Chapter Ⅰ

 
 ───カチリ。
    鍵の回る音で目を覚ます。

 彼の瞼が気怠げに開かれ、まず最初に、一枚のメモ用紙が天井に貼られているのが目に入った。
 前後関係も脈絡もない一文。
 それは端的に言って、彼だけに理解できる道筋だ。
 あるいは、もはや日課となりつつある、生き甲斐やくわりを記した依頼書のようなものだった。

 彼は静かに立ち上がり、そのメモ用紙を剥がし一瞥して、他にもたくさん壁に貼られているメモ用紙を指示通りの順番に剥がしていく。内容は至って、彼にとっては以前とほとんど変わり映えのない人生モノだ。

 はっきり言葉にしてしまうと、つまらない。

 そもそもとして。
 最初のメモの段階で、彼のやるべきことは定められていた。
 書いてあったことはただ一つ。

    “ここから一番近いコンビニに行け”

 ───それだけだ。
 他は蛇足以上の意味を持たない。
 少なくとも彼は、そういうふうに軽視していた。

 彼はゴミ屑同然の様相となった紙束メモを乱雑に上着のポケットに突っ込んで、履き慣れていない靴を履いて通路に出た。
 号室は四〇二。それを視界の端に収めつつ、エレベーターの方へ向かう。当然ながらエレベーターは一部屋挟んだ先にある。近い事は便利。調子の良い事に、仕事がはやく済む吉兆だと彼はそう受け取った。

 現在、深夜零時頃。人々寝沈む日々の変わり目。この時間帯、普段なら利用者は彼くらいのものなのだが、珍しいことに上階から下に降りる途中の先客がいた。
 チーン、と間抜けな到着音と共に扉が開く。

「───あ」

 先客はしまった、と言わんばかりに声を上げた。

 視線を床へ天井へと右往左往に彷徨わせて、
「その、えっと……」
 気不味そうに言葉を濁していた。

 何処か抜けている。そんな印象は、彼がこの女と会った当初から何一つ変わっていない。傍を通りすがったら十人中十人がつい振り返ってしまうほどの美人ではあるが、どうにも掴み所に乏しいと彼は苦手意識を持っていた。ため息を溢しかけたのは、一体どちらだったか。
 彼は眉一つ動かさず、ただ上下する以外に機能のうのない鉄の棺桶に乗り込み、

「驚いた。引きこもりのあんたが部屋から出ることなんてあったんだな」

 と、少女にとっては白々しいことこの上なく、さらには失礼にも程がある言葉を突き出した。
 どれだけ寛容な人間でも、この仕打ちには自然と抗議したくもなるだろう。

「むぅ。……嫌味ですか、それ?」
「嫌味じゃない。単純な感想」
「にしては声に色が乗ってないですが」
「元から搭載されてないんだ。あとこれ以上話しかけないでくれ。気が散る」
「………………」

 問答無用の、有無も言わせない返しだった。
 会話を望んでいないのは節々から滲み出している癖に話しかけてきておいて、乗ってあげれば早々に断ち切ってくるとはどういう了見か、と言い返したい気分となった少女。

 しかし口には出せない。

 それ以上は少女の価値観からでは、はしたなく出過ぎた真似になるからだ。
 ゆえに視線だけ。
 ただ見つめるのみ。
 彼への不満が黒曜石じみた瞳に色濃く浮き出ており、心の底から恨みがましそうに、目蓋を半月めく細めて睨んでいた。
 が、思い虚しく、その抗議が彼に届くことはない。

「まぁ、今に始まったことではないので、別にいいですけど……」

 そう小さく呟き終わるのと、エレベーターが一階に着くのはほぼ同時だった。
 二人は互いに何も発さずエレベーターを降り、エントランスを抜けて外に出る。そして一言も交わさぬまま、彼らはまるきり反対の方向へ散った。

 その際、意味深長めいた視線を彼へ投げる彼女であったが、当の彼はそれさえ汲み取れることもなく、その背姿は闇の中に消えていった。
 
 

 電灯が均等に並ぶ、三途の川に続いていそうな住宅地区を、彼はひとり進む。
 見るからに無愛想な面持ちだった。
 周りに誰もいやしないのに、勝手に盛り上がって、見えもしない敵に向けて威嚇しているようだ。

 星の光も霞んで届かない、暑くも寒気迸る夜道。

 夜に夏虫が哭く。新秋ほどの風情はなく、彼の耳には狭い道路をかっ飛んでいく暴走族のように、うるさく聴こえた。
 ここまで来ると、もはや鬱陶しいだけのノイズだ。あるいは、夥しい警報のようでもある。
 夜鳴きの虫たちが報せている。
 これから世界が終わってしまうのだと。
 この夜はもう二度と明けないのだ、と。
 どこからともなく、虚空の闇に響いていた。

 ───彼にしてみれば、それはある意味で間違いではなかった。

 彼の歩く速度は安定して、遠くからでも容易に確認できるくらい一際目に痛い光を放つ小さな不夜城へと、その足は向けられていた。
 途中、幾度と通り過ぎる自動車の群れ。
 度重なる耳に痛い音に何度も顔を顰めては、近づきつつある己の  に心臓を高鳴らせた。

 一歩毎に現実感は麻痺し、身体は絶好調を迎える。準備は辿り着く五分前には既に整っていた。
 白い電光を道路にまで弾き伸ばしたコンビニエンスストアに辿り着き、彼は一度周囲を見回した。怪しい人影もなければ、電柱に潜む幽霊の気配も錯覚できない。

 明暗がどこまでも濃い。
 まるで深夜に魘される悪夢だ。
 夜の滲みが、じわじわとアスファルトに垂れているよう。

 街灯はその滲みを可能な限り漂白し、寄せ付けまいと膜を張っている。視界の隅に正体不明の人型が立っていて、一心不乱に自分達を監視している。それは気配として現れない。ぼんやりとした影である。張り詰めたような硬直感が彼を押し包んだ。
 外見の冷静さはやはり見掛け倒し。高揚は収まることも知らぬまま、身体は夢現の前後不覚もいいところ。
 見ず知らずの友人を待つような気分の中、メモ用紙に書かれていた顛末を反芻する。
 今すぐ背後から襲い掛かられても、対応は可能だ。
 約束の時間にはまだ遠く、彼の主観は危機に備える主人公。

 さあ──どうか、私に生の実感を───!

 ……そんな、仮初の覚悟に自惚れていた只中に、それは唐突に訪れた。

 ───トン。

 と、軽い衝撃が背中を突いた。

「あ───?」

 疑問を持とうとしても、事態はすでに手遅れ。関節部から急速に力が抜け、彼の身体はうつ伏せに倒れ込み、内蔵なかみの熱が冷めていくのを感じ取る。
 内臓よりも冷たい夏の夜気が、わずかな隙間を縫って内部に入り込んできた。
 代償として衝撃が走った箇所には次第に熱が帯び始め、そこでようやく、彼は自分が刺されたのだという現実を理解した。

「……どうして、こんな───」

 他人の声が自分の口許から震え聞こえる。
 吐かれたその疑問は彼自身でも驚くほどに空々しく、他人事のようで、まるで誰かの悲鳴でも代弁しているかのようだった。
 けれど。

「……結末よていと少し、違くないか───?」

 コレは確かに、何の誤魔化しようもなく、彼自身が抱いた奇怪ぎもんだった。
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