Chapter Ⅴ 後編
殊に古めかしい二つの思い出話を語り終えたところで、映画鑑賞後の興奮冷めやらぬような様子でしおりが口を開いた。
「一虚一盈の粗こそ花盛りの灯とはよく言うけれど、期待していた通りの話が聞けたら聞けたで──うん、今、とても気分が高揚している。
でも、まだ足りない。これじゃあ生殺しだ。私はもっとあなたの事が知りたい。そうすれば、あなたの望みにも満足に応えられると思う」
「せめて今の批評をお聞きしても?」
「総評じゃないところが憎めないね。あなた、授業後に一々先生に対して点数を求めたがるタイプでしょう?」
「どうでしょう。だけど、僕は一度もそんな事をやった事はおろか、思った事もありません」
「ならハズレってわけだ。やっぱりダメ」
「そうですか、残念」
それから彼は語り続けた。
東凪斗の一生、そのあらましを。
仮初めの暈がかかった幼少期、
疎ましくも清々しい思春期、
そして現在の職に繋がっていく青年期。
美麗と醜悪の区別に五月蝿い性根を、ビクビクと目に見えない何かに怯えながら虚勢を張り続ける生涯を、しかしそれでいて性悪説を体現するような生き様を、出来る限り主観性を排して彼は晒していった。
誇張なく、俯瞰から、事務的に、冷然と、それこそ他人事のように。
話の終始、彼は自分を偽ろうとはしなかった。
時が進めば進むぶんだけ齟齬がその芽を伸ばし絡みついてこようとも、構わずその境涯を空になるまで打ち明けた。
彼は己が人物像を乱れなく描き出した。
不可視の箇所で故障していないか、機械を分解修理 するのとおそらく似たような具合に。
忍びない不満を丁寧に曝け出すみたいに。
それこそが次の段階へ進む為の諒解だと微塵も疑わずに。
全てを語り終えた後、珈琲カップに手を伸ばした彼は、その中身が空になっていた事に気がつく。
もう何度目かもわからない。
隣に居座る女 越しに外の様子を窺ってみれば、すっかり日は落ちてしまったようで、曇天の暗夜だった。
「僕は何杯飲みましたかね?」
「私よりも一杯多いくらいだから、四杯とか?」
視界の端で髭を均した店主が頷いていた。
暗に、それ以上頼んでいたら止めていた、とも受け取れそうな重たい頷きぶりだった。
「もうすっからかんです。そろそろ、総評を聞かせてもらってもいいですか?」
「ふふ、そうだね。こちらの本懐は十二分に遂げられたわけだし、それではお望み通り総評といこう。
───とはいえ、その字面の堅さほど格式高いものでは到底ないのだけどね。事の優劣を決めるのでも、世の善悪を測るのでもなく、結局はただ私個人の所感を述べさせてもらうだけなのだから」
「しかし、元よりそれが目当てですから」
「そ、ならガッカリしないでよ?
