Chapter Ⅴ 前編
自動ドアが客人を招き入れる。
件の親子が予約の時間通り、五階のオフィスまで上がってきた。
「予約していた五月雨 です。本日はよろしくお願い致します」
純白のレディーススーツを着た外見年齢四十代前半ほどの女性が、美しく上品な物腰で一礼した。
五月雨、というあまりにも馴染みのない苗字に東凪斗は軽く眩暈を覚えたが、先方に不審に思われないようけろりとやり過ごした。
母親の斜め後方にいる中学生の息子にも気取られないように。
どうにも、世の中は厭な偶然性で満ち溢れているようだ。
「ええ、どうも」
東凪斗は人好きのしそうな笑みを浮かべながら、受付カウンターの上に書類とペンを取り出して義務的に話す。
「まずはこちらの申込書に記入をお願いします」
五月雨氏が申込書にすらすらと必要事項を書き込んでいく。
その間に、東凪斗はその息子を横目に観察する。
推定──五月雨虹架は、心ここに在らずといった風体で佇んでいる。
茫然と東凪斗の背後の壁を見つめて、まるで命令を与えられていない機械のように直立不動だった。
見覚えのある私立中学校の制服を着ている。
時期的にどこの学校もまだ夏休み期間であるが、初回ということもあり、無難な格好として着てきたのだろう。
そして母親から差し出された申込書を確認し、推定は確定に為った。
相談者は噂の救世主本人だった。
だが、とうの彼に噂で囁かれるような救世主然としたオーラは微塵も感じられない。
今の彼は、道端で燻っている思春期の子供と相違なく映った。
そこで、東凪斗は思う。
それこそが、母親の悩みに繋がるのだろうと。
今日ここに訪れたのもありきたりな相談のためであり、申込書の相談内容に関する欄の記述を要約すればこういうことになる。
『最近、息子の様子がおかしいんです。どうか、話を聞いてあげてください』
それから東凪斗はカウンセリングに至るまでの必要事項の説明とあらましの確認作業を終え、五月雨虹架をカウンセリング部屋に案内した。
本人の希望により母親には別室に待機してもらっており、現在、部屋には二人きりであった。
東凪斗が手順に則ってカウンセリングに関する事細かな説明をしている時、五月雨虹架は聞いているのか聞いていないのか判然としない様子でじっと俯いていた。
不必要な情報を目に入れたくない為にそうしているようだった。
自己紹介などの諸々も済ませ、入室してから五分後のこと。
五月雨虹架が、おもむろに口を開いた。
「先生は、なんだか不思議な色彩をしていますね。まるで乾きかけの油絵みたい」
「色彩……?」
東凪斗は惚ける。
曖昧模糊とした話以上の情報を持っていないため、初めから彼の事を何も知らない体で向き合う事にしたようだ。
五月雨虹架は、俯いたまま話を続ける。
「仄かな色彩──主に黄色や水色、後はなんだか暗いな、紺色だったり紅色だったりの薄い膜をシワがないよう綺麗に張って、その奥のギトギトの油のような濃い色彩を覆い隠している。
だからかな、サカナたちは身動きが取れずにいる。記憶はどれも堅い宝石めいて、内側から破裂するように飛散する。
どうでしょう。
思い当たる節はありますか?」
「………」
「わかってます。そのまま告げたって通じない事は……。
これは知り合った人たち全員に訴えてきた事なんですけど、僕には、人がそういう型に嵌められた色彩に映るんですよ。
生まれた時からずっとそうなんです。
だから大丈夫ですよ、隠さなくても。先生は僕のことを知っている。それもある噂の主役として」
五月雨虹架は、不意に脳の隅から湧く滑稽を噴き出すように微笑んだ。
「本当に不思議だ。以前は僕に相談したい事があった様子ですが、今はそうでもないみたい。まるっきり消え失せている。
けど、僕にとっては好都合です。
もう一ヵ月も前から、その手のボランティアは廃止しましたから」
「そうした理由が、君の負った傷によるものなのかな」
「傷──。どうでしょう。確かにアレは事故みたいなものでしたけど、傷とは思いたくない。他に例えていうなら、課題だったり試練が適当かもしれません」
「課題や試練か。なら君にとってそれは、乗り越えなければならない対象なのかい?」
