Chapter Ⅱ


 七月某日、こよなく快晴。

 気温は人類の進歩速度を思わせるように年々上がっていき、連日三十度を超えるのは半ば常識となっていた。
 屋内や木陰にいれば涼しいという安全神話は今では昔の認識。
 むしろ屋内にいる時の方が気を遣うべし、という言説が巷間では流行している。
 外で快適に過ごす為、なにかと忍耐を捨てて武装するのが基本だからだろう。
 しかし不思議なもので、そのとても良いとは言えない過酷な夏の環境下においても、人々は変わらず、陽気に四方山話に花を咲かせていたりする。

 ……ただし。

 彼女の視点の限りにおいては、道を歩く人々はいつも、何処かしら孤立していた。
 同じ景色を眺めていながら、何か別の事を考えている。

 田舎と都会を繋ぐ、中途半端な店舗密集地。
 そこら一帯を見渡せる坂の頂上から、すぐ傍に通学用の自転車を停めて、彼女は下界を見下ろしていた。

「………」

 一匹の蝉が懸命に鳴いている。共鳴し合う仲間は近くにいないようだ。そして、聞き惚れてくれるツガイも。

 白いガードレールは近寄ってみると案外心許ない。
 なるほど、これなら魔が差して転落してしまう事にも頷けると彼女はひとり納得する。例え今はその気がなくとも、自分は落ちるためにここへ来たのだと、運命を決めてしまいそうになるかもしれない。

「───笑えない」

 つい最近、一週間ほど前になるだろうか。
 その魔に差されて転落してしまった被害者が出たばかりだった。
 彼女のすぐ真横には、御供物がぽろぽろと供えられていた。中には何も知らずに同情して置いていった者もいる。人間特有の、つよい共感力の表れだろうか。

「無駄な事。誰も、ここで死んでなんかいないのに」

 無理に力を込めて絞り出したような呟き。

 そう、誰も死んでなどいない。
 落ちた者はいたかもしれない。
 けれどそれは、きっと遠い昔の話で、最近のモノではない。
 白昼の蜃気楼、ようするにまぼろしだ。
 目撃者は複数人いて、彼らは揃いも揃って運悪く、本来見るはずのなかった、裏世界の幻を目撃してしまっただけに過ぎない。
 
 曲芸のようにガードレールの上に乗り、手を翼のように広げて落下していった幻影を。

 現に死体は見つかっていないのだから。

 最初に目撃した内の一人はそれが幻だと信じた。ここに立つ彼女がそうだった。
 そう落とし込むほかに、選択肢はなかった。

 だって、あの幻は──。

「………」

 長閑な風景だ。住宅街が斜面に沿って事細かに並び立ち、その斜面が緩やかになる毎に建物の間隔が広くなる。コンビニやドラッグストアなどが姿を見せ始める。そうして地面が平らになれば、大規模なマーケットなどの全国展開されている店舗が目立ち始め、ややデザインの凝った大きな洋服店のすぐ背後には田んぼが広がっており、その遥か遠く先には城壁のように山々が連なっている。
 ここら一帯は南を除いて山で塞がれており、彼女の向いている方角のまま、雲を突き抜けるほどの上空から見下ろせば、おそらくはコの字型の中心に街が収まる形となるであろう。

 南には山という障害物がないとはいえ、それでも遠大な距離という壁がある。しかし幸いそちらにはそれなりの栄えた都市があり、バスやら地下鉄やらと移動手段は豊富で、困る事はあまりない。だから車なしの徒歩はやはり物好きの修行僧とそう変わりなく、個人で扱える時間が貴重となった現代では、その移動の仕方さえも贅沢品と言わざるを得ないだろう。
 中途半端な場所に住む者の宿命だった。