私は基本一言二言で済ましてしまうからね」
彼女はそう手遊びっぽく微笑んだ。
でもまず、これだけは訊ねさせて、と断りを入れてから。
「───どう? 外の世界は退屈だった?」
なんて、緩い夢から呼び起こすように問うてきた。
「──────」
心臓を鷲掴みにされたのと脈に手応えを覚えたのは、全くの同時だった。
……彼は確信を以て答える。
「初めはこの世の何もかもが刺激的でした。新鮮だったとも言えるでしょう。水が澄んでいる、空が澄んでいる──それは果てしなく、何にも増して命が此処に住んでいる。その空間と空間を結ぶ無窮の乱雑さ にどれだけの感動と篭る熱を胸に抱いたか。
……そう、けれどもそれは束の間の夢。
二十年足らずで幕を下ろした、窮屈な熱の余暇に過ぎなかった」
「ありがとう。それでもう十分よ」
しおりが、ゆるりと首を振り子のように揺らした。
「───あなたに迷妄はない。けれどだからこそ、この世で燻っている。私から言える事は、たったのそれだけ」
その断定は、東凪斗の生涯に捧げられた言葉ではなく。
ゆえにそれは、その身を乗っ取った彼へ告げた諦観。
期待や展望を夜の闇へと押しやり、彼を構成する悉くを否定しかねない言葉。
彼は深く静かに息を吸い込み、ただし大袈裟に吐き出してしまう事はせず、ひたすら微笑った。
「………ああ、全く。やはりそうでしたか」
外面を繕う意味などすでに失せていると知りながら、半ば意地になって取り繕い続けた。
そうでもしないと、失望に駆られて、目の前の女を縊り殺してしまいそうだったのだ。
此処に未練はないと、彼は席を立ち上がる。
彼女は黙って、その生き急ぐ姿を見上げる。
「奢りますよ、きっとこの一度きりですから」
「別にいいのに」と、しおりは断ったが、彼は聞く耳を持たなかった。
さっさと会計を済ませて喫茶店を出る。
その際、一言の挨拶も交わさなかった。
彼女は微笑んだまま、立ち去る背姿へ手を振り続けていたが、しかしとうの彼は気にも止めなかった。
どうしてそう楽観的でいられるのか。
そのような反感と猜疑とが全身の皮膚という皮膚──爪先までもを満たし、とても別れの挨拶に興じる心境ではいられなかったのだ。
霧雨の夜を傘もささず歩く。
水飛沫を盛んに立てながら足早に進む。
家路を目指して何台もの車両が彼を追い越していく。
けたたましいエンジンと雨夜に乱反射するヘッドライト。
そんなちょっとした混沌で心がささくれ立つ。
“──なぜ”
繰り返される不可解。
不合理を心の内で吠え続ける。
“──なぜ”
憤りはこの雨のように取り止めようもなく、ふつふつと沸いてくる。
このまま地上を洗い流してくれたら清々してくれるだろうに、じわじわと皮膚に染み込んでは、彼の全身を嘗めるように濡らしていく。
───ずきり、と全身 が痛んだ。
赤に点灯する信号機を前にして、彼が立ち止まる。
「……認められるか?
たったの一言で覆された」
途端に糸口を見失ってしまったのはおろか、その先の希望もろとも巻き込んで霧雨の闇に霞んでいってしまった。
死を許容した愚者に手向けて、ほかに一体何を返してやるものがあるのだろうか。
彼はそう叫ばずにいられなかった──。
「一虚一盈の粗こそ花盛りの灯とはよく言うけれど、期待していた通りの話が聞けたら聞けたで──うん、今、とても気分が高揚している。
でも、まだ足りない。これじゃあ生殺しだ。私はもっとあなたの事が知りたい。そうすれば、あなたの望みにも満足に応えられると思う」
「せめて今の批評をお聞きしても?」
「総評じゃないところが憎めないね。あなた、授業後に一々先生に対して点数を求めたがるタイプでしょう?」
「どうでしょう。だけど、僕は一度もそんな事をやった事はおろか、思った事もありません」
「ならハズレってわけだ。やっぱりダメ」
「そうですか、残念」
それから彼は語り続けた。
東凪斗の一生、そのあらましを。
仮初めの暈がかかった幼少期、
疎ましくも清々しい思春期、
そして現在の職に繋がっていく青年期。
美麗と醜悪の区別に五月蝿い性根を、ビクビクと目に見えない何かに怯えながら虚勢を張り続ける生涯を、しかしそれでいて性悪説を体現するような生き様を、出来る限り主観性を排して彼は晒していった。
誇張なく、俯瞰から、事務的に、冷然と、それこそ他人事のように。
話の終始、彼は自分を偽ろうとはしなかった。
時が進めば進むぶんだけ齟齬がその芽を伸ばし絡みついてこようとも、構わずその境涯を空になるまで打ち明けた。
彼は己が人物像を乱れなく描き出した。
不可視の箇所で故障していないか、機械を
忍びない不満を丁寧に曝け出すみたいに。
それこそが次の段階へ進む為の諒解だと微塵も疑わずに。
全てを語り終えた後、珈琲カップに手を伸ばした彼は、その中身が空になっていた事に気がつく。
もう何度目かもわからない。
隣に居座る
「僕は何杯飲みましたかね?」
「私よりも一杯多いくらいだから、四杯とか?」
視界の端で髭を均した店主が頷いていた。
暗に、それ以上頼んでいたら止めていた、とも受け取れそうな重たい頷きぶりだった。
「もうすっからかんです。そろそろ、総評を聞かせてもらってもいいですか?」
「ふふ、そうだね。こちらの本懐は十二分に遂げられたわけだし、それではお望み通り総評といこう。
───とはいえ、その字面の堅さほど格式高いものでは到底ないのだけどね。事の優劣を決めるのでも、世の善悪を測るのでもなく、結局はただ私個人の所感を述べさせてもらうだけなのだから」
「しかし、元よりそれが目当てですから」
「そ、ならガッカリしないでよ?
