Chapter Ⅴ 前編
普段の業務は何事もなく方がつき、東凪斗は帰路に着いていた。
早めの秋の到来を思わせる涼風が、耳朶を掠める。
校門を越えて、背の高い並木道を歩く。
けばけばしい夕陽が並木を照らし上げ、その影が作り出す模様は、まるで巨人を閉じ込めるための格子のようだ。
その周りを幼い道化達が走り回っては、屈託のない笑顔を咲かせている。
いわゆる放課後の夕方。
しつこく学校に居残っていた生徒も、今の今までクラブ活動に勤しんでいた生徒も、先生に用事があって仕方なく残っていた生徒も、それぞれの友人達と一緒に戯れ合いながら帰っていく。
もちろん中には一人で帰る子も存在した。
その和やかな波の中で、一際目立つシルエットが東凪斗だった。
なにしろ生徒ばかりの路で、数少ない大人だ。
目立たない方がおかしいというもの。
だから、時には走り去っていく生徒に、
「またな、東 先生」
「さようなら、東 先生」
と、別れの挨拶を投げ掛けられたり。
あるいは徒党を組んで絡みに来る生徒たちから、
「ねぇねぇ、明日は来るの?」
「どうして毎日来ないの?」
「ナギト先生、学校に来ない時は何してるの?」
「前に若い大人の女と一緒にいるとこ見たよ」
と、質問攻めにあったり。
それらを乗り越えて、最後には。
俯き加減に息を切らした小学三年生くらいの女子生徒が、仁王立ちで進路を塞いできたりもした。
「………」
物凄い勢いで走り寄ってきた足音と、そのあまりにも必死な彼女の剣幕に、彼もつい足を止めてしまった。
彼より二歩ほど離れた先にて立ち尽くす少女。
肩甲骨あたりまで伸ばされた黒い髪が、さらさらと微風に揺られ、けばけばしい夕陽を仄かに照り返す。
赤いランドセルの肩ひもを握り締めながら、今にも泣き出してしまいそうな、ただならぬ雰囲気を放っている。
周囲の視線が痛いと感じたのは、初めての経験だった。
バス停を控えたギリギリの阻止。
あと十分もしない内に市営バスが回ってくるため、バス停には待機している者が僅かながらにいた。
なにはさておき、東凪斗は、視線を合わせるために腰を屈めた。
「……えっと、どうしたのかな?」
優しく声を掛けると、少女がキッと彼を睨み上げた。
下瞼を赤く腫らして、鳶色の瞳には涙が滲んでいた。
「──…どうして?」
少女がぼそりと呟く。
そしてさらに肩ひもをきつく握り締めながら、彼に噛み付いた。
「なぎと先生は、メイちゃんを助けたんでしょ! なのにどうして、私のお父さんも助けてくれなかったの……ッ!」
一瞬、東凪斗は少女が何のことを言っているのかわからなかったが、やがて思い至った。
事故の話だ。
亡くなってしまった被害者は、確か、会社員の男だったと記憶している。
若くはあったが、この年ぐらいの子供がいてもおかしくない年齢でもあった。
「………」
掛けるべき言葉を見つけられなかった。
否、見つけられなかったもなにも、彼が少女へ掛ける言葉の全ては、火に注ぐ油に過ぎないのだ。
「返してよ! お父さんを返してよ!」
感情任せに無理難題を吹っかける。
お門違いも甚だしい。
だが当然、まだ幼い子供の言う事だと、彼は理解していた。
偶然の死亡事故に責められる相手はいない。
そこで女の子の命を救い、その上で奇跡的な生還を果たした大人がいるとなれば、それが意外にも身近な相手ともなれば、“引き換え”を求めたがってしまうのも已む無いことだ。
誰がこの子を責められるだろう。
そして、咎めてやれる親もこの場にはいなかった。
それゆえに、少女自らが彼の前から走り去る事で事態が収まってしまうのも、必然だったと言えよう。
とてもアンバラスなシルエットが日陰の内に遠退いていく。
