Chapter Ⅳ

 
 ふと、目が覚めた。

「───あぁ」

 胸の奥底に、仄かな火が再び灯ったようだった。
 朝の冷ややかな空気が、起きたばかりの肺に流れ込む。
 胸に左手を当てて、その鼓動と脈拍の連動に生を実感する。

 そして、右手には誰かの微熱が乗っかっていた。

 その方向を見遣ると、鏡などでよく見慣れた顔が仏頂面で朝日を睨んでいた。確認するまでもなく誰が隣に居てくれているのか分かってはいたが、それでもこの全身を駆け巡るような安心感は捨て置けない。見るのと見ないのとでは、まるで熱の伝わり方が、広がり方が違うのだから。

 ──なんて、暖かいんだろう。

 起き抜けの少女が口を開こうとしたら、仏頂面の少女がそれを遮った。

「どれだけ探し回ったと思ってる」
「……ごめんなさい」
「───四日だ。お前がふらりといなくなってから、それぐらいの時が経ってる」

 四日。
 その空白を想像して、長い髪の少女はしゅんと畏まった。

 野良猫が飛び起きて逃げ去ってしまうくらいの大声で怒られると、そう覚悟した。

 しかし、短髪の少女は肩から力を抜くようにため息を吐いて、

「とりあえず、手遅れになる前に無事お前を見つけられて、本当によかった」

 心の底から安堵しているようだった。

 長髪の少女はおそるおそる相手の様子を上目に窺った。
 仏頂面なのは変わらないけれど、朝日を眺める横顔は心なしか安らかになっていた。

 清々しい始まりを予感させる、早朝の陽射しの中。

 合わせ鏡のような少女ふたりが、瞬く間の夏の緩やかな陽気に身を委ねるように手を重ね合わせて、ぼろぼろのベンチに腰掛けている。

 片方は長髪で、もう片方は短髪。
 他に目に見える違いがあるとすれば服装の雰囲気に瞳の色と、そして浮かべる表情くらいのもの。

 片方は嬉しそうに微笑んでいて、もう片方は心を許し切っている。

 次第に、周囲には音が溢れ始める。
 起きしなのゆったりとした朝明けも終わり、そろそろ忙しい騒々しさが顔を覗かせる頃合いのようだ。
 車が順々に彼女達の前を通り過ぎて、少ないながらも、人々もまた各々の目的や習慣を抱えて過ぎ去っていく。

「帰ろう、さくら。前にも言ったと思うが、私は夏の暑さが苦手なんだ」
「───はい!」
「ああそれと、私が良いと言うまでしばらく外出禁止。今回の件とは別に課題は山積みなのだから。これからすぐ転居の準備にも取り掛からなくなくちゃならない」
「……はい」
 

 帰り路。
 清々しい青空の下。

 黒い長髪の少女──さくらが、弾み出すように問いかけた。

「そういえば、名前は何にしたんですか?」
「さくやだ」

「────」

 ちょっとだけ、面食らう。
 そこまで合わせに来るとは、流石に思っていなかった。

「ふふ、ずっと、隣にいてくれるんですね」
「───嗚呼、君の身が滅ぶその瞬間まで寄り添うと、以前の“私”がそう心に決めたからね。ならば、その思いを継がなければ」
「………」

 幸せな夢にいきなり氷水を注ぎ込まれた気分だった。

 さくらがさくやの心許ない肩に撓垂れて歩く。

「その過ぎ去った物言いは、すこしだけ嫌いです。ずっと前から、思っていた事ですけど」

 瓶の中の手紙を思い起こすように。
 無縁の対岸を遠く見つめて、以前の自分を語る“彼”の姿があまり好きではなかったらしい事に、今更ながら──いや、今だからこそ、彼女は気づいた。

「……そうか。気にしていない物だとばかり思っていたが、そうか。しかし、すまない。以前の“私”は死に、ゆえに今の私がここに在る。そう区切りを付けることで、永久の世を渡り歩いてきた。それは、ずっと私の傍にいてくれたお前も理解している事だろう」

 幾度その姿形が置き換わろうとも、本質に変化はない。
 輪っかを繋いで鎖と為すように、“彼”という因子は確かに継がれていく。

 だが、その在り方に限界が訪れようとしている事もまた、さくらは知っていた。

「ええ、理解はしています。今までも受け入れてきました。それでも時折、耐え難くもなるんです」

 ときどき、今のように思い知ってしまうのだ。

 “彼”は久遠の時を生きながら、存在の滅びと常に隣り合わせである『生き物』なのだということを。
 外因による死がほぼありえない彼女と違って、万が一にも、なんらかの手違いや偶然で命を閉ざしてしまう可能性が、“彼”には存在している。
 しかも“彼”の肉体は、如何なる理由によるものかまでは知らないが、十五年の星霜しか保たない。

「私はあなたが好きだから。愛しているから」

 その儚さと強かさを危うげに孕んだ生き様が、狂おしいほどに愛おしく思うけれど、だからこそ、日々のあらゆる所作から見え隠れする切り替えに耐えられない。
 いっそ憎らしいとさえ、思ってしまったほどに。

 ころころと変わりゆく“彼”が、輝かしいほどに憎らしい。

「十五年後にまた、そんなあなたを看取らないといけないのが、とても淋しくて、すごく辛いんです」

 思えば、浮き足立って散歩に出掛けたくなった五日前が、ちょうどその日だった。

 空白の一日が始まろうというあの夜更けに、彼女は怖気付いた。
 人形めく凍りついた夜明けが怖かった。
 青白い朝を迎えたくなかった。
 自分だけ永劫不変の生を抱える現実が、途端に嫌になった。

 それらから目を逸らし続ける事は、もうできない。

「ねぇ、さくや──」

「此処に約束しよう。お前の苦しみは、此度の私ですべて取り除く」

 ゆるりと顔をもたげて、さくやの横顔を覗き込んだ。
 初めて見るその瞳でも、長年連れ添った耀きを充たしている。
 何度と翌る日も飽くほどに見つめた蒼い宝石が、朝陽を浴びてそこにある。

「果たされなかった神饌を掠め取り、その代償を破却する」

 いつかに交わした口約束とそう変わりはないけれど。

 ……どうしてだろう。

 どうしてこんなにも、歓びと安堵で胸の裡が満たされるのか。

 ああ、そうか──。

「これから私は、有限の時を刻むんですね」

 終わりの見えなかった日々に、少しだけ、希望が見えた気がしたのは、きっと錯覚ではなかった。
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