Chapter Ⅴ 前編
今回のカウンセリングも差し障りなく終えられ、東凪斗は、五月雨虹架をオフィスビルの外まで見送った。
まだ十七時半を僅かに過ぎた程度だったが、外はすっかり暗くなっていた。
鋭い横薙ぎじみた音を震わしながら、ビルとビルの空隙を縫って、一陣の冷たい風が通りをすり抜けていった。
昼間との気温の落差に、その風は実際よりも寒く感じられた。
別れの挨拶は普段と変わりなく簡素に済ませ、彼の背中が表通りの雑踏へ消えるまで見届けてから、東凪斗はオフィスビルへと踵を返した。
その時である。
「────……あの」
と、横合いから幼い少女の声が聞こえてきた。
東凪斗には、その縫い針の如く気の強そうな可愛らしい声質に聞き覚えがあった。
───宵閉詠だ。
そこまでの驚きはなかった。
この仕事場まで来られたことはさすがに今回が初ではあるが、アプローチの未遂自体ならば、学校において度々見られていた。
ここ一ヶ月、宵閉詠が少し離れた場所から彼の事を見つめては、振り向かれた途端にそそくさと逃げ隠れるの繰り返しだったのだ。ようやく時が満ちたと言うべきだろう。
東凪斗は、満を持して幼き来訪者のほうへと振り向いた。
「こんな暗い時間に、子供一人で出歩くのは関心しないな」
宵閉詠は、やはり後ろめたさがあったようで、その一言に顔を俯かせた。
「………この間のこと、謝ろうと思って」
「詠ちゃんから仲直りしに来てくれたのはとても嬉しいけれどね。だからって、この辺りを一人で来るのは危ないよ」
ため息は吐かない。
そんな事をしたら、余計不安がらせてしまうだけだ。
ここですべき対応は、優しく欠点のない大人を演じること。
それゆえに以前と同じく、東凪斗は心の隙を作らせるため、彼女と同じ高さの目線に立つよう腰を下ろした。
「ここは寒いから、とりあえず中に入ろうか」
こくん、としおらしく頷いたのを見て、宵閉詠をいつものカウンセリングルームへ案内した。
つい先程、五月雨虹架が座っていた位置に彼女を座らせる。
シンプルなデザインの白いカップを二つ用意して、その両方に温かいお茶を淹れた。
相手にも同じものが用意された、という状況だけで人は少なからず安心してしまう。
そこまでの手間を取らず、自然な流れで緊張を解かせるのに有用な手段だ。
お茶を一口飲んでから、東凪斗は切り出した。
「お母さんには一応、僕のオフィスにいるって連絡させてもらうね。事が事だし、無闇に先延ばしにしては後が恐くなる。
大丈夫、家までの送り迎えを含めて僕が君の面倒を見ることは、ちゃんと伝えるから」
すると、宵閉詠が慌てたように彼を見上げて叫んだ。
「い、嫌っ。お母さんには言わないで!」
柔和な笑みのまま、訳を訊ねる。
「どうして?」
「……だって、お母さんは、ここの住所知ってるから」
「────へぇ、なるほどね」
宵閉詠が、ただ単に仲直りしにきた訳ではない事を悟った。
「しかしそうは言ってもね、連絡しない訳にはいかないんだよ。そうしないと、僕が犯罪者になってしまうからね」
「……でも」
「連れ戻されるのが、嫌なのかな?」
ううん、と宵閉詠は首を振る。
「それじゃあ、なんでなんだろう。僕にはわからないな」
東凪斗は、これは困ったとあからさまな態度を取ってみる。
そして、ただじっと言葉を待つ。
ここでしっかり相手の返答を待つことにより、相手の内には次第に『自分の話を聴いてから行動を決めてくれるんだ』という信用が芽生え始める。
そのように明確に言語化されずとも、少なからず話してみようという気にはなるだろう。
