Chapter Ⅳ
───あの小魚たちは、その後どうしただろう。
「──────あ、ぁ……──」
意識が、朝日の届かない深層に沈んでいく。
深い海の奥へ落ち込んでいくたびに、日々の記憶だけでなく、“彼”に教えてもらった言葉も粉々に擦り潰れて忘れ去っていく。
感覚は明瞭で、微細な風の波打つ強弱さえ感じ取れているのに、指がピクリとも動かせない。
声も出せない。
視界が仄暗さに揺蕩っている。
“はたして私は、いつものようにちゃんと、目を開けていられているでしょうか”
───その水底に、声が、響いてきた。
「ひどい裏切りだ」と、声変わりの最中にある少年の悲痛な声が、少し離れたところから聞こえてきた。
日課のジョギングに励んでいたのだろう。学校指定のジャージを着た少年が、額に少量の汗を滲ませ、バス停の看板前で立ち止まっている。
そして一心に少女を見つめながら、失望を露わに震え笑った。
「僕はずっと、貴女のことを思っていた。三日前の貴女は、まさしく人だった。僕が求め続けた理想の体現で、あれこそ完璧な人の模倣だったのに、なんて不躾で幸せな彩色だろう。
虹色だ。
書き足す“余白”もない人生だ。
それなのに、ああ、貴女は死ねないんですね」
人通りのない早朝の生活道路にて。
要領の得ない独り言が深海めいた空に浮かんでは、散り散りに消えていく。
少年は喉の渇きに水を乞う放浪者のように、少女の方へ五本の指を震わせながら腕を彷徨わせている。
「───ぁ…ぁぁ……」
少女はそれに、何の言葉も返せない。
思い浮かぶ言葉はたくさんあったはずなのに。
しかし声にならない。
そして喉元に蟠るまま、無情に廻り続ける血流に巻き込まれ、墨の一滴が水に拡散して溶け込んでしまうように、一つ一つの粒子に分解されては無へ還るように、消えていってしまう。
少年は一方的に、とめどなく静謐の涙を流しながら、独り言を積み重ねた。
「───僕は無力だ。そんな貴女を殺してあげることも、救ってあげることもできないのだから。その降り積もった分厚い彩色に触れる勇気さえも、持ち合わせていないのだから」
明るむ手前の空は隅々まで晴れやかだが、物言わぬ物質と化そうとしている少女と不安定で危なっかしい少年の周囲は、そんな清涼さを蒼白い暗鬱で染め落としてしまっている。ここだけが、病うつろう黄昏の下にあるようだ。
そうして、ついには少年はそれ以上の言葉も掛けられぬまま、無力感だけを拾って走り去ってしまう。
声を掛けようとした。
手を伸ばそうとした。
その思慮の悉くが、さらさらに乾いた砂へと変わり果てていった。
真っ白な光が跳ね延える。
夜明けが本格的に始まろうとしていた。
硝子を突き破るような、騒がしい音を聴く。
明け方の空に、鮮烈な太陽の光を浴びながら、心臓を掻き鳴らすように甲高く鴉が鳴いている。
陽が登り始めた朝の四時ごろ。
鼠色の薄汚いシャッターが着々と夜の気を降ろしながら、早朝の日差しに染まる。
バス停側の古い雑貨店の軒先には、経年により赤色の塗料が剥がれかけ朽ちかけた木製のベンチが怠惰なままに設置されており、そこに少女は投げ出されたような姿で腰を預けていた。
胡乱な瞳。
半開きの口。
項垂れた頸。
力動の気配を排した四肢。
総じて、糸の切れた人形じみた居住まい。
この光景を見た誰もが思うだろう。
──かわいそうに。
あの“人形”は置き去りにされたのか、と。
あるいは、こんな事も思うかもしれない。
──
何もそんな風に“遺棄”する事はないだろうに、と。
「──────」
少女の黒髪が朝日に照らされると美しく黒い艶を出し、陶器のような純白の柔肌は磨き上げられた硝子に負けず劣らず光輝を宿し、長く艶々とした睫毛に薄く開かれた瞼の奥には漆黒の水晶の如き瞳が秘められ、現実の世界をかくも明瞭に映し出している。
まるで精巧な作り物だった。
長い間大切にされていた忘れ形見の悲劇的な投棄としか思えなかった。
そう、これを生きた人間とは誰も思わない。
思いたくもないだろう。
こんな憎たらしい末路を迎えようとする生き物がこの世にあるものかと、あってたまるものかと、声高に否定したくもなるだろう。
だが、それは正真正銘、骨の髄まで人間だった。
雨に濡れた桜の花びらの如き瑞々しい唇からは涼やかな息吹がゆるく通り抜け、心臓はゆったりと古時計の秒針のように鼓動を刻み、その身体にはひたすら命の微熱が篭っていた。
ただ一点、意識を欠いた無様な格好ばかりが、少女を綺麗で不気味なだけの雛人形に貶めてしまっている。
少女は滅びない。
如何なる災禍に見舞われようとその身が朽ちる事も腐り落ちる事もない。未来永劫、その麗しき姿形を保ち続ける事が彼女に課せられた運命であり、約束された王冠だ。
脈打つ“なかみ”は要らず、形を崩さない“うつわ”こそが求められた本質だった。
相も変わらず、身体に力は篭らない。
瞳は光の必要性を見失って久しく、呼吸はとうに少女の制御下を離れて、機械的に浅く儚げに繰り返されている。
唯一無二の滅びない“人の雛形”として、永い月日を経てようやく、少女の肉体は完成に至ろうとしていた。
零下の虚空の果て。
何者でもない無に還ろうとする自我を、視点という意味が失われた世界で俯瞰する。
意識が、薄れていく。
──これでいい、と少女は今際にぼんやり思った。
いまさら、思い出した。
これは、すでに得ていた結論だった。
かつて“彼”から教えられていた事だった。
この身は滅びずとも、いずれ自分という意識は消える。
永い眠りに就いて、真っ黒な
表象の永久凍結。
脳死のようで程遠い、あまりにも不自然な無常を迎える、と。
わざわざ外に出て探そうとするまでもなく、終幕は初めから用意されていた。
ならば……。
そこで、疑問がひとつだけ浮かび上がった。
ならば、“彼”はなんの為に、死の研究に励んでいたというのだろう。
───『私』は、何処に在るの?
