Chapter Ⅴ 前編

 
       ◇
 
 遡る事一ヶ月前、事故当日。
 強風吹き荒れる晴天の日曜日、その昼下がり。
 人や車でごった返した表通りの少し外れ。

 平均五階建ての雑居ビルが、腐敗を混じえて建ち並ぶ。
 狭間を通り抜ける空気は埃っぽく重苦しい。
 蒼天には雲一つ見当たらないのに、何某かの薄汚いフィルターで妨げれらてしまっているかのように色褪せていた。

 その一角──ぎぃぎぃと鉄骨が盛んに軋み始めていた工事現場近くを、東凪斗は濁り切った瞳をどんよりと弛ませながら病人然と歩いていた。

 東凪斗には目的があった。

 一年ほど前から、この街にはこんな噂が流れていた。
 曰く、その方は人々の色彩を視られている──。

 街中のとある私立中学を発端とする救世主の風説だ。
 眉唾な話によると、そいつに相談した者は必ず救われるという。
 だが、どのような手法で救われるかについては、不気味なほど具体性に欠けていた。
 あるのはそういう実体のない体験談だけ。
 物腰が柔らかいとか見目麗しいとかオーラが常人とはかけ離れているとか、そういう表面的に現れる人物像かんそうが全く見えてこない。
 しかし救世に神秘は付き物のようで、先に述べたように、人々の色彩を視られるという要領の得ない象徴シンボルがほぼ唯一の救世主らしい特徴と言えた。

 そして、巷の風説から得られることは、所詮そこ止まりだった。

 又聞きの噂話に関心は維持されない。

 なんと救世主がいるらしい。
 そいつに相談すれば救われるらしい。
 ───二束三文の作り話かと笑えてくる。

 怪談のほうがまだ面白みがあるだろうし、それだけだったのなら、東凪斗も重い腰を上げたりしなかっただろう。

 しかしながら。
 東凪斗の職業は、心理カウンセラーである。

 謂わば、救世主は彼の商売敵だった。

 救世主の噂の発生を境に、その存在を裏付けるようにして、東凪斗へ相談しに足を運ぶ者が日に日に少なくなった。
 そんな喜ばしくもあがったりなある日に、彼は摑まされたのだ。
 それが唯一直接的に認められた信憑性。
 何の徴候もなく晴れ晴れとした面差しで過ごすようになっていた元相談者たちとのわずかな対面から、東凪斗は救世主の正体を知った。

 どうやらあれらの持て囃す救世主は確かに実在しているようで、驚くことに、現在中学二年生の男子生徒だと云うのだ。
 その者の名前も彼らは快く教えてくれた。

 五月雨さみだれ虹架ななか
 珍しい名前だと、率直に彼は思った。

 五月雨虹架に話を聞いてもらえるだけで、不思議と心が満たされるらしい。
 澱んでいた人間関係は円滑にほぐれ、劣等感は漂白され、進むべき道が明るく照らされたと口を揃えて彼らは言った。

 だが話を聞くに、満たされはすれど、必ずしも問題が解決するわけではないようだった。

 人間関係に関する問題は解決率100%を誇るが、なくしものだとか経営不振とか病気や怪我だとか、そういう明確な形を要求されるものは大抵駄目らしい。
 ようするに、細かい事を気にしなくなるだけの余裕が生じるだけ。
 救世主は万能の神では決してなかった。
 彼らの話における肝心な部分はそこだと──相談内容の問題そのものは時に解決されない点であると、東凪斗は睨んだ。

 東凪斗には、それが宗教的な救いのある種の理想型のように思えてしょうがなかった。

 ──この目で真偽を確認しておきたい。

 実在するとなれば、俄然、風向きは変わってくる。
 そこにどんな絡繰が隠されているのか、興味が湧いたのだ。

 インチキだと糾弾するつもりはない。
 むしろ、相手は本物だという確信さえあった。
 この世に不可思議な事象が存在する事くらい、彼はここ数ヶ月で厭というほどに思い知らされていたから。

「────……会えると、いいな」

 いつまで続けられるかも不明瞭な日々の営み。
 摩耗したこの精神に、救世主はいったいどんな模様を見てくれるか。

「僕が、僕でいられる限りは、足掻かなければ」 

 だが結局、五月雨虹架との対面は叶わなかった。

 そのすぐ後、東凪斗は事故に遭い、市内の病院に緊急搬送された。
 
       ◇
 
 
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