まして宵閉詠の場合、何らかの話があって東凪斗の下までやってきたのに違いないのだから、もとより話す意思はあるのだ。
その僅かばかりの意欲を無理に急かすことで削いでしまうのは、とても賢い選択とは言えない。
「───……お母さんは、私よりも子供だから」
目論見通り。
泣きそうな少女は、訥々と話し始めた。
「ずっと、お父さんからの連絡を待ち続けてるの。携帯なんか見つめちゃってさ。もう帰ってこないのに。帰ってくるはずないのに。バカみたい。
だから、凪斗先生が電話しちゃったら、勘違いしちゃうかもしれないし。前はそんなこと全然思わなかったんだけど……お父さんと凪斗先生は、ちょっとだけ、似てるから、その………」
後半のほうは自信なげに声が尻窄まりだったが、それ以外の感情も翳る瞳の奥に窺えた。
またそれにより、ある程度の方針も定まった。
「ありがとう、話してもらえて嬉しいよ。でも、そうやって自分のお母さんを悪く言うのは頂けないな」
「………」
宵閉詠は、バツが悪そうに俯く。
「普段のお母さんの様子はどう? 携帯を見つめていない時は、悲しみに暮れているかな?」
「……全然。お父さんが事故で死んじゃう前と変わんない」
「うん。じゃあ、詠ちゃんは知ってるかな。
グリーフ──悲しみにはいくつかの段階があることを」
ぶんぶんと首を横に振った。
当然だ。小学三年生の普通の女の子が知るはずもない。
「たくさんの説があるんだけどね、多くの場合、最後には喪ったという現実を受け入れることで終えるんだよ。そして、受け入れるためには、段階を踏んで、課題を乗り越える必要がある。
課題で云うと、詠ちゃんに馴染みがあるのは、夏休みの宿題かな。
時が来たら、提出して、新学期を迎えなくちゃいけない。
詠ちゃんのお母さんはね、その課題に取り組んでる最中なんだ」
「誰に──」
宵閉詠がテーブルに両手を着き、身を乗り出した。
「それって、誰に提出するの?」
その必死な姿は、初々しくもいじらしいと思う。
確信を湛えた瞳を見て、東凪斗はくすりと微笑んだ。
「詠ちゃんは、もう誰かわかってるんじゃないかな?」
「…………」
目を逸らさず、ただ夢見の悪そうな顔で見つめてくる。
恐怖だ。
宵閉詠は怖がっている。
けれどその恐怖は、今すぐにでも死んでしまいそうなほどの魔力を帯びていない。
弱々しく、不安を掻き立てて、居ても立ってもいられなくなる程度のそういう尾を引くような怖さ。
「詠ちゃんがなにに怖がっているか、教えてあげようか?」
「……凪斗先生には、わかるの? 私でも、よくわからないのに」
「わかるとも。詠ちゃんだって知っている。だって詠ちゃんは、おそらく無意識のうちにではあるんだろうけれど、僕の下まで来たんだから。
───詠ちゃんはね、僕がお父さんからお母さんを奪 ってしまわないか、それを怖がっているんだ」
すとん、と今までの焦燥が腑に落ちたかのように、宵閉詠は力を抜いてソファに座り込んだ。
そして、ゆっくりと頷いた。
「凪斗先生とお母さんは、ときどき会ってるんでしょ?」
「うん、そうだよ」
「付き合ってるから?」
「僕の職業はカウンセラー、人の苦しみや悩みに寄り添う仕事だ。助けを求めていそうな人がいたら、つい声を掛けてしまう。
どうかしましたか、って。
僕と詠ちゃんのお母さんとの関係性は、つまりそういうことだよ。詠ちゃんが心配するようなことはこれっぽっちもない」
まったくの嘘ではなかった。
最初に声を掛けてきたのはあちら側でも、そこから足繁く寄り添ったのは東凪斗のほうだ。
この頃は愛人関係のような依存の傾向にあったが、それもいずれ帳消しになる。