少女が走り去っていった反対の方向──小学校のある方角から、入れ替わるようにバスがやってきた。
バス停で待機していた者たちは、居た堪れない気持ちにでもなっていたのか、これ幸いと足早にバスへ乗り込んでいった。
これを逃したら三十分の遅れが生じるので、彼もバスに乗り込んだ。
なんで乗ってこれるんだよ、と責めるような一部の乗客たちの視線は気にもならない。
それくらいの事で予定を変えていてはまともに生きていけないだろう。
そんなことを考えながら、空いている席を探した。
東凪斗は、なんとなく、気分で歩道側の一番後ろの座席に座った。
これはなんてことのないジンクスなのだが、気分で行動すると決まって知り合いと出会う。
「───さっきは災難でしたね」
「君は……皐 くん、でいいのかな」
「妥当でしょう」
バスが発車する。
過ぎゆく窓の景色を眺めながら訊ねる。
「バス通学?」
「いえ、これから塾なんです」
「そうかい。それは親に薦められて?」
「自分の意思です。そうするのが自然と思ったので」
「立派な事だ。きっと君の両親は喜んだろうね。自ずから知識を学ぼうとするなんて将来有望の証なのだから」
車窓の外に、目を擦りながら歩く少女の姿があった。
それも他の景色と同様、平等にあっさりと過ぎてゆく。
「宵閉 詠 」
暁月皐がごく当然のことのように少女の名前を告げた。
「それがあの子の名前か。なんで知っているのかな?」
「妹のたった一人の友達なんです。それも事故で亀裂が入りましたが」
「厭な偶然が続くね」
「底意地が悪いんでしょう」
「創造主のかい?」
「誰でもありませんよ。比喩に過ぎませんから。
だから強いて挙げるとしたら、構造自体になんらかの偏りがあるんでしょうね」
「構造…か」
欠点ではなく、偏りがある──。
暁月皐が敢えて底意地が悪いと表現したのはそのためだろう。
不覚だが、それは間違いないだろう、と東凪斗はこの少年の価値観に同意した。
あの哀れな女との出会いを加味すれば、確かに偏りがあると思わざるを得ない。
世間が狭いとはよく云った。
「詠ちゃんのこと、どうする気なんですか?」
「君には関係のないことだろう」
「………」
東凪斗は、くつくつと喉を鳴らした。
「君を少々見誤っていたかもしれない。子供らしいところもあるんだね」
「たかが数分の交流で俺の底を知ったつもりでいられても困りますよ、例え先生が心理学を修めた方であっても」
「そうかい。
……宵閉詠ちゃんのことだけど」
バスの進行に揺られる手摺や乗客の頭部を眺める。
相変わらず、差し込む夕陽は絢爛に眩しい。
「───あの子は放っておく」
「……冷たいんですね」
「暖かいさ。暖かく見守る事にするんだよ。
僕とあの子では、水と油の関係に近い。
僕の言動は全て焚き火に焼べられて、僕が優しく接すれば接するほどに、あの子は苦しむだろう。
うっかり転移して、亡き父親を重ね出したら、それこそ本末転倒だ」
代償行為に依存を孕んだ先は、おおよそ破滅が待っている。
「君も、あの子にそうなって欲しくはないだろう?」
「そうですね。愚問でした」
会話は一旦そこで打ち止めとなった。
東凪斗は、窓を眺める。
ぼんやりと、何も考えず、脳を休めるように。
いつの間にか、植樹よりも建物の背の高さが目立ち始め、その陰に入る頻度も時間も増えて、景色は窮屈になっていた。
二度目の赤信号に当たったとき、東凪斗が口を開いた。
「これは素朴な疑問なんだけど、別に答えてもらわなくとも構わない」
「なんでしょう?」
「君は、何を“視”て生きている?」
暁月皐は迷わず答えた。
「視てはいません。俺の内にあるのは確信だけです。きっとこうなるだろうという」
「だから、君はいつも退屈なんだね」
初めてこの時、少年が声にして笑った。
