Chapter Ⅴ 後編

 
 彼が再び目を覚ました頃には、時刻は昼の十二時、その間近だった。

 柔らかい霜を思わせる灰白の雲に皮膚を刺すような雨冷えのもと、一本の乳白色のビニール傘を差して、東凪斗は所狭しと新旧の入り組んだ市街地を黙々と進む。

 辺りに人の通る気配はない。

 雨の奏でる種々な音響の中に、スニーカーの水を弾く彼ひとり分の足音が混じるのみ。
 此処らに住む皆の殆どが、この寒々しくて濡れるだけの休日を家の中で密かにやり過ごすつもりのようだ。

「いや、違うかな」

 周辺の家々の駐車所の空きは意外にも多い。単に車を所有していないという線はおそらく薄い。その中でも地面の濡れ具合に明らかな差が見られる住宅が数軒。
 そういった所は、雨の日に限って遠出をする者もいると聞くがその手の類だろうか、と東凪斗はちょっとした推測を頭上に泳がせた。

 少ししてから、くだらないなと一笑した。

 罅割れと粗が目立つ狭い二車線。
 そういった裂け目や側溝の縁から生える雑草と苔。

 比較的背の低いマンションや平均的なアパート、小さな株式会社や古い民家などが軒を連ね、電信から雨粒がポタポタと傘に滴り落ち、比較的表の通りに出ると、遠目に眺められるいくつかの高層ビルにはうっすらと霧がかかっていた。

 途端に人と車通りが増え、篭り気味だった鼓膜がさあっと澄み渡り、気分が晴れるように視界が開けた。まるで迷路から抜け出せたかのような開放感。
 とはいえ、依然として秋雨は降り続く。

 遅めの朝食、もとい軽めの昼食を済ますため、彼は近場の喫茶店へ足を運んでいる途中だった。

 目的の喫茶店はこの通りに面しており、灰色のテナントや全国チェーンが軒を並べる中で、レトロに小洒落た雰囲気を前面に押し出しているので一際目立つ。

 蝋燭を思わせる淡い橙の灯りと渋みのある焦茶色のレンガ。

 それだけならば、ぱっと見では他の近所にある居酒屋と特徴が似通っているが、正面に据えた外観はシンプルなガラス窓と造花グリーンとで差別化はできており、迷う要素は微塵もない。

 店内は至って静かだった。

 内装は大正浪漫の風情。
 客席面積は十坪程と平均的。
 照明は仄暗いというよりも濃い。

 裸電球に白い和紙を被せた吊り照明が、高熱を発するようにじわじわと蜃気楼の如き揺らぎを見せている。
 店主の趣味か、もしくは背伸びしたセンスか。
 ランプの吊るされた位置は三次元的に疎らであり、まるで小さな恒星の模型が並ぶようだ。

 仄かな甘さと噎せ返るような苦味のある香りが綯い交ぜに漂い、空間一杯に充満するばかりか材木にまで染み付いており、その年季の入りようを窺わせた。

 生憎の雨天のためか、昼間でありながら客入りは少なく、今し方この喫茶店に訪れたばかりの彼を除いて、現在は珈琲を片手にゆったりと読書に趣く老婆の客が店の隅のテーブルにひとりだけのようだ。

 彼は折り畳んだ傘を入り口側の傘立てにさすと、カウンター席に向かった。カウンター席は計五つ並んでおり、彼は入り口から見て三番目──つまり真ん中に座った。

 その正面には、鼻元に白い髭を生やした耳順の店主がいる。

「ご注文はお決まりですかな?」

 彼は店先に置かれてあった看板のメニューを思い出しつつ、数秒ほど思い悩みはしたものの、しかし結局はいつもの趣向から、ブルーマウンテンコーヒーとミックスサンドを注文した。

