Chapter Ⅴ 後編

 彼がその半生を晒そうという直前に、女による止めが入った。
 名も知らぬまま思い出話を聞くのは物寂しいと女は言う。

 そこで互いに簡単な自己紹介をする事になった。

 しかしそういった女は一言、『しおり』とだけ名乗った。
 普通ならば苗字も続けて名乗りそうなものだが、しおりは進んで苗字を名乗ろうとはしなかった。

「苗字に曰くでもあるんですか?」と彼が試しに訊ねてみたら、「そうじゃないよ」としおりは笑った。

 しつこく聞けば教えてもらえそうな気配はあったが、あえてそれ以上聞く事はしなかった。
 東凪斗としての性格上ではとても気にかかる部分ではあるが、彼の中ではさして重要な事柄にはあたらず、事実だけを受け止めて見過ごした。

 ちょっとした紆余曲折を経て、乗っ取った彼による東凪斗の語りが始まる。

 これまでの境涯をその場限りの他人に晒してしまうのだから、下手に所々紗幕で覆い隠してしまうよりは、いっそ何事も徹底したほうが話の巡りもいいだろうと考え、まず最初に幼少期の思い出から明かす事にした。

 中でも特に印象強く刻まれていた記憶を二点ほど拝借する。

 
 一つ目は、麦藁色の光芒に滲む曽祖父との会話。
 それは記録的な猛暑の続いた六歳の盛夏、
 曽祖父が臨終を迎える間近の出来事だった。

 “───なんだか、恐い人”

 それが幼少の頃の彼が抱いていた、曽祖父への印象だ。

 枯れ木のように覇気のない身体。
 眼孔が昏く窪んだ尉面を彷彿とさせる顔貌。
 砂漠の片隅に空く洞穴のような口腔。
 口数は極端に少なく、一日中力無く床に臥せて、それゆえに頭の中身がまるで読めない、亡霊じみた遠い家族。

 時折、薄暗い廊下の途中には日光による一筋の境界が引かれ、その襖越しから覗ける白昼の現は、数を重ねれば重ねるほど言いようもない恐怖が積もった。

 子供にとって、真っ当な大人のように意思疎通が図れない人間はまさに未知そのもの。
 宇宙人よりも現実味のある、実態の掴めない理解不能の脅威。

 さらには遥か向こうにいるようでとても身近であるその存在が最も死に近しいともなれば、本能的に避けてしまいがちになってしまうのは致し方のない事だったろう。

 直接対面したのは片手で数えられる程度。
 まして一対一の会話なんて、機会はたったの一度きり。
 どういった流れでそうなったのか、そのときの記憶は定かではない。

 ただ、呼ばれた気がした……。

 薄橙色の眩い色彩、
 真っ平な水紫に空蝉が吼えていた。

 雲はひとつもない。
 あまりの暑さに溶けてしまった。

 家には誰もいない。
 幼い彼と、ただひとつ曽祖父を残して。

 全開の掃き出し窓から花を萎びかせるような熱風が吹き抜けていった。

 “なにより、恐いと感じたのは──”

 甘怠い腐臭が影法師の立つ廊下の方へと散っていく。
 影絵を写す漆喰の面、その影法師の頭を貪るように数十もの小さな点が縦横無尽に蠢いている。

 沢山の小蝿に集られ、淘汰された蛆虫の死骸を布団の腹に匿いながら、曽祖父はなおも存命だった。

「──私が何だか、わからないか」

 幼き彼の心象を昏い眼孔から確と見据えて。

「そんな淋しい眼で私を見ないでくれ、私は人間だ。これから死んでしまうのだから」

 腐臭に塗れた不気味な容姿にそぐわず、曽祖父の声は厭にはっきりと通っていた。
 これ以上なく、祖父母よりも両親よりも、果てはどの人間よりも、人間らしい感情の叫びだった。

「───…ほんとうに?」

 つい思わず、彼はそんな問いを口にしてしまい、慌てて口許を隠した。

 曽祖父はそんな小さな子供の無神経を意にも介さず、本当だ、とやはりはっきりとした声で答えて、けれど幼い彼はなんとなく納得できず反射的にぶんぶんと首を振った。

 醜悪な見かけに対する恐怖はもう、その頃にはなくなっていた。

 言葉を交わせた事で先入観は消え去り、正体不明の怪物が、死ぬ間際の痩せ細った人間へと本性を変じたのだ。

 そこに居るのは、ただただ憐れなほど衰えた──。

「だって曽おじいちゃん、ぜんぜん怖がってない」

 おぞましい執念。

 着々と迫り来る己の死を予覚しながら、朽ち果てる寸前の老体は、巡り巡ってくる明日の光を些かも疑ってはいなかった。

 “なにより、恐いと感じたのは──”

