Chapter Ⅴ 前編
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五月雨虹架とのカウンセリングから月日が経って九月上旬のある日。
非常勤講師として在籍している市内の小学校より、電話が掛かってきた。
察するに査定が主な普段の業務とは打って変わって、今回は急を要する相談と思われた。
電話に出てみると、案の定、相談したい事があるという。
そのついでに別件として、ちらっと生徒達に対する講話の話題も上がってきた。
詳しい話は直接願いたいとの事なので、翌日、東凪斗はその小学校へと足を運ぶことにした。
「不登校の生徒がいまして……」
常に気難しい顔の教頭が、今日はさらに眉間に皺を寄せて最初の用件を話し始めた。
不登校の生徒。
東凪斗はそれを聞いて、まあそんな事だろうと内心頷いた。
「原因は? いじめですか?」
「それが、その……」
教頭が気まずそうに言葉を濁す。
「辛い記憶を蒸し返すようで大変心苦しく思うのですが、東先生はなんでも、七月の下旬頃に事故に遭ったと聞いております」
「はい。確か、僕のほうから連絡を入れましたね」
「そうでしたね。遅れてしまいましたが、ご無事でなによりです」
教頭が話の流れのままに礼をしてきたので、東凪斗もそれに倣って会釈を返した。
「そしてその事故の際、ひとりの女の子を助けたとも」
その事に関してはわざわざ説明した記憶がないので、おそらくニュースなどから得た情報だろう。
「その女の子が、偶然にもうちの校の児童でして。事故以来、部屋に閉じこもって出てこないそうなのです」
「それはまた……」
「承知しております。対応が難しく、その上とても稀なケースが重なってしまっていることは。しかし私どもには、
どうかよろしくお願いします、と今度は深く頭を下げられる。
その場限りの命だけではなく、心までも救ってほしいという要請だった。
つまるところ、関わってしまったからには、面倒は最後まで見ろという事だろうか。
「………」
──ツケが回ってきた、とでも云うのか。
仕事は仕事である。
スクールカウンセラーという職としてこの学校に勤めている以上は、相応に果たさなければならない責任がある。
何もそこまで願わずともいいだろうに、と固く乾燥した水雲じみた教頭の髪の毛を眺めながら、東凪斗は微笑んで応えた。
「できる限りの事はしましょう」
気前良さげに請け負ったはいいが、結局、不登校の生徒──彼が体を張って命を救った女の子と再会する事はなかった。
仕事を果たせなかった、というのはそうなのだが、唐突にその必要がなくなったのである。
端的に云えば、身内による依頼のキャンセルだった。
経緯はこうである。
教頭の──ひいては学年単位の相談事を済ませ応接室を出ると、一人の少年とすれ違った。
周囲から人の気配がなくなる頃合いを計っていたのだろう。
すれ違って、それからしばらく廊下を進んだ後に、背後から声を掛けられた。
「あなたが、東凪斗先生ですか?」
どこか仰々しい呼ばれ方に、東凪斗は振り返る。
そこに立っていたのは、もちろん先程すれ違った高学年の男子生徒だった。
「君は?」
「
そう名乗った少年は、作りものめいて無表情だった。
子供らしく無邪気に笑う姿が想像できない。
しかしそれでいて、彼から受ける印象に危うい幼さはなかった。
無感情さは意図的な産物。
つまらない意地や反抗から生じる態度ではなく、論理や合理性を求めた結果なのだろう。
その歳でありながら堂に入った佇まいで、目線は真っ直ぐ彼のことを捉えていた。
「妹……、暁月。ああ、君があの子のお兄さん?」
「そうです。妹の命を救っていただき、ありがとうございました」
「これはご丁寧にどうも。しかし驚いたね。君とは初対面のはずなんだけど、顔はまあいいとして──名前まで覚えられていたとは」
「妹の命の恩人を記憶しておくのは当然のことです。それに、先生は有名ですから」
「そうかい。───せっかくの縁だ。
軽い世間話として、参考程度に僕がどう有名なのか教えてもらってもいいかな?」