「あと卵を挟んだものの内の一つをハムとチーズに変えて欲しいんですが、頼めますか?」

 すると、店主が瞳を二、三度瞬かせて、不思議そうな眼差しで彼を見た。

「どうかしました?」
「ああいえ、これは失礼。古い友人とあまりに被ったものですから」

 かしこまりました、少々お待ちくだされ──と店主が準備へ取り掛かり始めた。

 退屈な時が廻る。
 店主の支度の音だけが背景に踊り、あとは心地よいばかりの静謐だ。
 その静けさは、己の内部と対峙する瞬間とよく似合い、今朝方の直前に済ませたばかりだというのに、つい微睡みかけてしまう。

 軽く目を瞑る間、時の流れが異様に速く感じられた。
 日頃の疲れを反作用に思考が加速しているのだろう。

 これまでの白ずんでしまった破片を魚の群れのように垣間見るが、その殆どは言語化されないまま、性急に駆け抜けていく。相対論は生物の精神作用にも通暁するようで、彼は盤石な礎の上に建造された喫茶店の中にいながら、朧げに揺れのある夜行列車にいるようだった。

 ゆえに実際に通り過ぎていったのは、白ずむ先に一際照りついていた束の間の回想ではなく、座席の上でじっと目を瞑っていた彼自身なのだ。

 それから彼を現実へ引き戻したのは、店主の優しげな声だった。

「お待たせいたしました。こちら、ブルーマウンテンとミックスサンドでございます」

 焼き菓子のような香ばしく甘い芳醇な香りがふわりと鼻腔を擽る。
 その源に目線を降ろせば、故く見慣れた光景が待っていた。
 珈琲を一口含むと、見事に調和の取れた風味が舌の上に広がり、次いで浸透させるようにゆっくりと嚥下すれば、冷えた喉の奥へと暖を染み渡らせていった。

「退屈はほぐれましたかな?」
「ええ、着実に。しかし退屈は退屈でも、先までのはそう嫌いではありませんでした」
「私の目にもそのように。君と私は以前、何処かでお会いした事がありましたかな?」
「店主が覚えていないのも無理はありません。あれからもう二十年近く時が経っていますから。幼い頃に一度きり、父に連れられてここへ訪れた事があるんですよ。その時に」

 と、彼は手に持ったままの珈琲カップを微かに示し上げた。

「こりゃありがたい、思い出の味というわけですな」
「ミックスサンドの注文については、今の僕の好みを反映していただきましたが」

「それも良きこと」店主が満足げに頷いた。
「では、ごゆっくりなされ。なにかしらご用がありましたら、いつでもお声掛けください」

 そんな常套句を告げて一礼した後、店主はカウンターから一歩退いた。
 そして入り口方面から真反対にある流し台へ向かうと、横一列に見栄えよく並べられてあったグラスやカップを丁寧に磨き始めた。

 するともはや白いシャツに濃紺のエプロンを身につけた店主の姿など背景も同然に周囲の品々と溶け合い、まったく目に留まらなくなる。
 意識が個ではなく全を収めようとする。
 ありふれた引き出しだが、盛期ルネサンスの絵画を思い出す。綴じられた舞台とその今を生きた人間の区別が付かなくなるような、どちらが主従の関係にあるかどうでもよくなるような、そういう自然な一体模様。

 ただ眺めるだけで『ああ、そういうものか』と異質でありながらも身近にある現実を受け入れてしまう魅力。

 それゆえだろう。
 店主から完全に意識が逸れるまで、そう多く時間は掛からなかった。

 彼も彼で目前の軽食に視線を注いだ。

 食事は至って淡白な物だった。
 所作に無駄がないぶんまだ目を瞑れるが、他に客がいたらちょっとした皮肉を冷水のように浴びせ掛けられていてもおかしくはなく、見る人が見れば少々不愉快に思えてしまうくらいには、彼のサンドイッチを口へ放り込む様は機械的かつ動物的だった。
 感情を目で撫で取る事ができないというか、その食事ぶりからは補給以上の意義を読み取れない。
 しかしその実、質の悪い事に、心の奥深く──抑圧された無意識の領域では、味わいを人並みに楽しんでもいたのだ。

 ミックスサンドを平らげるまでわずか六分程。
 最後の一欠片を飲み込むと、珈琲を一口ぶんだけ含む。

 そこから一息ついて、そのちょうどに右隣から声を掛けられた。

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