元々別の用途でそうなるように仕向けていたとはいえ、ちょうどいい起爆剤として切り離す用意も進んでいる。
宵閉詠が危惧する未来には成り得ない。
「……うん。私、凪斗先生を信じるよ」
勘が良いといえどもまだ子供。
疑いを完全に取り除く事はできなかったが、とりあえず納得してくれたようだ。
「それはよかった。
じゃあ、お母さんに連絡するけど、いいね?」
宵閉詠がしっかり頷いたのを見て取って、東凪斗は母親に娘がこちらのオフィスにいる事を告げた。
母親が電話に出た当初は嗚咽まじりでまともな会話すらままならなかったが、娘の無事がわかった事と密かに信頼を寄せている思い人からの電話に安心し、そこにカウンセラーとしての話術も加われば次第に冷静さを取り戻し、最終的に話は宵閉詠を家まで送るという事で纏まった。
月極の駐車場から中古のワゴン車を発進させる。
「凪斗先生、車持ってたんだー。なんか意外。いつも徒歩なのに」
「最近買ったんだ。前々から欲しいと思っていたからね」
「ペーパードライバー?」
「あはは、安全運転で行こうか」
実際のところ、車の運転はとうに手慣れたモノだったが、ここではわざと、常に安全運転を心がける経験の浅い大人を装った。
走行速度を落とす為である。
当然ながら、周囲から不審に思われない程度に抑える。
オフィスから宵閉家までの道のりはそう遠くない。
宵閉詠の通う小学校とオフィスのおよそ中心に位置する。
彼女のような幼い子供でも、よっぽどの動機に突き動かされたらという条件付きではあるが、かろうじて歩いていけてしまう距離だ。
車であれば十五分も掛からない。
宵閉詠には、まだ悩みがあるようだった。
見当はついている。暁月冥との関係だ。
その事を聞き出し、東凪斗の望むように誘導するには、時間が──話していいと思える余裕が要る。
その点、車は理想的な密室状況だ。
単に歩くよりも数倍の速度で進んでいながら、ただじっと座って待つ事しかできない。
ゆったりとした車の体感速度は、手持ち無沙汰に退屈を催す。
そして、宵閉詠 の低い視点からでは、変わり映えのない窓の風景から家までの距離の把握は難しく、ますます体感的に長く感じられる事だろう。
おまけに今回は運も重なった。
宵閉詠が、背もたれに身を預けながら、左側の窓を見上げて呟く。
「……なかなか進まないな」
「うん。この時間帯は混むからね」
隣では、モゾモゾと落ち着きない気配がする。
打ち明けようか悩んでいるのだろう、と最初はそんな風に考えたが、それにしてはどうも切羽詰まっているような様子だった。
もしかしてと思い、東凪斗はこんな事を提案した。
「コンビニ寄ろうか」
ピクリと頭と肩の両方を揺らして、宵閉詠は躊躇いがちに理由を問うてきた。
「え、ど、どうして?」
「ちょっと小腹が空いてね。次の信号を左に曲がればすぐだから。もちろん、詠ちゃんの分も買ってあげるよ、お母さんには内緒で」
「……そんな子供扱い、しないでほしい。私が恥ずかしくなるだけだし──少ししたら言おうと思ってたの、本当だから、全っ然大丈夫だったんだからね」
途中、予想外の費用がかさんだが、曲がりなりにも東凪斗の思惑通りに話は進んだ。
コンビニの駐車場に車を停めたまま、その中で二人仲良く間食しながら他愛のない雑談を交わし、それにも一段落が付くと、気を取り直しつつ車を発進させた──その直後だった。
これまで大して接点のなかった知り合いの大人と車中で会話するという、側からみれば如何にも不審極まりない状況には慣れたようで、長年の悩みを打ち明けるように、宵閉詠はゆっくりと語り始めた。