「きっとそうです。あれは、僕にしか捉えられない『美』だった。それが──ああ、どちらも偶然と成り行きの上でしたけど、穢されてしまったのを知って、僕は躓いた。躓いたまま、ここまで来てしまった」
「躓いた。それは身動きが取れなくなってしまったのか、それとも立ち上がれなくなってしまったのか」
「両方ですよ、きっと。どうすればいいのか、途端にわからなくなった。そして、何をしたいのかさえも」
「………」
受け答えは十分に可能。
しかしそれは、母親が憂いた如く、実生活上では発揮されなかった。
彼の発言に自己完結している箇所が多々見られるところからも、その憂いが手に取るように理解できる。
受付前におけるような茫然とした風体から声が聴こえてきたと思えば、それは取り止めのない独り言に過ぎず。
彼は東凪斗という存在を通すことで、再度自己分析を試みている最中なのだろう。
達観している。
下手な大人よりも冷静に事を見定められていて、何処の誰も知らない世界に放り出されている現実さえも平然と受け入れて、その上で五月雨虹架というパーソナリティは善良に育っている。
──この子は、まだ発展途上だ。
これ以上の接触を持つのは想定を超えるリスクを伴う可能性があるが、それ以上に興味深く面白い。
羽ばたく寸前の雛の可能性に、魅入られてしまった。
──悪魔にも聖者にも傾く未熟。すぐ手放すのは、惜しい。
なにより。
運命を感じた。
あの日出会えなかったのは、今日この日に出会うためだったのだと。
多少の不都合には目を瞑ってもいいと無条件に思えるほどの必然性を前にして、らしくもなく感激していた。
それが命取りになる事も知らずに……。
そうして、東凪斗はあくまでも業務的な優しさに声を掛けた。
「───君は、箱庭療法って知ってるかな?」
「……知りませんね」
この部屋に入ってここで初めて、五月雨虹架は面を上げた。
彼の瞳は徐々に現実へピントを合わせつつある。
東凪斗は相手の性格──今回の場合は五月雨虹架に合わせて言葉を選びながら、箱庭療法について説明する。
「その療法の要点を最初に告げると、自分の無意識に触れる事──すなわち自己の理解にある」
「自分の、無意識……」
「そう、欲求や本能などを包含するといわれている領域だ。
四方を囲まれた砂場がある。
大きさは、おそらく君が普段学校で使っている机ほどだろうね。
その中に現実の偶像や模造を、深く考え込んでもいいし、直感任せでも構わない──君の思った通りに配置していく。それは人であったり植物であったり動物であったり建物であったり、色彩豊かなミニチュアだ。
必要と感じたのなら、ときに砂場の地形を整えてもいい」
そこまで話したところで、東凪斗は立ち上がる。
「論を経て、次は実践と行こうか」
五月雨虹架の目の前には、『箱庭』がある。
それは確かに、東凪斗が事前に説明した通りの──それを聞いて五月雨虹架が想像したものとほぼ変わりない大きさの箱だった。
しかし箱といってもダンボールのような底の深い物ではなく、お土産のクッキー系の菓子が入っていた箱みたいだ。
底の浅い箱の中には均された砂場があり、壁は空と同じ色をしている。
たぶん、砂の奥に隠れた箱の底も同じく、水面を彷彿とさせる色合いなのだろう。
そばには横に広い棚が置かれていて、中にたくさんのミニチュアが、まるで子供が頑張って片付けたかのような様相で飾られてあった。
その中身に関して、これも東凪斗が語ってくれた通りだ。
表現に窮しない程度には一通り揃えてある。
五月雨虹架は、あらためて『箱庭』に目線を下ろした。
この中に、自分を表現するらしい。
……ただの一度も、自己画像さえまともに描けた事のない自分が。
「君のお母さんから──」
東凪斗がそこへ、禁忌に手を染めるように口を挟む。
「僕はこんなことを聞いた。君は昔、鏡の前で泣きじゃくったことがあるそうだね」
「……はい」
「だとしたら、君はおそらく勘違いをしている」
「なにを?」
「今の君を形作っているのは鏡などではなく、記憶だ」
「────」
五月雨虹架にとってその言葉は、心臓を突き刺すナイフのようだった。
不意を打つわざとらしさもなく、明るいところで、真正面から、いっとき彼は殺された。
無造作に殺されながら、自然と息を吹き返した。
とても形容し難い臨死体験だった。