 鬱屈とした心が溜まっていく。

 彼女には見慣れ過ぎて、今となっては掃き溜めとしか思えない退屈な風景。
 流行が一歩遅れて捨てられてくる土地。

 実際、山々がちょうど良く袋小路を作り上げていると笑ってみる。
 空はあんなにも鮮烈に青ざめているのに、いつも何処か、地上の景色は色褪せていた。

 そこへ前触れもなく、眺望が雪崩れるように紅をさす。

「え───?」

 微かに漏れ出た吐息に自覚はない。

 合唱が聞こえる。
 耳鳴りがする。

 ──夜立つ夏虫たちが、哭いている。

 それは鮮血。
 べたつく生命の香り。
 うつ伏せに斃れる男の姿を架空のアスファルトに空見する。

 あまりの気怠さに、咄嗟に額へ手をあてがう。
 ああ、とうとう灼熱の太陽に頭をやられたらしい、と彼女は事態の俯瞰に努める。

 ───白昼夢に迷い込んだ。

 辺りは深夜。電灯には蛾が何匹か集っている。夏虫の鳴き声もひどい。けたたましいサイレンのよう。残り少ない命を燃やし尽くして、一世一代の大勝負に乗り出している。何も今である必要はないのに。そんな場違いの苛立ちがさらなる頭痛となって、彼女の頭蓋内で反撥する。

 真夏の夜気は何処となく湿っていて生暖かく、それでいてまとまりつくように寒気がした。

 赤黒く照りついたアスファルトに目線を遣る。
 地面に倒れ伏すその男は、彼女の知る誰かに似ていた。誰だろうと彼女は疑問に思い、一向に鳴り止む様子のない頭痛に苛まれながらも、影になってよく見えない男の顔を覗き込もうとした。

 けれどそれは無為な行動に終わる。

 ぴくり、と背中に刺し傷のある男が身じろぎ、次の瞬間にはマリオネットの如き突拍子さで起き上がっていた。

「あぁ──」

 果たして、それはどちらの吐息だっただろう。

 事実屍人のように起き上がった男の半開きした口腔からか、あるいは多大な精神的衝撃により知らず口許を抑えていた彼女のその隙間からか。それともその両方か。しかし確かな事は、もはや男から熱は感じられない。

 それもそうと、心の隅で冷静に事を見据えているもう一人の彼女が薄く微笑み思考する。

 だってこれは夏のまぼろし。
 幻影に熱量はない。仮に何かがあるとしたら、それは……。

 ふらり、と男の屍が地面に倒れかける。

 いや違う。彼女は即座に自覚する。倒れかけているのは自分の方なのだと。

 せかいが、実感も貧しいままに傾いていく。

 ゆっくりと流れる時の中、ふと空を見上げた。

 ───眩しい。
    瞳の中の水晶が蒸発して、枯々に潰れてしまいそう。

 黒い天蓋にはぽつんと寂しく月が昇っているのではなく──ああ、なんて強烈的なのだろう。
 あれこそがこのまぼろしに満ちた視界の中で、唯一の明白な現実だった。
 理不尽なくらいの熱量だった。
 真っ白な太陽がとても巨大な熱を封じ込めるようにして、輪郭を小刻みに揺らしていた。

「大丈夫かい、きみ?」

 すると、誰かに抱き抱えられた。
 彼女は不覚にもふとした安心感に包まれた。
 爽やかながらも低い声に、所々の堅い筋肉や柔でない骨格の感触からして、どうやら彼女より体格の大きい──とはいっても並外れているほどではない──男性に助けられたようだ。
 しかし彼女の意識は辛く曖昧だ。白い闇に溶ける寸前。気恥ずかしさを感じる余裕もなければ、彼の優しげな呼び掛けに応える気力も残っていなかった。

 そうして、彼女はろくに返事もできず、速やかに意識は怠い暗闇に埋没する。

 ただ、その差し迫った直前。屍のまぼろしにも抱いた印象を彼に抱く。意識ぎりぎりに垣間見えたその男性の顔は、彼女の知る身近な誰かに似ているような気がした。
 


 目が覚めると、見も知らないワンルームに彼女は寝かされていた。
 緩慢に右手を持ち上げ、額に手の甲をあてがう。

「体が重い…」

 さらには若干埃臭い。
 熱にやられたばかりの頭。
 嗅ぎ慣れない男の匂いに視界がくらくらとする。
 なけなしの冷静さを総動員して、現状をちょっとでも推し量ろうと試みたが、波紋の広がりを思わせる鈍い頭痛がそれをうまい具合に阻害してきた。
 しょうがない、とすぐさま思考を取りやめ、気分が少しでも良くなるまで、彼女は青白い天井をぼぅと見つめることにした。