「学校の友達で、暁月冥ちゃんって女の子がいるの」
合間に相槌を打ちながら、少女の話に耳を傾けた。
初めはなんてことのない思い出話から。
暁月冥がクラスで孤立していた事を見兼ねて話し掛けたシーンから始まって、学校の隙間時間で話していく内に仲良くなっていき、やがて互いの家へ遊びに行くようにもなり、そこで素敵なお兄さんと出会ったという脱線も混じりつつ、最後には事故に行き遭った。
大事な父親が死んで、仲の良い友達が生き残った。
いつも笑顔だった父親は助けてもらえず、笑う頻度の少ない友達は救われた。
頼り甲斐のあった父親は潰されて、頼りない友達には傷ひとつない。
片方は下敷きになって、もう片方は表舞台から姿を消した。
しかし夏休みの間に一回だけ、電話越しで話すことがあったという。
最初は無事を確認したり励ましたりしたそうだが、飛躍的な流れで喧嘩になってしまった。
といっても一方的だったようだ。
宵閉詠がひたすら父親の死を嘆き、生き残ったほうに恨みをぶつけた。東凪斗に向けたモノと似たような具合に。
ふたりの仲に亀裂が入った。
所詮は二年弱の短い付き合いだ。
肉親の粘っこい鎖じみた関係性とはまるで訳が違う。
無理もない話だろう。
けれど、この少女は薄情でいたくないらしい。
仲直りがしたいと少女は言った。
だが、どうすればいいか分からないとも。
「…………」
二律背反の思考が渦巻く。
感情の裏と表が廻るように鬩ぎ合い、その反動に世界が傾いでいく。
観念も此処まで極まれば妄念も甚だしいと思う。
主体は依然コチラにある。
死人はお呼びではない。
東凪斗は、薬にも毒にもなり切らないアドバイスを授けた後、それでも駄目なら、と保険と偽って本当の目的を付け合わせた。
「五月雨虹架という少年の下を訪れてみるといい。この僕が保証する。その少年は、“人間”にかけては僕以上の専門家だから」
宵閉詠の母親も似たように、殺人鬼の卵へ足を運ばせた。
ただしそれは、もう少し後の話。
急拵えの娘とは違い、“致命的な爆弾”を抱えさせてから。
それから一週間後──。
宵閉詠は今日も元気に登校している。
クラスの友人たちと楽しく談笑し、授業にもきちんと取り組み、いつも欠かさず余裕のある笑みを浮かべていて──けれど、何処かしらが食い違っていた。
不思議にも、そういう自覚があるのは宵閉詠本人くらいのもので、周りは誰も、その事を指摘してくれない。
皆、苛つくほどに鈍感だった。
なにか、根本的な部分を植え替えられたような気がした。
まるで模様替えみたいに。
要らない家具や飾りは棄てて、まだ使えそうな物もとりあえず棄てて、新たに相応しい彩りを加えてみました……的な。
廊下を歩いていく途中、ふと、誰かとすれ違った。
振り返って見てみると、若い男の人だった。
確か、非常勤のスクールカウンセラーの先生だったと思う。
爽やかな微笑みをこれ以上ないってくらい完璧な形で貼り付けて、談話室があるほうの角を曲がっていった。
「…………………」
以前、あの人に何か特別な思いを抱きかけていた気もしたけれど、たぶん他人の空似だろう。
だって、何も思い出せないのだから。
教室に戻り、自分の席に座り、何気なくその果敢無い幕を纏ったような背中を見遣った。
そういえば、暁月冥 とも距離が開いたままではあったが、しかしそれに関しても今更特に思う事はなかった。
友人が一人減った、という程度の冷めきった認識だった。
変わらない日常。
空虚に過ぎていく毎日。
満たされない要求が刻々とソラより降り注ぐ。
退屈を紛らわそうと、放課後に街へ繰り出した。
「探さないと」