『鏡』の中に閉じ込められていた自分が『箱庭』の中に解き放たれようとしている、そんな、とある異界の国に迷い込んだ少女のような心弾む予感があった。
色彩を視る。
本当に不思議で堪らない。
癒着寸前の薄い膜は鮮やかな人の形を取っている。
その内に、ドロドロに融けた別の人が収まっている。
孵化を心待ちにする毒々しい雛鳥のようだ。
そんな人だからこそ、いとも容易く人を生まれ返すことができるのかもしれない。
五月雨虹架は──少年は、まず自分の手を砂に埋没させた。
今よりもっと幼い頃の原動が胸をくすぐる。
どうしてやろうか、と古今の記憶に幼稚な企みをかぶせる。
そして、棚のミニチュア達へと視線を遣った。
窓に映る外の景色は仄暗い。
太陽の抑圧を逃れ、地上を闇に染めんと大掛かりな暗幕が地平線の彼方まで拡がりつつある。
ここは遠くの山々に挟まれた盆地。
周辺は一足先に闇に没している。
向かいのビルに明かりはなく、下の方を覗き込もうとしない限り、街が寝静まったように錯覚されるだろう。
「………」
五月雨虹架との一回目のカウンセリングが終わり、部屋には東凪斗一人だった。
次回のカウンセリングは一ヶ月後。
ここへ訪れる前よりも幾分か良くなった息子の様子に機嫌を良くした母親が『今後とも、どうかよろしくお願いします』と頭を下げて、その息子共々ビルを出て行った。
それが二十分近く前の事になる。
あらかじめ診療には通常数回のカウンセリングを要すると母親にも五月雨虹架にも告げてあったので、あの母親だったらとりあえず様子見でしばらくは連れて来るだろうし、あと三回ほど面談をすれば全貌も把握できるだろう。
なにより相場は他よりも少し安めに設定してある。
それと今回の成果を秤に乗せて慮れば、信頼関係はすでに築けていると考えていい。
接触の機会に対する憂慮はいらない。
だから今は、“それ”の解釈に集中する。
彼の視線は、五月雨虹架の制作した『箱庭』に向けられている。
全体の雰囲気からは、要領の良さが窺えた。
『箱庭』の左上。
小高い丘の上に祈りの姿勢をとった天使の像が置かれ、そこに至るまでの道は木々に遮られており、その麓には二つの小さな跡だけがある。
おそらくは足跡──透明人間の類だろうか。
「出逢いがあった。しかし、手を伸ばすには様々な障害があり、その存在を見つめるだけに留まった」
次いで右上。
小高い丘を作った際に広がった水色の穴。
そこは湖として象徴され、その畔ではウサギたちが湖の上に浮かぶ小舟を眺めている。
もしくは、彼らは水を飲んでいるとも捉えられる。
「舟の上には誰も乗っていない。これも透明人間か? ウサギ供の手はソイツを拝んでいるようでさえある」
追って右下。
湖より流れる川が、二回のカーブを経て、下半分の空間に均等な境界を敷くようだ。
すると、右下の余った空間がレッグ部分の細い靴下のように見える。
そして『箱庭』の中心部に向かって橋を渡し、動線は柵や樹木で舗装されており、隅っこには主な物として美術館と病院が置かれている。
「自己の表現と癒し。現状の最優先───望むのは共同体内への復帰と見るべきか。あるいは二通りの選択を前にした葛藤か」
続いて左下。
棒立ちの子供のそばに何も描かれていないキャンバスが放って置かれている。
状況を鑑みて泣いているかと思われたが、子供の表情は曇りのない笑顔だ。
当然棚には泣き顔の子供のフィギュアも揃えてあるので、意図的な選択だろう。
そして種々の動物たち──例えば蛇や猫、狼などがその子供を遠巻きに見守っているようだ。
「これは単純に回想だろう。トラウマかコンプレックスかは、まだ判断に迷うところだが。
しかし左下から右上への直線を成長の軌跡として捉えると、なかなかに面白くはある。母体への回帰思想に行き着くか」
最後にもう一度『箱庭』の全体を眺めて、
「……中心には誰もいない、か」
一人分の足跡だけが、やはり左上を向いているように思えた。
小高い丘を見つめる。
それとの出逢いは、果たして壁の高さを超えてしまうほどの衝撃と障害を五月雨虹架に覚えさせたとでもいうのだろうか。
純粋であり醜悪であり歪であり型である──万人の色彩を看破し、そうありながらも善良さを保つ、あの超越した少年の精神を狂わせてしまうほどに。
そうして東凪斗は、『箱庭』から天使の像を眼前まで摘み取って、こう問いかけた。