 耳を澄ますと、ゴォと唸るような駆動音が微かに聞こえた。今は夏。茹だるような季節である。それに反して部屋の涼しい空気。答えは考えるまでもない。

 彼女は後頭部を枕に擦り付けるようにして、ほんの僅か首を音の方へ捻った。
 案の定、エアコンが冷たい風を吐き出している。

「………」

 そしてまた天井を見つめた。
 しばらく目を閉じ、鼻で深く息を吸い、その分だけ口で吐く。リズムは一定に。端々の神経まで研ぎ澄まして。そうする事で、内部の澱んだ細胞が蜂起し、凝り固まった血液が循環していくように感じられる。あくまでもやはりそういう気分に過ぎないけれど、やらないよりはマシだろうと彼女は考えていた。

 目論見通り、気分が多少良くなってきた頃合い。

 怠い頭をゆっくりと持ち上げ、布団から上体を起こす。

「どこだろ」

 散らかっていると云うほどではないが、物に溢れたアパートの一室だった。
 この部屋だけが全てではないのだろう。
 彼女の視線の先にはわかりやすく仕切りがある。
 雰囲気は洋室を謳っているのに、なぜだかいつも仕切りが襖みたいに狭苦しい、と彼女は呆れてみる。そういう空間の閉じ方は和室だからこそ活きるというもの。

 部屋の主は相当な読書家のようだ。本とそれ用の容れ物以外にほとんど何もない。部屋の余白は本のために残してあるという印象で、もはや人の住む部屋というより、本を仕舞うために借りた倉庫といった形貌だ。

 ──それなのに布団? 彼女は小首を傾ける。
 
 あまりに不釣り合いというか、整合性に欠いているように彼女には思えた。他にも部屋があるのは明白であり、この部屋はお世辞にも睡眠に適した環境とは言い難い。わざわざ布団を敷くために本を退けるのは非効率だ。

 考えれば考えるほど、その疑問は彼女の中で膨らんでいった。

 八畳ほどの一室に書架が八つも並んでいて、両側の壁一面が覆い隠されてしまっていた。だからとてつもなく圧迫感があり、気持ち広めな図書室の通路のようでもある。それだけに飽き足らず、楕円形のテーブルの上には文庫本が連峰の如く積み上げられており、他にも収まりきらなかったと思われる分厚いハードカバーの書物も同様に幾許か段を刻みつつ、こちらは直接床に積まれていた。
 手近に積まれたうちの一冊を手に取り、適当に外観を確認する。
 その下に隠れていた本の表紙と題名にも目を通した。

「雑食ね」

 自身の置かれた状況から見当外れの感想を零す。
 それもそのはずで、彼女はこの状況に対して微塵も危機感を抱いていなかった。顔や名前も碌に知りもしない部屋の主に、却って親近感を抱いている節があった。あるいは共感していたと言える。

 ここは彼女の在り方とひたすらに似ている。

 この空間に満ちているのは外界に向けた純粋な憧れだけだ。無限遠の広がりようを魅せる世界に少しでも追いつこうと、万別を問わずあらゆる知識を蒐集しているのだろう。
 そこまでの執心と覚悟は生憎と彼女にはなかったけれど、根底にあるコンプレックスはおそらく同じ。同族の気配を彼女は敏感に感じ取っていた。
 だから彼女はこの部屋の一端を垣間見た時、逃げ去ろうさっさと出ていこうと考えるより先に、こう思ったのだ。

 ──待とう、と。

 この部屋の主に会いたいと願った。

「厚かましいかもしれないけれど、ね」

 顔を見たらとりあえず助けてもらったお礼を伝えようと、そう決め込んだ刹那。

 ───ガチリ。

 白い厚木の仕切り越しに、鍵の回る幽かな音を聴いた。
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