先生の言う通りです、と。
☆
早めの秋の到来を思わせる涼風が、耳朶を掠める。
校門を越えて、背の高い並木道を歩く。
けばけばしい夕陽が並木を照らし上げ、その影が作り出す模様は、まるで巨人を閉じ込めるための格子のようだ。
その周りを幼い道化達が走り回っては、屈託のない笑顔を咲かせている。
いわゆる放課後の夕方。
しつこく学校に居残っていた生徒も、今の今までクラブ活動に勤しんでいた生徒も、先生に用事があって仕方なく残っていた生徒も、それぞれの友人達と一緒に戯れ合いながら帰っていく。
もちろん中には一人で帰る子も存在した。
その和やかな波の中で、一際目立つシルエットが東凪斗だった。
なにしろ生徒ばかりの路で、数少ない大人だ。
目立たない方がおかしいというもの。
だから、時には走り去っていく生徒に、
「またな、
「さようなら、
と、別れの挨拶を投げ掛けられたり。
あるいは徒党を組んで絡みに来る生徒たちから、
「ねぇねぇ、明日は来るの?」
「どうして毎日来ないの?」
「ナギト先生、学校に来ない時は何してるの?」
「前に若い大人の女と一緒にいるとこ見たよ」
と、質問攻めにあったり。
それらを乗り越えて、最後には。
俯き加減に息を切らした小学三年生くらいの女子生徒が、仁王立ちで進路を塞いできたりもした。
「………」
物凄い勢いで走り寄ってきた足音と、そのあまりにも必死な彼女の剣幕に、彼もつい足を止めてしまった。
彼より二歩ほど離れた先にて立ち尽くす少女。
肩甲骨あたりまで伸ばされた黒い髪が、さらさらと微風に揺られ、けばけばしい夕陽を仄かに照り返す。
赤いランドセルの肩ひもを握り締めながら、今にも泣き出してしまいそうな、ただならぬ雰囲気を放っている。
周囲の視線が痛いと感じたのは、初めての経験だった。
バス停を控えたギリギリの阻止。
あと十分もしない内に市営バスが回ってくるため、バス停には待機している者が僅かながらにいた。
なにはさておき、東凪斗は、視線を合わせるために腰を屈めた。
「……えっと、どうしたのかな?」
優しく声を掛けると、少女がキッと彼を睨み上げた。
下瞼を赤く腫らして、鳶色の瞳には涙が滲んでいた。
「──…どうして?」
少女がぼそりと呟く。
そしてさらに肩ひもをきつく握り締めながら、彼に噛み付いた。
「なぎと先生は、メイちゃんを助けたんでしょ! なのにどうして、私のお父さんも助けてくれなかったの……ッ!」
一瞬、東凪斗は少女が何のことを言っているのかわからなかったが、やがて思い至った。
事故の話だ。
亡くなってしまった被害者は、確か、会社員の男だったと記憶している。
若くはあったが、この年ぐらいの子供がいてもおかしくない年齢でもあった。
「………」
掛けるべき言葉を見つけられなかった。
否、見つけられなかったもなにも、彼が少女へ掛ける言葉の全ては、火に注ぐ油に過ぎないのだ。
「返してよ! お父さんを返してよ!」
感情任せに無理難題を吹っかける。
お門違いも甚だしい。
だが当然、まだ幼い子供の言う事だと、彼は理解していた。
偶然の死亡事故に責められる相手はいない。
そこで女の子の命を救い、その上で奇跡的な生還を果たした大人がいるとなれば、それが意外にも身近な相手ともなれば、“引き換え”を求めたがってしまうのも已む無いことだ。
誰がこの子を責められるだろう。
そして、咎めてやれる親もこの場にはいなかった。
それゆえに、少女自らが彼の前から走り去る事で事態が収まってしまうのも、必然だったと言えよう。
とてもアンバラスなシルエットが日陰の内に遠退いていく。
少女が走り去っていった反対の方向──小学校のある方角から、入れ替わるようにバスがやってきた。