「お前は何者なんだ?」
もちろん、答える者など在りはしない。
件の親子が予約の時間通り、五階のオフィスまで上がってきた。
「予約していた
純白のレディーススーツを着た外見年齢四十代前半ほどの女性が、美しく上品な物腰で一礼した。
五月雨、というあまりにも馴染みのない苗字に東凪斗は軽く眩暈を覚えたが、先方に不審に思われないようけろりとやり過ごした。
母親の斜め後方にいる中学生の息子にも気取られないように。
どうにも、世の中は厭な偶然性で満ち溢れているようだ。
「ええ、どうも」
東凪斗は人好きのしそうな笑みを浮かべながら、受付カウンターの上に書類とペンを取り出して義務的に話す。
「まずはこちらの申込書に記入をお願いします」
五月雨氏が申込書にすらすらと必要事項を書き込んでいく。
その間に、東凪斗はその息子を横目に観察する。
推定──五月雨虹架は、心ここに在らずといった風体で佇んでいる。
茫然と東凪斗の背後の壁を見つめて、まるで命令を与えられていない機械のように直立不動だった。
見覚えのある私立中学校の制服を着ている。
時期的にどこの学校もまだ夏休み期間であるが、初回ということもあり、無難な格好として着てきたのだろう。
そして母親から差し出された申込書を確認し、推定は確定に為った。
相談者は噂の救世主本人だった。
だが、とうの彼に噂で囁かれるような救世主然としたオーラは微塵も感じられない。
今の彼は、道端で燻っている思春期の子供と相違なく映った。
そこで、東凪斗は思う。
それこそが、母親の悩みに繋がるのだろうと。
今日ここに訪れたのもありきたりな相談のためであり、申込書の相談内容に関する欄の記述を要約すればこういうことになる。
『最近、息子の様子がおかしいんです。どうか、話を聞いてあげてください』
それから東凪斗はカウンセリングに至るまでの必要事項の説明とあらましの確認作業を終え、五月雨虹架をカウンセリング部屋に案内した。
本人の希望により母親には別室に待機してもらっており、現在、部屋には二人きりであった。
東凪斗が手順に則ってカウンセリングに関する事細かな説明をしている時、五月雨虹架は聞いているのか聞いていないのか判然としない様子でじっと俯いていた。
不必要な情報を目に入れたくない為にそうしているようだった。
自己紹介などの諸々も済ませ、入室してから五分後のこと。
五月雨虹架が、おもむろに口を開いた。
「先生は、なんだか不思議な色彩をしていますね。まるで乾きかけの油絵みたい」
「色彩……?」
東凪斗は惚ける。
曖昧模糊とした話以上の情報を持っていないため、初めから彼の事を何も知らない体で向き合う事にしたようだ。
五月雨虹架は、俯いたまま話を続ける。
「仄かな色彩──主に黄色や水色、後はなんだか暗いな、紺色だったり紅色だったりの薄い膜をシワがないよう綺麗に張って、その奥のギトギトの油のような濃い色彩を覆い隠している。
だからかな、サカナたちは身動きが取れずにいる。記憶はどれも堅い宝石めいて、内側から破裂するように飛散する。
どうでしょう。
思い当たる節はありますか?」
「………」
「わかってます。そのまま告げたって通じない事は……。
これは知り合った人たち全員に訴えてきた事なんですけど、僕には、人がそういう型に嵌められた色彩に映るんですよ。
生まれた時からずっとそうなんです。
だから大丈夫ですよ、隠さなくても。先生は僕のことを知っている。それもある噂の主役として」
五月雨虹架は、不意に脳の隅から湧く滑稽を噴き出すように微笑んだ。
「本当に不思議だ。以前は僕に相談したい事があった様子ですが、今はそうでもないみたい。まるっきり消え失せている。
けど、僕にとっては好都合です。
もう一ヵ月も前から、その手のボランティアは廃止しましたから」
「そうした理由が、君の負った傷によるものなのかな」
「傷──。どうでしょう。確かにアレは事故みたいなものでしたけど、傷とは思いたくない。他に例えていうなら、課題だったり試練が適当かもしれません」
「課題や試練か。なら君にとってそれは、乗り越えなければならない対象なのかい?」
「きっとそうです。あれは、僕にしか捉えられない『美』だった。それが──ああ、どちらも偶然と成り行きの上でしたけど、穢されてしまったのを知って、僕は躓いた。躓いたまま、ここまで来てしまった」