「それでも死ぬのだ」
 と、曽祖父は融通の利かない機械のごとく謳う。

 彼には、まっさらに思えるほど己の欲がなかったのだ。

 それきり曽祖父が二度と口を開く事はなく、空蝉の鳴き声に小蝿の羽音が、目も眩むような腐臭を撒き散らす和室に抜け殻となって長く長く轟き続けた。


 二つ目は、紅緋と青藍の対照の妙を魅せる黄昏時にて遭遇した少年の話。
 曽祖父が亡くなってから二年と半年ほどが過ぎた頃。
 暖冬と寒春の境目、世間では俗に世界の終末が当たり前の語り種となっており、そんな世情の足をより深みへ引き摺り込まんと手招くような、どことなく病的な季節だった。

 彼がその少年と出会ったのは、家から近場の見晴らし台だ。

 訳もなく一人になりたい時、決まって彼はそこへ訪れていた。
 その日もそうだった。
 しかし調子はいつもと少し違った。
 逢魔の境に佇む黄昏時が幼き彼を狂わせたのか、傍目に神隠しの兆しをふらつかせながら、門限を破りまでして細い子供の脚で森の階段を登っていった。

 見晴らし台にはぽつんと一つだけ、大人が三人は腰掛けられる大きさの、廃墟の残り滓で仕立てたようなベンチが置いてある。
 後ろから見て右端が彼の定位置。
 そして銅像の『考える人』さながらの姿勢で考え事に沈み込む。

 だが、その日は先客がいた。

 先客は背中に目でもついているのかすぐに彼の存在に気がつき、振り向き様に気の良さそうな笑みを浮かべながら、ゆったりと手を掲げて、
「よお」
 と、気の抜ける挨拶をしてきた。

 中学生と高校生のちょうど中間くらいの活発な少年だった。

 もともと相手の調子に合わせるのが上手かった彼は、その少年とも気が合うまで数分と掛からなかった。

「───この町には下見に戻ってきたんだ」

 と、一人分の空席を挟んだ先で、溜まりに溜まった曇り空めいたダッフルコートの少年が言った。

 ベンチに腰掛けたふたつの不釣り合いな影。
 その両者は互いに、着々と毒の廻っていく空を正面に据えて語らっていた。
 そして小さい方の影──幼い頃の東凪斗は、疑問に思った事を順番に問いかけていく事にした。

「下見?」
「そ、どの辺りが都合良さそうか当たりを付けにな───ああ……ははっ、これはもちろん駄洒落じゃねえぞ?」

 少年は自分でそう言い含めておきながらも、ケラケラとくだらなそうに喉を鳴らした。
 しかし言動そのものを面白がっている様子ではなく、そういった方向性につい思考が回ってしまった、自分に対する呆れのようだった。

「簡単に言っちまえば引越しだよ、引越し。仮住まいの見当はとっくについてんだが、本拠地を構えるとなるとな、慎重に測るに越したことはない」

 ───だからこうやって町を一望してた、と少年は座ったままに話す。

「この町も見ない間にけっこう変わったな。単純に人口が増えたんだろう、遠目にビルが見える。あれはオフィス街ってヤツなのかな。都心から離れてる割には出が早い、まだ碌にノウハウの共有化もなされてなかったろうに、一体どんな奴が仕切ってるんだか」

 ビルだとかオフィス街だとか口に出されても、当時の彼にはさっぱりだった。それも当然で、おそらく座っている位置も悪かったのだろうが、まだ座高の低い彼の視点からでは常緑樹の葉などが視界を遮り、少年のいうビルはその影さえも見られなかったのだ。

 それはそれとして。

 その場からは六キロ以上も離れた地点にある街だ。
 森の入り口と見晴らし台との高低差は約八十メートル。
 あちらとの高低差はさらに増して、おおよそ百五十メートルほど。

