Chapter Ⅴ 前編
「ありがとうございました、先生」
エントランスを出ると、私服姿の男子高校生が畏まるように頭を下げた。
先生、と呼ばれた男はにこやかに微笑み、
「例え少しずつでも君の視界から霧が晴れたのなら、それは君自身の力だよ。次回のカウンセリングは一週間後だったね」
「はい」
「うん。結構僕もね、
と、慈愛と気軽さが心地よいほどに調和した言葉を、気弱そうな男子高校生に羽織らせた。
すると高校生は、自然と柔らかな笑みを浮かべて、再び一礼した後、
「僕も先生の元気そうな顔をひさしぶりに見られて、すごく嬉しかったです。先生もお気をつけて。さようなら」
礼儀正しい言葉を残し、翳りのある小さなこの通りを抜けて、夕焼けに照る街中の雑踏へ紛れるように去っていった。
彼の姿が完全に見えなくなるまで、男はじっと穏やかな微笑みで見つめ続けた。
そして取り立てて特徴もない灰色の雑居ビルの中へ──五階のオフィスに戻る。
エレベーターから降りると少し先にはまたも自動ドアが現れ、そこを通り抜けて、がらんとした受け付けを通り過ぎ、カウンセリングの時に用いる個室へと入る。
淡く落ち着いた彩色の部屋には、いまこの男一人だけがゆったりと椅子に腰掛けていた。
防音加工の窓ガラスにより、雑踏の喧騒はここまで届かない。
「…………」
一息はいらない。
手慣れた意思疎通に一息を入れようものなら、これまでに取り込んだノウハウが一斉に逃げてしまうような気がするからだ。
だが実際にそんなことはありえない。
その臆病風に誘われた強迫観念は、まさしく臆病者であった前任者の残り香に過ぎない。
「思いの外濃いな。しかしそれもあと一日の辛抱だろう」
目を瞑り、椅子に深くもたれかかり、自己に埋没する。
臆病者は臆病者なりに己の性を職に至るまで磨き上げたが、それでは余計苦しむだけとまでは思い至らなかったらしい。
彼の気質は何事も見過ごせない偽善者で、ゆえに現場へ踏み込むべきではなかった。
活かす道を探すのではなく、殺す道理に身を浸すべきだったのだ。
───もしくは、こう言い換えてもいいかもしれない。
「触れることで知見を広げるのではなく、潜ることで我を彫るほうがまだ分相応だったろうに」
だが、いずれにせよ後の祭りだ。
彼にしてみれば、それ以前の話だったのだから。
苦しみの末に咄嗟な偽善を己が墓穴にしてしまうようでは、単に遅いか早いかの違いでしかなかった。
自己保存の欲求に悖るにも程がある。
総括してしまえば、評価はこう落ち着くのだろう。
「愚かな男だった」
静かに秒針を回し続ける壁掛け時計をふと見遣ると、時刻はもうすぐ午後の五時を回ろうとしていた。
約束の時間まであと三十分と僅か。
男はポケットから漆の如く重厚な色合いの手帳を取り出した。
本日最後の
いまから一ヶ月前、その母親から予約の電話があったとの旨が手帳に記されてある。
時刻は当然相手が指定しており、詳細は常套通りに直接対面してから聞き出す事になるだろう。
四角い枠に事細かく記された手帳の日付を追っていると、ふとある一文が目に止まった。
電話越しの相手の様子を窺った際の走り書きだろうか。
相談内容は息子の不登校ではないらしい、というような推測が欄外に加えられてあった。
男はそこで、ぱたんと手帳を閉じた。
「余計な詮索だな。仮に当たっていようと、先入観は所詮、肥溜めに陥る導でしかない」
夕焼けの茜色を貼る窓のそばまで歩み寄り、ますます翳りつつあるせせこましい通りを見下ろした。
「用心のしようもない情報に意味はないと分からなかったのか」
分からなかったのだろう、と男は自問自答する。
箱の隅に隙間がないのは好ましいが、入れ替える余地もないほど柔軟性に欠けるのが難点だった。
「やはりそこだな。そこさえ取り除ければ、以前よりも格段に効率のよい運用が可能となる。宝の持ち腐れは、この世でもっとも唾棄すべき生き様だ。ならば泣いて喜ぶべき我が変革だろう。だというのに──」
窓を見つめる。
一心に見つめ返す。
「まったく、なんて様だ」
そこに反射する彼の表情は、くしゃくしゃに怯えていた。
「これが、今の
───奇しくも予約の電話があった翌日に、彼は事故に遭っていた。
策謀や故意など関係なく、それは本当にごく単純な不運によるものだった。
被害者は三人。
一人は死亡を確認されて、残りの二人は生還。
生還者のうち一人が軽傷、一人は意識不明の重体から奇跡的な生還を果たした。
この男──
奇跡の代償として負った後遺症は、未だ色濃い──。
「───……ッ」
かつてないほどの拒絶感に肺や胃が荒れ狂う。
綜合され錯綜した自我が、悲哀と苦痛に鼓動を弾く。
逆流しそうになった胃液をすんでのところで堪え、東凪斗は何食わぬ顔で崩れてもいないネクタイを整えた。
継ぎ接ぎだらけで定着が浅く、その不安定な浮遊感を早急に改善しなければならないという焦燥感が久方振りに胸の底を押し上げてきてもいるが、さすがにこれ以上は悠長に構えていられない。
長い独り言は、ひとまずこれにておしまいだ。
彼は時刻を確認するため、時計へと視点を移した。
先方の予約の時間まで、既に十五分を切っていた。
出迎える準備を済まさなければ、と東凪斗は足早に部屋を出た。