「躓いた。それは身動きが取れなくなってしまったのか、それとも立ち上がれなくなってしまったのか」
「両方ですよ、きっと。どうすればいいのか、途端にわからなくなった。そして、何をしたいのかさえも」
「………」
受け答えは十分に可能。
しかしそれは、母親が憂いた如く、実生活上では発揮されなかった。
彼の発言に自己完結している箇所が多々見られるところからも、その憂いが手に取るように理解できる。
受付前におけるような茫然とした風体から声が聴こえてきたと思えば、それは取り止めのない独り言に過ぎず。
彼は東凪斗という存在を通すことで、再度自己分析を試みている最中なのだろう。
達観している。
下手な大人よりも冷静に事を見定められていて、何処の誰も知らない世界に放り出されている現実さえも平然と受け入れて、その上で五月雨虹架というパーソナリティは善良に育っている。
──この子は、まだ発展途上だ。
これ以上の接触を持つのは想定を超えるリスクを伴う可能性があるが、それ以上に興味深く面白い。
羽ばたく寸前の雛の可能性に、魅入られてしまった。
──悪魔にも聖者にも傾く未熟。すぐ手放すのは、惜しい。
なにより。
運命を感じた。
あの日出会えなかったのは、今日この日に出会うためだったのだと。
多少の不都合には目を瞑ってもいいと無条件に思えるほどの必然性を前にして、らしくもなく感激していた。
それが命取りになる事も知らずに……。
そうして、東凪斗はあくまでも業務的な優しさに声を掛けた。
「───君は、箱庭療法って知ってるかな?」
「……知りませんね」
この部屋に入ってここで初めて、五月雨虹架は面を上げた。
彼の瞳は徐々に現実へピントを合わせつつある。
東凪斗は相手の性格──今回の場合は五月雨虹架に合わせて言葉を選びながら、箱庭療法について説明する。
「その療法の要点を最初に告げると、自分の無意識に触れる事──すなわち自己の理解にある」
「自分の、無意識……」
「そう、欲求や本能などを包含するといわれている領域だ。
四方を囲まれた砂場がある。
大きさは、おそらく君が普段学校で使っている机ほどだろうね。
その中に現実の偶像や模造を、深く考え込んでもいいし、直感任せでも構わない──君の思った通りに配置していく。それは人であったり植物であったり動物であったり建物であったり、色彩豊かなミニチュアだ。
必要と感じたのなら、ときに砂場の地形を整えてもいい」
そこまで話したところで、東凪斗は立ち上がる。
「論を経て、次は実践と行こうか」
五月雨虹架の目の前には、『箱庭』がある。
それは確かに、東凪斗が事前に説明した通りの──それを聞いて五月雨虹架が想像したものとほぼ変わりない大きさの箱だった。
しかし箱といってもダンボールのような底の深い物ではなく、お土産のクッキー系の菓子が入っていた箱みたいだ。
底の浅い箱の中には均された砂場があり、壁は空と同じ色をしている。
たぶん、砂の奥に隠れた箱の底も同じく、水面を彷彿とさせる色合いなのだろう。
そばには横に広い棚が置かれていて、中にたくさんのミニチュアが、まるで子供が頑張って片付けたかのような様相で飾られてあった。
その中身に関して、これも東凪斗が語ってくれた通りだ。
表現に窮しない程度には一通り揃えてある。
五月雨虹架は、あらためて『箱庭』に目線を下ろした。
この中に、自分を表現するらしい。
……ただの一度も、自己画像さえまともに描けた事のない自分が。
「君のお母さんから──」
東凪斗がそこへ、禁忌に手を染めるように口を挟む。
「僕はこんなことを聞いた。君は昔、鏡の前で泣きじゃくったことがあるそうだね」
「……はい」
「だとしたら、君はおそらく勘違いをしている」
「なにを?」
「今の君を形作っているのは鏡などではなく、記憶だ」
「────」
五月雨虹架にとってその言葉は、心臓を突き刺すナイフのようだった。
不意を打つわざとらしさもなく、明るいところで、真正面から、いっとき彼は殺された。
無造作に殺されながら、自然と息を吹き返した。
とても形容し難い臨死体験だった。
『鏡』の中に閉じ込められていた自分が『箱庭』の中に解き放たれようとしている、そんな、とある異界の国に迷い込んだ少女のような心弾む予感があった。