「あくまで校内に限った話です。最近だと、事故の美談で持ち切りですから」
「……うん、ありがとう。参考になったよ」
「じゃあ、俺はこれで」
さっさと立ち去ろうとする暁月皐の背を、東凪斗は慌てた風に引き止めた。
「ああ、待って。まだ君に聞きたい事があるんだけど、いいかな?」
「なんでしょう?」
「君の妹さんの不登校の件でね。親御さんへの連絡はこれからなんだけど、近々、早くて今日の放課後あたりに家庭訪問の予定なんだ。
それでまあ、君の妹さんの様子を聞いておきたいなって。いわゆる事前調査になるね」
「ああ──」
暁月皐は、一度大きく頷いて、彼の瞳を見返した。
「そのことなら大丈夫ですよ」
「───大丈夫?」
「はい。妹も明日には登校します。以降は、風邪以外の理由で休むこともありません」
事もなげに言い切った。
純真とも不気味とも取れる確信を持って。
「………」
だが、その異様な早熟ぶりも、どうしてそう言い切れるのかと云う根拠も、追求しなかった。
退屈な相手に多く時間を割いてやるほど、東凪斗は博愛主義でもなかったからだ。
東凪斗は、うん、と明るく軽い調子でそれが演技であることを隠そうともせず頷いてから、別れを告げる。
「君がそう言い切るって事は、そうなんだろうね。悪いね、引き止めてしまって」
「いえ、それじゃ」
完璧に調整された立ち振る舞い。
欠点らしい欠点の見当たらない子供。
まるで、自分の末路さえも悟っているかのような達観性。
最近の子供は手強いな、と旧い性格が笑おうとして、表情が凍りついている事に気がつく。
特別珍しくもない変異種だ、と廊下の奥へ去りゆく少年に背を向けて、中途半端な
「楽に越した事はない。期せずしてひとつの目的が果たされたのだから、私は喜ぶべきだろうに。まったく、好奇心で以前の性格を繕うべきではなかったな」
五月雨虹架と接する上で、以前の性格は有用だった。
学校における職務を全うする上でも、その事は変わらない。
不特定多数の人々に警戒されにくい性格を、二十年の歳月を費やして構築してきた男。
その痕跡は、しっかり現在の東凪斗にも根付いている。
定着してしまって、もはや並大抵の暗示では剥がせない。
「暁月、冥……。一月以上が経ち、それでも気掛かりとは、とんだ偽善だ」
一目見た時から、東凪斗は直観していた。
この娘と自分は、似た者同士である、と。
心象風景は渇き切った荒野。
一歩先に底無しの溝がある。
それは他人との距離であったり生の実感であったり現実への関心であったり、いずれにしても、その溝は一生埋まることなく拡がっていく。
永遠の命を得て藻搔こうとも、満ち足りる日は来ないだろう。
溝を越えた先は光の膜で覆われていて、触れることも見通すこともできぬまま、命を終えるのだ。
そしてあの少女──暁月冥は、溝に橋を架けるのではなく飛び越えようとして、無垢にも人のいない高台を目指した。
諦めきれなかった結果、持て余し気味の衝動が背中を押したのだろう。
突風が吹いた。
彼女が手に掛けて登ろうとした高台は、無様にもがらがらと大きな音を立てて崩れていく。
その様子を、彼はすぐ近くで見上げていた。
だが、命を懸けてまで掬い上げるほどの同情ではなかったことは確かだ。
それでも、無我夢中になって命を差し出した。
彼女への同情とは別に、あの頃の東凪斗は心地良く死ねる瞬間とやらに出会いたがっていた。取るに足らないこの命で誰かを救えるというのなら、きっとそこに後悔はないと。
もっともらしい理由を差し置いて、太陽のような確信だけを胸に抱いたのだ。
だから、重要なのはその一点だけであって、暁月冥には同情以上の感慨はないはずだった。
けれど。
「知らなかった。こういう影響も、あるのか」
想定の外を往く兆しに、彼は惑う。
少女を救おうとした観念は、今も胸の裡に。
───ふと、廊下の窓にうつる自分の顔が目に付いた。
そこで応接室における教頭の何気ない一言が、ルフランのように思い起こされた。
『今日話してみて漠然と思ったことなので、具体的に“どう”とは言えないんですが。東先生、雰囲気変わられましたね』