以前、少女はそのような事を“彼”に問うた。
脳髄にあると“彼”は迷わず答えた。
なら、と少女はさらに問いを続けた。
───『私』がいなくなった体は、誰の物になるんでしょう?
意味を解りかねた“彼”は問い返した。
それは、どういう意味だ──?
あなたを見ていて思ったんです、と少女はそう前置きしてから補足した。
───『私』という意識がなくなって、朽ちることのないこの身体だけが残された場合の話です。
“彼”は苦虫を噛んだような、あるいは矛盾を見出し苦悩する哲学者のような面持ちで少女の瞳を見遣り、『再三考え行き着いた結論は、けっきょく、脳死だった』と弱みを晒すように吐露した。
少女を見据え続けながら、しかし何処か別の虚空を睨んで“彼”は話を続けた。
『酷い話だが、脳という緻密な構造体も、神経という繊細な経路も、そこから生る“君”という複雑な人格も、彼の者からは求められていなかった。答えなら出てる。君の言った通りだ。空っぽなうつわだけがこの世界に取り残されるのだろう』
よかった、と少女は微笑んだ。
───あなたが、貰ってくれるんでしょう?
“彼”はその告白に応えず、敢えてこう訊き返した。
君にとって、死とはなんだ、と。
少女は胸の中心を両手で覆い、安らかに微笑んだまま答えてみせた。
───土に還ることです。自然の一部として編み込まれるのが、最も尊き命の亡くなり方であるとむかし教わった記憶がありますから。
ああ、という吐息が力無く漏れたのが聞こえると次いで“彼”は、そういえば昔に、君は長く飼っていた小魚を土に埋葬していた、と懐かしむように笑った。
『思えばあの五匹の小魚どもは、“私”などよりも遥かに長生きだった』
そうして一頻り笑いを噛み含んだ後、“彼”は会話の最後にこう結んだ。
『私は、すでに君を貰っている。だから最期は、二人で同じ墓に眠ろう──』
「────……ぁ」
そんな百年以上も前の約束を、自我が没する間際にありながら、少女は思い出していた。
───彼女の人生は、とうの昔に満たされていた。
死を待ち続けるだけの人形だった。
周りを見渡しても、あるのは既知の組み合わせのみ。二つ以上も持ち合わせているピースを何度も何度も拾い集めては、また同じように嵌め続ける。
その感慨は宇宙の黒に懐く悍ましさだ。
何千何万光年の距離を隔て離れようと、類似する景色が絶え間なく続く。
そしてその最果てに、大して求める物もないのだから。
体験し得る全ての事象がいずれかの過去とかち合うことに気がついた時、少女は生きながらに死んだのだ。
なるほど。
自分はすでに、現世にこびりつく遺物となってしまったらしい、と。
欲しいものなんてなかった。
見たい景色なんてなかった。
聞きたい音も、味わいたい食も、描きたい夢さえも。
試みたい経験なんて、想像もできなくなった。
何より。
誰もが一度は夢に見る凡庸な幸せを追い求めた少女にとって、“彼”と共に生きる以上の最上など全く目に入らないはずだったのだ。
しかしそれがどうだろう。
どんな幸福にも飽きが回ってくるものらしいと悟った時には、あまりの底無し具合に愕然と忸怩に耽る一夜があった。
だから、これより無感動の上塗りを知りたくなくて、いつの頃からか、病的に自らの死を願うようになっていた。
──でも。
正気を宿し続ける瞳の揺るぎなき輝きを、幸不幸の境界線上にて、少女は知っていた。
──“彼”は違いました。
──私よりも長い時間を、この世界で生き続けているというのに。
──退屈そうに過ごす“彼”の横顔を、私は知りません。
──死にたいと願う姿を、一度だって見た事はありませんでした。
──それなのに、私の願いを、叶えようとしてくれているのです。
──まだ、生きていたいと思っているはずなのに。
──だから……。
──“彼”との約束だけは、きちんと守ってあげないと。
それはやはり、“
──帰らないと。
そう焦がれた心は、何処から生じたものか。
それは少女自身にも、少女の寄辺である“彼”にもきっとわからない。
──もう、帰らないと。
虚の闇に浮かべる言葉はそれ一つ。
“彼”の熱が、ひたすらに恋しかった。
あまりに身勝手な帰属意識だとわかっていても。
一度は手放そうとした報いであるという罪の意識が根を張っていても。
たとえ、そうでも……。
世界最期の瞬間まで、“彼”のそばに在りたいと、そう願った。
だが、その軀はもはや主人だった者の意思を宿さない。
肉体から離れたその衝動───欲に塗れた熱は、とうに闇の奥底で空廻りしている。
自力で浮上する事などあり得ない。
少女の意思はじき、無そのものである闇に融ける。
それでも……。
もし、その終焉を否定し覆す者がいるとすれば、それは─────。