誰を? 少女は首を傾げる。
何のことだか、よくわからない。
「……でも、とりあえず、探さないと」
嫌な事も良かった事もみんな綺麗に忘れ去って、宵閉詠は今日も、顔も名前も知らない人探しを続けた。
まだ十七時半を僅かに過ぎた程度だったが、外はすっかり暗くなっていた。
鋭い横薙ぎじみた音を震わしながら、ビルとビルの空隙を縫って、一陣の冷たい風が通りをすり抜けていった。
昼間との気温の落差に、その風は実際よりも寒く感じられた。
別れの挨拶は普段と変わりなく簡素に済ませ、彼の背中が表通りの雑踏へ消えるまで見届けてから、東凪斗はオフィスビルへと踵を返した。
その時である。
「────……あの」
と、横合いから幼い少女の声が聞こえてきた。
東凪斗には、その縫い針の如く気の強そうな可愛らしい声質に聞き覚えがあった。
───宵閉詠だ。
そこまでの驚きはなかった。
この仕事場まで来られたことはさすがに今回が初ではあるが、アプローチの未遂自体ならば、学校において度々見られていた。
ここ一ヶ月、宵閉詠が少し離れた場所から彼の事を見つめては、振り向かれた途端にそそくさと逃げ隠れるの繰り返しだったのだ。ようやく時が満ちたと言うべきだろう。
東凪斗は、満を持して幼き来訪者のほうへと振り向いた。
「こんな暗い時間に、子供一人で出歩くのは関心しないな」
宵閉詠は、やはり後ろめたさがあったようで、その一言に顔を俯かせた。
「………この間のこと、謝ろうと思って」
「詠ちゃんから仲直りしに来てくれたのはとても嬉しいけれどね。だからって、この辺りを一人で来るのは危ないよ」
ため息は吐かない。
そんな事をしたら、余計不安がらせてしまうだけだ。
ここですべき対応は、優しく欠点のない大人を演じること。
それゆえに以前と同じく、東凪斗は心の隙を作らせるため、彼女と同じ高さの目線に立つよう腰を下ろした。
「ここは寒いから、とりあえず中に入ろうか」
こくん、としおらしく頷いたのを見て、宵閉詠をいつものカウンセリングルームへ案内した。
つい先程、五月雨虹架が座っていた位置に彼女を座らせる。
シンプルなデザインの白いカップを二つ用意して、その両方に温かいお茶を淹れた。
相手にも同じものが用意された、という状況だけで人は少なからず安心してしまう。
そこまでの手間を取らず、自然な流れで緊張を解かせるのに有用な手段だ。
お茶を一口飲んでから、東凪斗は切り出した。
「お母さんには一応、僕のオフィスにいるって連絡させてもらうね。事が事だし、無闇に先延ばしにしては後が恐くなる。
大丈夫、家までの送り迎えを含めて僕が君の面倒を見ることは、ちゃんと伝えるから」
すると、宵閉詠が慌てたように彼を見上げて叫んだ。
「い、嫌っ。お母さんには言わないで!」
柔和な笑みのまま、訳を訊ねる。
「どうして?」
「……だって、お母さんは、ここの住所知ってるから」
「────へぇ、なるほどね」
宵閉詠が、ただ単に仲直りしにきた訳ではない事を悟った。
「しかしそうは言ってもね、連絡しない訳にはいかないんだよ。そうしないと、僕が犯罪者になってしまうからね」
「……でも」
「連れ戻されるのが、嫌なのかな?」
ううん、と宵閉詠は首を振る。
「それじゃあ、なんでなんだろう。僕にはわからないな」
東凪斗は、これは困ったとあからさまな態度を取ってみる。
そして、ただじっと言葉を待つ。
ここでしっかり相手の返答を待つことにより、相手の内には次第に『自分の話を聴いてから行動を決めてくれるんだ』という信用が芽生え始める。
そのように明確に言語化されずとも、少なからず話してみようという気にはなるだろう。