私は基本一言二言で済ましてしまうからね」
彼女はそう手遊びっぽく微笑んだ。
でもまず、これだけは訊ねさせて、と断りを入れてから。
「───どう? 外の世界は退屈だった?」
なんて、緩い夢から呼び起こすように問うてきた。
「──────」
心臓を鷲掴みにされたのと脈に手応えを覚えたのは、全くの同時だった。
……彼は確信を以て答える。
「初めはこの世の何もかもが刺激的でした。新鮮だったとも言えるでしょう。水が澄んでいる、空が澄んでいる──それは果てしなく、何にも増して命が此処に住んでいる。その空間と空間を結ぶ無窮の
……そう、けれどもそれは束の間の夢。
二十年足らずで幕を下ろした、窮屈な熱の余暇に過ぎなかった」
「ありがとう。それでもう十分よ」
しおりが、ゆるりと首を振り子のように揺らした。
「───あなたに迷妄はない。けれどだからこそ、この世で燻っている。私から言える事は、たったのそれだけ」
その断定は、東凪斗の生涯に捧げられた言葉ではなく。
ゆえにそれは、その身を乗っ取った彼へ告げた諦観。
期待や展望を夜の闇へと押しやり、彼を構成する悉くを否定しかねない言葉。
彼は深く静かに息を吸い込み、ただし大袈裟に吐き出してしまう事はせず、ひたすら微笑った。
「………ああ、全く。やはりそうでしたか」
外面を繕う意味などすでに失せていると知りながら、半ば意地になって取り繕い続けた。
そうでもしないと、失望に駆られて、目の前の女を縊り殺してしまいそうだったのだ。
此処に未練はないと、彼は席を立ち上がる。
彼女は黙って、その生き急ぐ姿を見上げる。
「奢りますよ、きっとこの一度きりですから」
「別にいいのに」と、しおりは断ったが、彼は聞く耳を持たなかった。
さっさと会計を済ませて喫茶店を出る。
その際、一言の挨拶も交わさなかった。
彼女は微笑んだまま、立ち去る背姿へ手を振り続けていたが、しかしとうの彼は気にも止めなかった。
どうしてそう楽観的でいられるのか。
そのような反感と猜疑とが全身の皮膚という皮膚──爪先までもを満たし、とても別れの挨拶に興じる心境ではいられなかったのだ。
霧雨の夜を傘もささず歩く。
水飛沫を盛んに立てながら足早に進む。
家路を目指して何台もの車両が彼を追い越していく。
けたたましいエンジンと雨夜に乱反射するヘッドライト。
そんなちょっとした混沌で心がささくれ立つ。
“──なぜ”
繰り返される不可解。
不合理を心の内で吠え続ける。
“──なぜ”
憤りはこの雨のように取り止めようもなく、ふつふつと沸いてくる。
このまま地上を洗い流してくれたら清々してくれるだろうに、じわじわと皮膚に染み込んでは、彼の全身を嘗めるように濡らしていく。
───ずきり、と
赤に点灯する信号機を前にして、彼が立ち止まる。
「……認められるか?
たったの一言で覆された」
途端に糸口を見失ってしまったのはおろか、その先の希望もろとも巻き込んで霧雨の闇に霞んでいってしまった。
死を許容した愚者に手向けて、ほかに一体何を返してやるものがあるのだろうか。
彼はそう叫ばずにいられなかった──。