 文明の利器を頼らず望むには、少々離れすぎてもいた。

 仮に見えたとしても、それは豆粒ほどの大きさにも満たなかっただろう。

 見えないものの独り言を聞かされてもつまらないだけなので、話題を逸らそうと次の質問を投げた。

「お兄さんは、何処から来たんですか?」
「ずっと北のほうから」
「北のほう……。
 どうして戻ってきたんですか?」
「……遠慮がないね、お前。まあいいけどさ」

 少年はふぅと息を吐いて、深くベンチに凭れ掛かる。

「世界を見て回るのが俺に課された至上命令なんだが、それもようやく一区切りつきそうなんで、そろそろ腰を据えよう……と意見が一致してな」

 少年の見上げた先には、おそらく雲一つも浮かんではいなかっただろう。
 隅の隅まで、余分なモノは皆、綺麗さっぱり掃かれてしまっていたはずだ。

 その日の夕暮れは、潔癖的に澄み渡る蒼空だったのだから。

「一人旅じゃないんですね」
「ああ、連れ添いがひとりいてな、ほかにも大勢──今ではとっくに二百人を超えたか、それくらいの知恵の助けも借りて世界を渡っていた。時には現地にいる知人も道連れにしたり、こうして思い返してみれば、淋しい日は一度もなかった」
「なんだかファンタジー小説に登場する旅の人みたいですね、お兄さんって」
「ははっ、上がるね。何もかもが廉いこの時代に旅人って表現は物凄く俺好みだ。今時海の外へ渡る方法なんざ量産化された通貨で事足りる。遥かな繋がりをモットーとする旧来の旅人の在り方は、確かに俺の性に合っているんだろう」

 少年の言葉遣いはどれも芝居がかっており、それが彼には新鮮に聴こえ、ときどき言っている事の意味がよく理解できなくても、ただそれだけで聴き入っていた。

「しかし旅人ね。パッと出てくるってことは、もしかしてお前、旅に興味あるの?」
「興味はあります、けど……ちょっと違います。やってみたいんじゃなくて、町の酒場で繰り広げられる喧騒の輪に加わって、聞きに回りたいほうなんです」

 その台詞を聞くや否や、少年が得意げに笑った。

「だったら運がいいよ、お前」

 怒りや悲しみとは別に肩が沸き上がったのは、その時がはじめてだった。

 そこから彼は、少年に旅路の思い出を訊ねてみた。

 少年は一も二もなく語ってくれた。
 その若々しい口唇から飛び出す懐旧の音声はまるで、各地に散らばる旅人たちの記録を寄せ集めたような、ころころと景色と心情が入れ替わる群像劇のようだった。

 隔たる異国の情景。
 常識の通じない文化。
 想像とは埒外の生態。

 生きとし生けるものの、輝けるような躍動の日日夜夜。

「よく晴れた日に──」「開幕する前は音も光も縮こまるように篭っていて──」「町の門番が貧血かと思えば──」「どでかい荒波が俺たちの乗る帆船を襲い──」「躊躇いなく蜘蛛の丸焼きを食べ出した時は、さすがの彼も──」「灰燼の嵐が三日三晩──」「酒の競い合いは立ちながらやったほうがいい──」「そこでは粉雪が空に落ちていってさ──」「天を突き上げる山にはブロッケンの怪物という──」「オアシスと蜃気楼の見分け方は──」「湖面の下からさながらライターみたく──」「一つの集落が熄むあとの荒野から見上げたふたりきりの流星群は、降られない時雨のようで──」

 それらの転々とした叙述は、夜空に散りばめられた数えきれないほどの星々をも想起させた。

 そうして、いつしか気がつく。

 今宵の空きに星々の交流は見られず。
 宵の明星と、欠けた月。

 辺りはいつの間にか昏い闇を染み込ませていて、目線を下ろすと、折り重なるように葉を生らした森林の先には、目に焼き付くばかりの街の光源が所狭しと密集していた。

 古今の逆転がたった瞬き一つで行われたのである。

「忘れてました。そういえば、それももうやめちゃうんですよね……」

 銀幕が垂れる頃合いもとっくに過ぎて、旅は終わりを告げていた。

 少年は気楽に頷いてみせる。
 あんなにも生き生きと語っておきながら、そこには未練の欠片もなかった。

 彼には、そんな態度が不思議でならなかった。
 なぜ、と知らず声に出してしまう。

「生き甲斐、だったんでしょう?」

 それは、少年の話し振りを見ていれば容易に手に取れた事。

「それじゃあ、まるで……」

 ───近いうちに、死んでしまうみたいな。

 飲み込んだ言葉は胸に蟠り、それが嫌な記憶を蘇らす呼び水となった。

 あまりに乾涸びていた、あの夏の夕刻が脳裏によぎる。
 枯葉と湿った土の匂いに、蛆虫が挙って群がる腐臭と水気さえも見出す。
 曽祖父の遺していった夥しい光彩は、その当時では、心臓に負った火傷の如くほろ鈍い痛みをも伴っていた。