バス停で待機していた者たちは、居た堪れない気持ちにでもなっていたのか、これ幸いと足早にバスへ乗り込んでいった。
これを逃したら三十分の遅れが生じるので、彼もバスに乗り込んだ。
なんで乗ってこれるんだよ、と責めるような一部の乗客たちの視線は気にもならない。
それくらいの事で予定を変えていてはまともに生きていけないだろう。
そんなことを考えながら、空いている席を探した。
東凪斗は、なんとなく、気分で歩道側の一番後ろの座席に座った。
これはなんてことのないジンクスなのだが、気分で行動すると決まって知り合いと出会う。
「───さっきは災難でしたね」
「君は……
「妥当でしょう」
バスが発車する。
過ぎゆく窓の景色を眺めながら訊ねる。
「バス通学?」
「いえ、これから塾なんです」
「そうかい。それは親に薦められて?」
「自分の意思です。そうするのが自然と思ったので」
「立派な事だ。きっと君の両親は喜んだろうね。自ずから知識を学ぼうとするなんて将来有望の証なのだから」
車窓の外に、目を擦りながら歩く少女の姿があった。
それも他の景色と同様、平等にあっさりと過ぎてゆく。
「
暁月皐がごく当然のことのように少女の名前を告げた。
「それがあの子の名前か。なんで知っているのかな?」
「妹のたった一人の友達なんです。それも事故で亀裂が入りましたが」
「厭な偶然が続くね」
「底意地が悪いんでしょう」
「創造主のかい?」
「誰でもありませんよ。比喩に過ぎませんから。
だから強いて挙げるとしたら、構造自体になんらかの偏りがあるんでしょうね」
「構造…か」
欠点ではなく、偏りがある──。
暁月皐が敢えて底意地が悪いと表現したのはそのためだろう。
不覚だが、それは間違いないだろう、と東凪斗はこの少年の価値観に同意した。
あの哀れな女との出会いを加味すれば、確かに偏りがあると思わざるを得ない。
世間が狭いとはよく云った。
「詠ちゃんのこと、どうする気なんですか?」
「君には関係のないことだろう」
「………」
東凪斗は、くつくつと喉を鳴らした。
「君を少々見誤っていたかもしれない。子供らしいところもあるんだね」
「たかが数分の交流で俺の底を知ったつもりでいられても困りますよ、例え先生が心理学を修めた方であっても」
「そうかい。
……宵閉詠ちゃんのことだけど」
バスの進行に揺られる手摺や乗客の頭部を眺める。
相変わらず、差し込む夕陽は絢爛に眩しい。
「───あの子は放っておく」
「……冷たいんですね」
「暖かいさ。暖かく見守る事にするんだよ。
僕とあの子では、水と油の関係に近い。
僕の言動は全て焚き火に焼べられて、僕が優しく接すれば接するほどに、あの子は苦しむだろう。
うっかり転移して、亡き父親を重ね出したら、それこそ本末転倒だ」
代償行為に依存を孕んだ先は、おおよそ破滅が待っている。
「君も、あの子にそうなって欲しくはないだろう?」
「そうですね。愚問でした」
会話は一旦そこで打ち止めとなった。
東凪斗は、窓を眺める。
ぼんやりと、何も考えず、脳を休めるように。
いつの間にか、植樹よりも建物の背の高さが目立ち始め、その陰に入る頻度も時間も増えて、景色は窮屈になっていた。
二度目の赤信号に当たったとき、東凪斗が口を開いた。
「これは素朴な疑問なんだけど、別に答えてもらわなくとも構わない」
「なんでしょう?」
「君は、何を“視”て生きている?」
暁月皐は迷わず答えた。
「視てはいません。俺の内にあるのは確信だけです。きっとこうなるだろうという」
「だから、君はいつも退屈なんだね」
初めてこの時、少年が声にして笑った。
先生の言う通りです、と。
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