Chapter Ⅴ 後編


「隣いいかな?」

 と、胸に一物を抱えたような若い長身の女性だった。
 揺るぎない芯と静かな自信を覗かせた微笑みを湛えて、内海のように澄んだ碧い瞳が印象的だ。

「──────」

 なにも美しさに目を奪われたのではない。
 そもそも彼に人間の美醜は些末事。
 そう、ひたすら、あまりにもあからさま過ぎた。
 彼女がこの街では他に類を見ない、碧い瞳の持ち主だった。

 ただそれだけだった。

 それゆえに、しつこい雨が唐突に鳴り止んだとでも云うのか。
 その女を一目見た瞬間、彼は思わず、息を一瞬止めてしまった。

 確率の分水嶺はこの際もはや問うまい。ここで出会いがあったという現実は、目も眩むような奇縁が見かけ上続いたという無情しか物語らない。ゆえに、まず問うべきは出会いそのものではなく、目の前の対象──その不確定性。はたして本質は真か偽か。それだけが今後の線を左右する。

 ならば、選び取れる対応もまた実質一つだけだった。

「ええ、構いませんよ」

 例え指先でも掬えないほどの逡巡であろうと、決して気取られないように。
 東凪斗は、あくまで普段通りの寛容な仮面を貼り付けて、黒髪碧眼の女を快く迎え入れた。
 そして流れるような彼の返事に気を良くした女はにこりと微笑み、さっと物音一つ立てず隣のカウンター席に座った。

 話しかけてきた時もそうだが、まるで風来のようだと彼は思った。

「マスター、彼と同じものを頼める?」

 店主が頷く。
 白い髭で口元は見え難いが、頬の動きや瞼の閉じ具合から見て、微笑んだのは確かだ。

「………………」

 この既知感は何だろう、と彼は内心首を傾げる。

 瞳の色を除いた女の容姿、
 謡うような女の声、
 自信に満ちた女の仕草。

 それらを記憶へ収める度、言い表しようのない気分が彼の胸の中で燻る。

 落ち着いていられなくなる。
 直視していられなくなる。

 彼はそんな輪郭の不完全燃焼感を押し隠すように、正面にある食器棚を見遣りながら口を開いた。

「雨脚はどうでした? 僕個人としては、夕暮れまでに止んでくれると嬉しいんですが」
「まあ、私を天道か何かと勘違いしてる?」
「まさか。あなたは天道というより、デュラハンの方がお似合いですよ」
「───デュラハン、デュラハンか。いいね、確かにそっちのほうが今の性に合ってるかもしれない。
 神出鬼没の妖精、死の前触れ、首無しの騎手。
 うんうん、今度はそっちに趣向を凝らしてみるのもありね」

 何がどうありなのか、女の独り言からはさっぱりだった。
 ふと寒気が走った想像をなんとなく口にしてみただけで、取り立てて女の気を引こうなどという意図はなかったものだから、彼は少しばかり居心地が悪かった。

 無防備も同然の時空で相見えたからだろう。
 どうも調子が狂っていけない。

 女は一頻り頷いた後、呆れた風に肩をすくめた。

「でも天気の話はどうかと思う」
「ちょっとした世間話のつもりだったんですが……。
 天気の話題なんて、けっこう定番でしょう?」

「定番でもそれは往々悪手に思えるけれど」女は含み笑いを微かに零す。
「まあこの際目を瞑って流そうか。あなたの場合、本当に苦し紛れのようだし。そうね、雨脚か。私の勘によると、夜更けまでは降り続くね」
「……夜更け。それはまた長い雨だ」
「ええ、きっと今年の秋も長いんだわ」

 珈琲豆をミルで澱みなく挽く音が、彼らの会話の背景に再び流れ始めた。
 その音は、小石の大群が互いに巻き込み合いながら崖を降る様を彷彿とさせて、じんわりと身体の芯が暖まりつつあるのと店内の閉め切られた香りの所為もあるのだろうか、彼を仄暗い珈琲の湖の中にいるような思いにさせた。

 ゆらゆら、ゆらゆら、と。
 束の間の錯覚。濃厚な音と香りによる若干の酩酊感。

「普段からこのお店には来られるんですか?」
「いいや、今日が初めて。前々から訪れたいとは思っていたのだけど、今まで上手いタイミングが掴めなかったのもあって」
「そうなんですか。なら今日この出逢いも何かの縁」
「ええ、だから今回は間がよかったんだろう。暇そうにしてるあなたを見かけたから、ちょうどいい話し相手になってもらおうと思ってね」