色彩を視る。
本当に不思議で堪らない。
癒着寸前の薄い膜は鮮やかな人の形を取っている。
その内に、ドロドロに融けた別の人が収まっている。
孵化を心待ちにする毒々しい雛鳥のようだ。
そんな人だからこそ、いとも容易く人を生まれ返すことができるのかもしれない。
五月雨虹架は──少年は、まず自分の手を砂に埋没させた。
今よりもっと幼い頃の原動が胸をくすぐる。
どうしてやろうか、と古今の記憶に幼稚な企みをかぶせる。
そして、棚のミニチュア達へと視線を遣った。
窓に映る外の景色は仄暗い。
太陽の抑圧を逃れ、地上を闇に染めんと大掛かりな暗幕が地平線の彼方まで拡がりつつある。
ここは遠くの山々に挟まれた盆地。
周辺は一足先に闇に没している。
向かいのビルに明かりはなく、下の方を覗き込もうとしない限り、街が寝静まったように錯覚されるだろう。
「………」
五月雨虹架との一回目のカウンセリングが終わり、部屋には東凪斗一人だった。
次回のカウンセリングは一ヶ月後。
ここへ訪れる前よりも幾分か良くなった息子の様子に機嫌を良くした母親が『今後とも、どうかよろしくお願いします』と頭を下げて、その息子共々ビルを出て行った。
それが二十分近く前の事になる。
あらかじめ診療には通常数回のカウンセリングを要すると母親にも五月雨虹架にも告げてあったので、あの母親だったらとりあえず様子見でしばらくは連れて来るだろうし、あと三回ほど面談をすれば全貌も把握できるだろう。
なにより相場は他よりも少し安めに設定してある。
それと今回の成果を秤に乗せて慮れば、信頼関係はすでに築けていると考えていい。
接触の機会に対する憂慮はいらない。
だから今は、“それ”の解釈に集中する。
彼の視線は、五月雨虹架の制作した『箱庭』に向けられている。
全体の雰囲気からは、要領の良さが窺えた。
『箱庭』の左上。
小高い丘の上に祈りの姿勢をとった天使の像が置かれ、そこに至るまでの道は木々に遮られており、その麓には二つの小さな跡だけがある。
おそらくは足跡──透明人間の類だろうか。
「出逢いがあった。しかし、手を伸ばすには様々な障害があり、その存在を見つめるだけに留まった」
次いで右上。
小高い丘を作った際に広がった水色の穴。
そこは湖として象徴され、その畔ではウサギたちが湖の上に浮かぶ小舟を眺めている。
もしくは、彼らは水を飲んでいるとも捉えられる。
「舟の上には誰も乗っていない。これも透明人間か? ウサギ供の手はソイツを拝んでいるようでさえある」
追って右下。
湖より流れる川が、二回のカーブを経て、下半分の空間に均等な境界を敷くようだ。
すると、右下の余った空間がレッグ部分の細い靴下のように見える。
そして『箱庭』の中心部に向かって橋を渡し、動線は柵や樹木で舗装されており、隅っこには主な物として美術館と病院が置かれている。
「自己の表現と癒し。現状の最優先───望むのは共同体内への復帰と見るべきか。あるいは二通りの選択を前にした葛藤か」
続いて左下。
棒立ちの子供のそばに何も描かれていないキャンバスが放って置かれている。
状況を鑑みて泣いているかと思われたが、子供の表情は曇りのない笑顔だ。
当然棚には泣き顔の子供のフィギュアも揃えてあるので、意図的な選択だろう。
そして種々の動物たち──例えば蛇や猫、狼などがその子供を遠巻きに見守っているようだ。
「これは単純に回想だろう。トラウマかコンプレックスかは、まだ判断に迷うところだが。
しかし左下から右上への直線を成長の軌跡として捉えると、なかなかに面白くはある。母体への回帰思想に行き着くか」
最後にもう一度『箱庭』の全体を眺めて、
「……中心には誰もいない、か」
一人分の足跡だけが、やはり左上を向いているように思えた。
小高い丘を見つめる。
それとの出逢いは、果たして壁の高さを超えてしまうほどの衝撃と障害を五月雨虹架に覚えさせたとでもいうのだろうか。
純粋であり醜悪であり歪であり型である──万人の色彩を看破し、そうありながらも善良さを保つ、あの超越した少年の精神を狂わせてしまうほどに。
そうして東凪斗は、『箱庭』から天使の像を眼前まで摘み取って、こう問いかけた。
「お前は何者なんだ?」
もちろん、答える者など在りはしない。
