Chapter Ⅴ 前編


 時が過ぎた。

 秋も終盤に差し掛かり、もともとは収穫祭であった事も忘れて、あるいは初めからそういう背景も知らずに、街中が仮装パーティのムードにそこはかとなく沸き立っている頃。

 東凪斗のオフィスでは、五月雨虹架の三度目の訪問を迎え入れていた。
 カウンセリングは順調に進んでおり、快復傾向にあった。

 あくまでも、体面的には、であるが──。

「先生のおかげで、以前の生活を取り繕えるようになったは良いんですが」
「不満があるみたいだね」

 五月雨虹架は、思い詰めるように頷く。

「あの日以来、退屈なんです」
「退屈。一口に言っても、退屈には大まかに二種類ある。暇を持て余していて潤いが足りないのか、普段の生活に疲れて嫌気が差し、しばらく瞳を閉じていたいのか。まあ虹架くんの場合では」
「お察しの通り、前者ですよ。なにかが欠けている、足りていない。そういう意識ばかりが脳裏を過るんです」

 五月雨虹架の自覚する通り、それは一側面として事実に違いないのだろうが、果たして本当に“前者”だけなのだろうか。

 東凪斗は、一人掛けのソファから立ち上がると、棚から『天使の像』を持ち出して、テーブルの上に置いた。

 五月雨虹架が“衝撃的な出逢い”の象徴として選んだ装飾品アンティーク

 これは自覚されていない事だが、彼が『あの日』という極めて曖昧な時系列を用いる時、殆どの場合、強烈な印象の残る出逢いがあった日の事を指す。
 東凪斗はその事を知っていたので、箱庭の関連から『天使の像』を持ち出したのだ。

「前回は子ウサギたちの話をしてくれたね。カラフルだった子ウサギの集団が、ひとりの透明人間と触れ合うことで、一般的によく知られる、白いウサギに染まってしまうという結末だった。
 今回は、この子の話をしてくれるのかな」

 五月雨虹架は、遠く眺める目で『天使の像』を見つめた。

「先生は、“人”を見たことはありますか?」
「あるよ。おそらくだけど、この世に産まれて初めて見たものが人だった。全体的に青い服装をした男性だったと、朧げながらに記憶している。まあ、医者だね」
「僕は、絵画以外で見たことがありませんでした。正確に言うと、人という姿形を現実の存在として共有できた試しがなかったんです。望ましい容貌、しなやかな軀の曲線、きめ細かい肌、それらが持つ本当の美しさを知らなかった。
 ───あの日までは」

 東凪斗は、項垂れる頭に訊ねた。

「あの日、というのはいつ頃なのだろうか」
「夏期休暇に入ってすぐの事でしたから、七月下旬です。その日は澄み切った灼熱の晴天で、大して離れてもいない先には陽炎がぐらぐらと揺らめいていて──彼女は、その中から忽然と現れたんです。
 まるで精巧を極めた人形のようでした。気配さえも、そこら辺の雑色とは違っていて……。
 腰まで届く漆黒の髪が太陽をさらりと照り返し、穢れなき肌は白雪のように美しく、鋭く開かれた奥に輝く蒼い瞳はサファイアの星のようで………」

 そこまでは熱に浮かされながら語っていた五月雨虹架だったが、東凪斗が視界に入った途端に平静さを取り戻したようで、自嘲するようにこう付け足した。

「今でも夢だったんじゃないかって疑ってます」
「前に言っていたね。穢されていたと。これは勝手な推測に過ぎないけれど、絵画などで描かれる人の姿から、君の云うところの『色彩』に堕ちてしまっていた、という事だろうか」
「………」

 沈黙は肯定だ。認め難い事実ゆえに、濁そうと口籠る。

「君は個々の『色彩』をどう記憶してるのかな。君の言によれば、一定の模様に留まらないようだけど」
「輪郭や立ち振る舞い、声質などの複合です。あとは、シルエットとか。よくあるでしょう。薄い幕に光を当てて黒い影を演出する。僕からしてみれば、余計な情報が減るぶん、特定は容易になりますが」
「すると、君が誰かの似顔絵を描こうとすれば」
「ええ、僕だけで描こうとすれば、皆が笑うところのそういう人の影になりますよ。それが一番当たり障りない」

 五月雨虹架が小さく笑い出す。

「初めの頃は戸惑ったな。みんな、地面に黒い自分を飼っていると思ってたから。実際は光による物理現象に過ぎませんでしたけど」
「……話は少々脱線したが。君は何故、人の姿から穢れてしまっていたその子を同一だと見做せたのかな?」
「だから、シルエットです。同じ形をしてるものなんて、同時に生まれない限りはないですから」

 東凪斗は、事の次第を──それこそ薄い幕越しのシルエットのように、察していた。

 答えは五月雨虹架自身が示唆したように、『天使の像』と『色彩』は別の人物だ。

 この少年の捉える現実の性質上、無から有への変遷は遂げない。
 人の姿として映った存在は、文字通り“人の姿”を模倣した怪物なのだろう。
 つまり、後に出会った『色彩』が怪物の元となった人物なのだ。

 ──依存を脱した同類……。

 東凪斗がこうして五月雨虹架との接触を続けている理由の一つは、その存在と出会い、己が血肉として取り込む為でもあった。
 その為にも、五月雨虹架にはもっと能動的に行動してもらう必要がある。

 ──もどかしい話だ。私では、おそらく見分けがつかないというのだから。

「結果として君は躓いた。他の子ウサギたちのようにはいかなかったのかな。それとも、そうしたくなかったのかな」
「……まだ、わからない。けれど、他のやつらと同じように扱いたくなかったのは、確かです」
 東凪斗は、ちらっと時計を見遣った。

「その、他のやつらと連むのは、退屈かい?」
「退屈です」

 即答した。
 強迫的、それでいて平坦な声のトーンから、おそらくはろくに意識もせずにそう答えた。

 東凪斗が睨んだ通り、本心は“後者”にあった。
 五月雨虹架は、人々の醜さに嫌気が差している。

「───なら、実験してみるといい。真っ白なキャンバスの上に、君は、色を塗れるのか」
 
 その後、魂が抜けたように『天使の像』を見つめ続ける五月雨虹架に向かって、東凪斗は何食わぬ顔で箱庭制作に移ろうかと持ち掛けた。

 救世主の復活が囁かれるようになったのは、それから三日後の事だった───。

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