まして宵閉詠の場合、何らかの話があって東凪斗の下までやってきたのに違いないのだから、もとより話す意思はあるのだ。
その僅かばかりの意欲を無理に急かすことで削いでしまうのは、とても賢い選択とは言えない。
「───……お母さんは、私よりも子供だから」
目論見通り。
泣きそうな少女は、訥々と話し始めた。
「ずっと、お父さんからの連絡を待ち続けてるの。携帯なんか見つめちゃってさ。もう帰ってこないのに。帰ってくるはずないのに。バカみたい。
だから、凪斗先生が電話しちゃったら、勘違いしちゃうかもしれないし。前はそんなこと全然思わなかったんだけど……お父さんと凪斗先生は、ちょっとだけ、似てるから、その………」
後半のほうは自信なげに声が尻窄まりだったが、それ以外の感情も翳る瞳の奥に窺えた。
またそれにより、ある程度の方針も定まった。
「ありがとう、話してもらえて嬉しいよ。でも、そうやって自分のお母さんを悪く言うのは頂けないな」
「………」
宵閉詠は、バツが悪そうに俯く。
「普段のお母さんの様子はどう? 携帯を見つめていない時は、悲しみに暮れているかな?」
「……全然。お父さんが事故で死んじゃう前と変わんない」
「うん。じゃあ、詠ちゃんは知ってるかな。
グリーフ──悲しみにはいくつかの段階があることを」
ぶんぶんと首を横に振った。
当然だ。小学三年生の普通の女の子が知るはずもない。
「たくさんの説があるんだけどね、多くの場合、最後には喪ったという現実を受け入れることで終えるんだよ。そして、受け入れるためには、段階を踏んで、課題を乗り越える必要がある。
課題で云うと、詠ちゃんに馴染みがあるのは、夏休みの宿題かな。
時が来たら、提出して、新学期を迎えなくちゃいけない。
詠ちゃんのお母さんはね、その課題に取り組んでる最中なんだ」
「誰に──」
宵閉詠がテーブルに両手を着き、身を乗り出した。
「それって、誰に提出するの?」
その必死な姿は、初々しくもいじらしいと思う。
確信を湛えた瞳を見て、東凪斗はくすりと微笑んだ。
「詠ちゃんは、もう誰かわかってるんじゃないかな?」
「…………」
目を逸らさず、ただ夢見の悪そうな顔で見つめてくる。
恐怖だ。
宵閉詠は怖がっている。
けれどその恐怖は、今すぐにでも死んでしまいそうなほどの魔力を帯びていない。
弱々しく、不安を掻き立てて、居ても立ってもいられなくなる程度のそういう尾を引くような怖さ。
「詠ちゃんがなにに怖がっているか、教えてあげようか?」
「……凪斗先生には、わかるの? 私でも、よくわからないのに」
「わかるとも。詠ちゃんだって知っている。だって詠ちゃんは、おそらく無意識のうちにではあるんだろうけれど、僕の下まで来たんだから。
───詠ちゃんはね、僕がお父さんからお母さんを
すとん、と今までの焦燥が腑に落ちたかのように、宵閉詠は力を抜いてソファに座り込んだ。
そして、ゆっくりと頷いた。
「凪斗先生とお母さんは、ときどき会ってるんでしょ?」
「うん、そうだよ」
「付き合ってるから?」
「僕の職業はカウンセラー、人の苦しみや悩みに寄り添う仕事だ。助けを求めていそうな人がいたら、つい声を掛けてしまう。
どうかしましたか、って。
僕と詠ちゃんのお母さんとの関係性は、つまりそういうことだよ。詠ちゃんが心配するようなことはこれっぽっちもない」
まったくの嘘ではなかった。
最初に声を掛けてきたのはあちら側でも、そこから足繁く寄り添ったのは東凪斗のほうだ。
この頃は愛人関係のような依存の傾向にあったが、それもいずれ帳消しになる。
