Chapter Ⅴ 後編

 足場が倒壊せんと迫ってくる。
 無数の鉄材が弾けるように降ってくる。

 大砲のような突風に煽られ散乱していく様を見て、あずま凪斗なぎとは仮初の空が悲鳴を上げて崩れてゆくようだと思った。

 それが今まさに、彼の頭上から降り掛かろうとしている。

 そして、現在進行形で瓦礫と化そうとする足場の狭間に、彼は目撃した。
 年端もいかない女の子が、瓦礫の渦中に投げ出されている姿を……。

 そうだ、と彼はそこではたと思い出す。
 ほんの数分前の事だった。
 工事現場の足場をあくせくと登っている女の子を見掛けたその時が、事の始まりだったのだろうか。ほとほと呆れ返る。多少の善意など、自分の命を大切に思えば──そして今の災難を思えば、見過ごすべきだったのかもしれない。何をしようとしているのか問い質さねばと思い、不法侵入を働いた矢先が現在の状況だった。

 それでも……、と。
 我知らず、彼は少女へ手を伸ばした。
 駆け出した。
 駆け出していた。
 鉄材が身を削る痛みなど知った事かと、失明も昏睡も不随も──あらゆる後遺症の可能性を意識の外へ追いやって、損得勘定さえも根刮ぎ脱ぎ捨てて、恐れ知らずに抱き留めようとした。

 それでこの命がどうなるかなんて、その先を考えもしなかった。
 この一瞬ばかりは、たったひとつの事実だけを捉えたかったのだ。

 ───そうして。

 コンマ秒間の刹那を駆け抜けて、東凪斗は小さき命を庇った。

 唐突に暗くなった視界、すべての世界。
 果てしない衝撃が彼の背面を余すことなく襲う。
 頭蓋骨に直接衝撃が来ないのが理不尽なくらい。
 身体が生命の危機を感じ取って、神経が波濤のようにたわむ。

 そのさなかでも、絶えず腕の中にか弱い熱を覚える。

 それだけで十分だった。

 救おうとした理由、見捨てられなかった理由は、今もよく解せない。
 無垢な善意からの衝動であったのなら、こうも首を傾げたりはしなかっただろう。
 ただ、放っておけないと感じ取った心を裏切らずに済んだこの行動と結果──選択には、きっと最後まで胸を張れると、失いつつある心の底からそう思えた。

 ───その代償行為を良しとしない者が、たとえこの中にいるとわかっていても。
 
「……やっと、得心がいった」
 
 脳の内側から、張り詰める圧迫感がこの身へ訴える。
 まだ死ぬなと吠えている。

 くちゃくちゃと音を立てて、
 彼の脳を貪るように置き換えながら。

 擽ったくて、天地が裏返って、それ以上に死んでしまいそうで。
 数ヶ月に亘る均衡が傾く中で、そのような血の滲む鍔迫り合いを余所に、戦場の舞台そのものが純白の地平線の彼方へ消えつつあった。
 
「うん、そうか。アナタは、解放されたかったのか……」
 
 違うんだ、と私は細い管の闇の奥底で叫んだ。
 その時に気がついた。
 ここはひどく、息が詰まる。
 まるで、牢獄のようだと───。
 
       ◆
 
 脊髄が岩石圏にでもなったかのようだ。
 蓄積された軋轢がその威光を示さんと底から押し上げるように、ドクンとわたしそのものが震えた──。
 
「──────……」

 彼が浅い眠りから目を覚ますと、室内はまだ暗かった。おそらく中途半端な時期に目を覚ましたせいだろう、瞳を閉じようにもいやに目が冴えたので、とりあえず彼は体を起こす事にした。
 カーテンの縁を見るに、日は出ていないようだ。
 さらに裏付けを取るように、寝台の上方部に備え付けられた棚の上、そこに置かれたデジタル時計を振り返ってみると、傍らに小さくAMと打たれた上で四時十二分と表示されていた。
 通りで暗いわけだと彼は納得する。
 十一月も半ばを過ぎた頃、太陽がこの地に顔を覗かせるまであと二時間以上もあるのだから。

 やはりというか、思った通り間が悪い時間帯だったので、まだ体が温かいうちに再び夢の中へ戻ろうと彼は考えたが、こんな中途半端な起床になった原因がそもそも夢見の悪さな事を思い出して、そこでもう一度眠ろうという気は完全に失せてしまった。

 悪い夢の再演は出来る限り避けたいのが人間の本能だろう。

 眠りを妨げられたのなら、後はもう起きる他にやれることがない。眠りと目覚めの関係ばかりは、どうもうまい塩梅にいかないものらしい。欲求不満を解消してくれる妥協案が見出せず、もはや二元論のみでしか語りようがないほどに。