 しかし、それを少年は杞憂だと。
 はっ、と軽く笑い飛ばす。

「───“おれ”は死なないさ、ただ、生き方を見直すに過ぎない」

 息づくように言い放った。
 それは幼い彼に言い渡す審判のようでも、あるいは自分の心に今一度戒める誓いのようでもあった。

 そして彼を見返すと、にっ、とアイロニカルに口許を歪めた。

「それをかなしく思えるお前の感性は、須く正しい。だが終えるということは、そこになにかしら相応の価値が付加されるもんだ、全てが無意味に還ってしまうわけじゃない。
 だから──」

 悲観に暮れるな、と少年はこぢんまりとした額を小突く。

 まるで堅表紙の本を閉じる要領で、
 話はそこでおしまいだとでも言い聞かせるかのように。

「………………」

 何も言えなかった。
 ああ、後はさよならを告げて別れるだけなんだと。

「………………」

 風が吹く時を耐え忍ぶように、幼い彼はただ俯いた。
 その時が来るのをじっと待とうとした。
 その時間はひどく居心地が悪かった。
 まだ吐き出しきれていない不純物とか矛盾とかが腹の入り口あたりに渦巻いている。

 それでも風は一向に吹いてはくれない。

 どうしてだろうと思えば、久遠とも錯覚してしまうほどの、ながい蒸し暑さのただ中にいた。

 虫の知らせとしか思えない違和感があった。
 それは質量を持たず、ゆえに時間の枷をいとも容易く食い破りながら、彼の内部で急激に膨らんでいった。

 たった一度きりの邂逅。
 二度は交わらない縁。

 この少年とは、本当にこの場限りのひたすら鮮烈な記憶として風化してしまう気がする、そんな胸騒ぎが彼にはあった。

 だから、急き立てられるように。
 知らず、少年にこんな問いを投げかけていた。

 その疑問あるいは命題は、彼がこの見晴らし台へたびたび足を運ぶようにさせた元凶だった。

「死を恐れない人って、いると思いますか?」

「───いるよ」
「え…………?」

 一切の逡巡もない返辞に、思わず息を詰まらせる。
 不意を打ったつもりが、後の先を取られたようなもの。

 見ると、少年はじっと遥か先──南西の夜空を梟みたく目を細めながら凝望しており、先程までの彼とは対照的に構えていた。

「……それって」
「もちろん俺のことじゃない。俺だって死ぬのは怖いしな」

 そうやって茶化すように笑ってはいたが、心からの述懐だったように、後の彼には思えた。

 一呼吸置いてから、少年は話を続けた。

「旅をしていれば、自然と百千の人間と出会いを重ね、偶然と必然の合間に臨終と立ち会う事だってあった。だから中には見かけたよ、お前のいう死を恐れないヤツ。羨ましいとは毛程も思えないが」
「……その人は、どういう人でしたか?」
「さあ? まあ仮に知ってたとしても、お前には教えてやらないけど」
「……どうしてですか?」
「百聞は一見にしかず。どれだけ強く語っても脆い言の端だ。悟りを得るには言ではなく心が要である以上、お前が臨むべきは吾を生きる心そのものに違いない」
「………。いや、その、よくわからないです」
「納得したきゃもっと人と触れ合えって話。多かれ少なかれ、旅に興味があるんだろ? だったら話は早く、幸いにも世界は広い。人を見て取れ若人よ、ってヤツだ。ソイツから印象を聞くよりも、ソイツの印象を探るほうが得られるものも断然大きい」

 そして、少年は腕を広げながら彼へと振り向いた。

 大仰な振る舞い。
 意気揚々とした口許。
 真っ直ぐこちらを射抜く眼差しに、こう問いかけられた気がした。

 ───さあ、俺はどんな人間に見える?

 迷いはなかった。それくらいの禅問答ならば、二時間も前に解かれていたのだから。

「まるで、ファンタジー小説に登場する旅の人クラウンみたいです」
「───上出来だ」

 少年は軽快に笑んだ。

 二人の会話はそれきり、幕を閉じた。
 そこには、地面に落ちて粉々になってしまった枯れ葉ほどの淋しさもない。

 ごく自然に交わされた成り行きの後には、すでに言葉は不要となったのだ。

 ゆえに彼らは何の合図もなく揃って見晴らし台を立ち去り、別れの挨拶も交わさぬまま、互いの帰路に着いて行った。

 以来、幼い彼が抱いた予感通り、その少年と再会する日は来ていないし、また来る事もないだろう。
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