元々別の用途でそうなるように仕向けていたとはいえ、ちょうどいい起爆剤として切り離す用意も進んでいる。
宵閉詠が危惧する未来には成り得ない。
「……うん。私、凪斗先生を信じるよ」
勘が良いといえどもまだ子供。
疑いを完全に取り除く事はできなかったが、とりあえず納得してくれたようだ。
「それはよかった。
じゃあ、お母さんに連絡するけど、いいね?」
宵閉詠がしっかり頷いたのを見て取って、東凪斗は母親に娘がこちらのオフィスにいる事を告げた。
母親が電話に出た当初は嗚咽まじりでまともな会話すらままならなかったが、娘の無事がわかった事と密かに信頼を寄せている思い人からの電話に安心し、そこにカウンセラーとしての話術も加われば次第に冷静さを取り戻し、最終的に話は宵閉詠を家まで送るという事で纏まった。
月極の駐車場から中古のワゴン車を発進させる。
「凪斗先生、車持ってたんだー。なんか意外。いつも徒歩なのに」
「最近買ったんだ。前々から欲しいと思っていたからね」
「ペーパードライバー?」
「あはは、安全運転で行こうか」
実際のところ、車の運転はとうに手慣れたモノだったが、ここではわざと、常に安全運転を心がける経験の浅い大人を装った。
走行速度を落とす為である。
当然ながら、周囲から不審に思われない程度に抑える。
オフィスから宵閉家までの道のりはそう遠くない。
宵閉詠の通う小学校とオフィスのおよそ中心に位置する。
彼女のような幼い子供でも、よっぽどの動機に突き動かされたらという条件付きではあるが、かろうじて歩いていけてしまう距離だ。
車であれば十五分も掛からない。
宵閉詠には、まだ悩みがあるようだった。
見当はついている。暁月冥との関係だ。
その事を聞き出し、東凪斗の望むように誘導するには、時間が──話していいと思える余裕が要る。
その点、車は理想的な密室状況だ。
単に歩くよりも数倍の速度で進んでいながら、ただじっと座って待つ事しかできない。
ゆったりとした車の体感速度は、手持ち無沙汰に退屈を催す。
そして、
おまけに今回は運も重なった。
宵閉詠が、背もたれに身を預けながら、左側の窓を見上げて呟く。
「……なかなか進まないな」
「うん。この時間帯は混むからね」
隣では、モゾモゾと落ち着きない気配がする。
打ち明けようか悩んでいるのだろう、と最初はそんな風に考えたが、それにしてはどうも切羽詰まっているような様子だった。
もしかしてと思い、東凪斗はこんな事を提案した。
「コンビニ寄ろうか」
ピクリと頭と肩の両方を揺らして、宵閉詠は躊躇いがちに理由を問うてきた。
「え、ど、どうして?」
「ちょっと小腹が空いてね。次の信号を左に曲がればすぐだから。もちろん、詠ちゃんの分も買ってあげるよ、お母さんには内緒で」
「……そんな子供扱い、しないでほしい。私が恥ずかしくなるだけだし──少ししたら言おうと思ってたの、本当だから、全っ然大丈夫だったんだからね」
途中、予想外の費用がかさんだが、曲がりなりにも東凪斗の思惑通りに話は進んだ。
コンビニの駐車場に車を停めたまま、その中で二人仲良く間食しながら他愛のない雑談を交わし、それにも一段落が付くと、気を取り直しつつ車を発進させた──その直後だった。
これまで大して接点のなかった知り合いの大人と車中で会話するという、側からみれば如何にも不審極まりない状況には慣れたようで、長年の悩みを打ち明けるように、宵閉詠はゆっくりと語り始めた。
「学校の友達で、暁月冥ちゃんって女の子がいるの」
合間に相槌を打ちながら、少女の話に耳を傾けた。