 仕方なく掛け布団の下から足を引き摺り下ろす。

 微かに肌寒さを覚える夜明け前。
 人のいない暗夜に降り続ける秋雨と、ベランダの溝を流れる小川の音色。
 ひた、ひた、ひたという素足で木製の床を踏み締める彼の足音が暗い室内に澄み渡る。

 市販の安い水で喉を潤したのち、リビングのソファへ放るように腰を下ろした。明かりは気分で点けなかった。自発的に眠る気はなくとも、瞳の奥の霧が晴れたわけではない。うつらうつらと暗闇へ漕ぎ出してしまう分には、無闇な抵抗をせず受け入れるつもりでいた。

 目が覚める前、己がいったいどのような夢を見ていたか。

 しかしその具体的な映像は、とうに眠気という霧の中に溶けている。朧げに捉える景色、一枚の次元を隔てた先に掴まされる感覚のさなかでは、そんな気色悪い刹那さえも曖昧模糊に霞んで、麻酔でも打ったかのように心地良い狭間に落ち込んでいく。

 果たして空に落ちているのか、地に沈んでいるのか。

 ふっ、と遥か下方から包み込むよう旋風に煽られたかと思えば、びくんと頭蓋骨の奥でかれが震えた。

 それにしても肌寒い、と彼はより脱力感に耽る。
 春や夏であれば、肝心なところで邪魔されずに無為な時間をやり過ごせたものを。

 ───季節という境界が苦手だった。
    それは最近になって覚え出した傾向である。

 例えば太陽の高度や紫外線の量。植生の移り変わり。目まぐるしく容姿を変える気候。それらに適応した人々の格好も当て嵌まるだろうか。そういった変遷を見送る毎に、彼はふと思う。
 遍く時の変容総てが、この存在わたしに生き急ぐ事を強要している気がしてならない、と。

 矮小であると。
 その命は瞬きほどの短さだと。

 『私』という存在が矮小であるが故に、星や気候という強大さの前に己が時の短さを思い知らされてしまう。そしてその過程には、己よりも格段に小さな物たちの死が無数に横たわっている。

 それは踏み台ほどの屍の山だった。

 重なり合い、本能の赴くままに子孫を残そうとする虫の姿が鮮明とその眼に焼き付いている。木陰の湿っぽい薫り、炎天の木漏れ日と戦闘機のプロペラじみた羽音。あれはカブトムシだったか、と彼は他人事のように夏の風景を思い起こした。少なくとも昆虫の類だった。
 虫だけではない。
 日常のふとした瞬間、あらゆる時間軸でそういうシーンは度々訪れる。

 その度に空虚を撫でられた思いになる。

「……癪に障る。なぜ、この私が取り残された気分になるのか」

 繰り返し、繰り返し、限られた円錐の内で影響を受けて、その絶え間ない波紋の果てに落ちぶれる我が身を悟っていく。それが彼の考える生命の在り方であり、共通した命の大筋。なにものも朽ちる現象からは逃れられない。

 その定義が、いつしか心のうちに矛盾を膿んだ。

 願いと現実が互いに譲り合えないところで摩擦を引き起こした。
 叶えられない願い、
 認められない現実との板挟み。

 そこに残るのは苦悩の残滓だ。
 そこより堆積するのは焦燥だ。

 彼には約束があった。果たさなければならない願いがあった。その為の手段、それに付随する罪さえも自覚の内に。それらを片時も忘れた事はない。ただ、なぜそう望まれたのかという原初の理由を除いて……。

かぐや・・・

 嗄れた老翁を思わせる悲しげな囁きが闇の奥底から首をもたげる。

 ───ああ、彼は今、夢現の境で途方に暮れている。

「君が亡くなってから、すでに四百もの季節が過ぎ去った。ひとりの長い一生を終えて、その次の一生を呆気なく閉ざしてもなお、それでも私はまだ、この世界にしがみついていたいと思えている。その生き汚なさを、君は純粋に喜んでくれるだろうか。
 祝福、してくれるだろうか……私が目を覚ました時と変わらない姿で」

 しかしその声音の穏やかさとは裏腹に、彼は耳元で鳴る心臓の鼓動と同じくらい焦っていた。

 いずれ限界が来る。狡猾な知恵など、世界を廻す法則の前ではまさしく悪足掻き、姑息の域を出ないのだから。

 だから──。

「真の知恵が要る。君の願いを叶え続ける為には、宇宙の真理に耐え得る肉体が要る。最近、ようやくその手掛かりを掴めたのだ。どうか見届けてほしい。人倫を解せぬ獣となった、この憐れな私を。どうか果てしないソラの上で」

 再び誓いを此処に。
 元よりその発端は人でなしだった。

 そうして、意識は夜明けと共に霞んでいく。

 今日が休日で良かったと思考の隅で現状を俯瞰しながら、彼は力の抜ける自然な流れに身を委ねて、自らの手綱をゆるりと手放した。
1/12ページ
スキ