予想の範疇に収まる程度だ。

 だがそんな彼でも、少年の次の言葉には動揺を隠し通せなかった。

「そして先生が追い求める『永遠』と限りなく似た存在も、おそらくあの人のそばにいる。僕があの人と勘違いした『色彩』の彼女。あれを楽にしてあげられるのは、きっと僕だけだ」

 それは本当に彼にとって思い掛けない発言で。

「──────」

 ……カチリ、と。
 彼の中で、なにかの嵌まる音が聴こえた。
 
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