初めはなんてことのない思い出話から。
暁月冥がクラスで孤立していた事を見兼ねて話し掛けたシーンから始まって、学校の隙間時間で話していく内に仲良くなっていき、やがて互いの家へ遊びに行くようにもなり、そこで素敵なお兄さんと出会ったという脱線も混じりつつ、最後には事故に行き遭った。
大事な父親が死んで、仲の良い友達が生き残った。
いつも笑顔だった父親は助けてもらえず、笑う頻度の少ない友達は救われた。
頼り甲斐のあった父親は潰されて、頼りない友達には傷ひとつない。
片方は下敷きになって、もう片方は表舞台から姿を消した。
しかし夏休みの間に一回だけ、電話越しで話すことがあったという。
最初は無事を確認したり励ましたりしたそうだが、飛躍的な流れで喧嘩になってしまった。
といっても一方的だったようだ。
宵閉詠がひたすら父親の死を嘆き、生き残ったほうに恨みをぶつけた。東凪斗に向けたモノと似たような具合に。
ふたりの仲に亀裂が入った。
所詮は二年弱の短い付き合いだ。
肉親の粘っこい鎖じみた関係性とはまるで訳が違う。
無理もない話だろう。
けれど、この少女は薄情でいたくないらしい。
仲直りがしたいと少女は言った。
だが、どうすればいいか分からないとも。
「…………」
二律背反の思考が渦巻く。
感情の裏と表が廻るように鬩ぎ合い、その反動に世界が傾いでいく。
観念も此処まで極まれば妄念も甚だしいと思う。
主体は依然コチラにある。
死人はお呼びではない。
東凪斗は、薬にも毒にもなり切らないアドバイスを授けた後、それでも駄目なら、と保険と偽って本当の目的を付け合わせた。
「五月雨虹架という少年の下を訪れてみるといい。この僕が保証する。その少年は、“人間”にかけては僕以上の専門家だから」
宵閉詠の母親も似たように、殺人鬼の卵へ足を運ばせた。
ただしそれは、もう少し後の話。
急拵えの娘とは違い、“致命的な爆弾”を抱えさせてから。
それから一週間後──。
宵閉詠は今日も元気に登校している。
クラスの友人たちと楽しく談笑し、授業にもきちんと取り組み、いつも欠かさず余裕のある笑みを浮かべていて──けれど、何処かしらが食い違っていた。
不思議にも、そういう自覚があるのは宵閉詠本人くらいのもので、周りは誰も、その事を指摘してくれない。
皆、苛つくほどに鈍感だった。
なにか、根本的な部分を植え替えられたような気がした。
まるで模様替えみたいに。
要らない家具や飾りは棄てて、まだ使えそうな物もとりあえず棄てて、新たに相応しい彩りを加えてみました……的な。
廊下を歩いていく途中、ふと、誰かとすれ違った。
振り返って見てみると、若い男の人だった。
確か、非常勤のスクールカウンセラーの先生だったと思う。
爽やかな微笑みをこれ以上ないってくらい完璧な形で貼り付けて、談話室があるほうの角を曲がっていった。
「…………………」
以前、あの人に何か特別な思いを抱きかけていた気もしたけれど、たぶん他人の空似だろう。
だって、何も思い出せないのだから。
教室に戻り、自分の席に座り、何気なくその果敢無い幕を纏ったような背中を見遣った。
そういえば、
友人が一人減った、という程度の冷めきった認識だった。
変わらない日常。
空虚に過ぎていく毎日。
満たされない要求が刻々とソラより降り注ぐ。
退屈を紛らわそうと、放課後に街へ繰り出した。
「探さないと」
誰を? 少女は首を傾げる。
何のことだか、よくわからない。
「……でも、とりあえず、探さないと」
嫌な事も良かった事もみんな綺麗に忘れ去って、宵閉詠は今日も、顔も名前も知らない人探しを続けた。