 その言葉は真実のようでもあったし、嘘のようでもあった。

「ちょうどいい話し相手ですか。するとそれでは、このようなしがない赤の他人に何か打ち明けたい事でも?」
「それも少し違う。打ち明けたいと思っているのはおそらく、あなた。私はそれを聴きたいだけだ」
「参ったな。まさか迷える子羊のような役回りを求められるとは思ってもみませんでした……。
 あなたには、僕がそういう風に映ったんですか?」
「そうだね」と、女は意味ありげに微笑んだ。
「でも、私の思い違いだったかもしれない」

 女の告げる言葉はどれも掴みづらいほど曖昧模糊で、まるで内に居座る架空と対話しているかのようだ。

「……思い違いというと?」

 だが隣をちらりと窺ってみれば、そこにはきちんと妙齢の謎めいた女が座っている。
 影も形もある。
 煙のような軽薄さを思わせるが、まさしく生きた人間だ。
 印象とはあべこべに消え入る予兆さえ見当たらない。

「ああ──、」

 すると彼からの浮ついた視線に気が付いた女は、小首を傾けるようにその黒い瞳を見つめ返した。
 知らず微熱の篭った視線を注いでしまう、蠱惑的な振る舞い。
 口許の微笑みはいつまでも絶やさない。

「やっぱり気になる?」
「ええ、不思議と。あなたの意見に耳を傾けたいと思う自分が心中の最も目立つ場所に構えているんです」

 碧い瞳を振り切ってはならない。
 ここで目を逸らしてしまえば、最後までいいようにされてしまう予感がある。

 ゆえに彼は無意識のうち、境界を敷くようにして女へ微笑み返していた。

「職業柄でしょうかね、第三者、とりわけ気になる相手からの所感には欲の皮を突っ張らせてしまう」
「他人想いなんだね」

 その皮肉に彼が小さく頷くと、カランと鳴る鈴のような動きで女の首がより傾いた。

「───なら、取引しよう」

「取引…ですか?」
「何事にも要求への対価は当たり前だ。そう警戒せずとも、あなたにとって何も難しい話じゃない。あなたからは私の言葉を求められたのだから……そうだな、こちらも同様あなた自身の言葉を対価としようか」
「僕自身の言葉というと、具体的には?」

 その問い掛けに、女はさっと姿勢を戻してから応えた。

「身の上話。
 余所さまの人生を尋ねて廻るのが趣味なんだ」

 そんな熱を帯びながら何処か淡々とした女の所作に引き摺られて、彼も前のめり気味だった姿勢を元に戻す。

「……それを要求するなら、最初に僕の身の上から晒したほうが双方の妥協とりひきとして成立するのでは」
「おお、それもそうだね」

 妖精の揶揄う声に取ってつけたような相槌だった。

「……そういう事ですか。初めから境遇それが目的だった、僕は知らずあなたに誘導されていたようです」
「白々しいね、それもこの上なく。私が取引と言い出した時点で悟っていたろうに。そのうえでそんな提案をしてくれたのだろう?」

 と、女が愉快げに目を細めて問うてくる。
 その通りだった。

「この展開をまったく望んでいなかったと云えば真っ赤な嘘になってしまうけれど、半分は時の運による辻褄だ」
「しかしもう半分は……突くだけ野暮ですか」
「そうだね、きっと野暮だ。最初に何かの縁と読んでくれたのもあなた、それくらい付き合ってくれてもいいでしょう? まあ妥当性を天秤に掛けて、お気に召さないというのなら無効でも構わない。そこはあなたの裁量うつわ次第」
「あくまでも僕を試すような物言いをしますね」
「お互い様だろう」

 そこを会話の節目と受け取り、彼はカップに口をつけたが、気づかない内に中身が空になっていた。

「ふふ、おかわりはいかが? 長居に一杯は心象が悪い、空のカップを手元に残して置いては場もからきし空しくなるばかりだ。ほら、これから長丁場になりそうだし、ちょうど私の分も届きそうだし」

 彼が店主のほうを仰ぎ見ると、女の言う通り、注文の品が到着する直前であり、先ほど彼が頼んだ品とまったく同一の品が、女の目前へ丁重に配膳された。
 そして彼らの会話は店主の耳にも届いていたようで、彼の瞳を僅かに正視して一言。

「承りました」

 と、店主は朗らかに追加の注文をとり、空のカップを引き下げた。


「───おや」

 隣からくすくすと笑い声が聴こえてくる。

「あなたとは趣味が合うみたい。でも、マスターには悪い事をした。気づかない内に細かい注文をつけてしまっていたようだから」

 そう悪びれた風もなく言いながら、未だに名も知れぬ女は優雅にサンドイッチをひと噛みした。
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