飛べ、飛べ、エリーくん
トロデーンでは竜を飼っている。
そんな噂を、あの城からほど近いトラペッタで耳にした。茨の呪いが祓われた美しい国の空に竜が飛んでいたのだと。一度きりではなく、晴れた日の澄んだ青の中でそれは悠々と泳いでいたのだと。城から離れることなく。何かを襲うでも救うでもなく。それでも城を守るように、二度と呪いにかけられぬように、竜が度々飛んでいるのだと。町人達はそんな噂を宿屋でも酒場でも密かに、それでも確かに話していた。トロデーンの、竜。竜神。みんなの頼れる近衛兵。姫君から貰ったエリーの愛称を大事に抱えるエリオット少年。はためく黄色とオレンジ。もし、もしも。竜がそうだったとするならば。俺はグラスに僅かに残っていた真っ赤なアルコールを一気に飲み干して、頭に浮かんだそれを追いかけたくて、酒場を出た。
街の外まで歩いて、夏の初めのやたらと眩しい太陽に目を細めながら、ようやく修繕されたらしい橋の向こうにそびえ立つ城の方を見上げた。この城下町をも見下ろせるであろういっとう高い主塔。それよりずうっと高い空に。稲妻みたいな金色の竜がのんびりと泳いでいた。見間違いか、目の錯覚か、とも思ったがそれは緩やかに。水の中を揺蕩う魚みたいに。同じくらいの輝きをしたあの神鳥の子供みたいに。たなびく金色は城の上をぐるりと回って、それから瞬きの内に雲に隠れて消えてしまった。エリーの扱う魔法によく似た、金色。雷。木製の橋は軋んでぎいぎい嫌な音を立てた。
城のすぐそば、小さな泉のほとりにそいつはいた。黄色い服にオレンジ頭。エリーはしゃがみこんで水面をじっと見つめている。鏡で姿を確かめるみたいに。
「エリー、エリー」
黄色とオレンジがこちらを見上げた。国を救った兵士とは思えないゆっくりした動きで立ち上がって、エリーは右手を振った。
「ククールさあん」
まだ幼さのある子供の声に俺も手を振り返す。揺れる黄色い裾があの金色の竜と少しだけ重なった。振り払うみたいに少し長く目を閉じて、開く。エリーはのんびり歩いてきた。旅をしていた時と何も変わらない人好きのする笑顔。あのたおやかな竜とは重ならない気がした。(目の前の男は竜の血を引いているのに?)にこにこと笑って、年下の男の子は上目がちに俺を見た。
「トロデーンに遊びにきてくれたんですか?」
「あー、まあ、なんというか。お前に会いに来た、ってか……」
「エリーにですか? うれしいなあ」
「あの噂って本当なのか」
エリーは一瞬きょとんとした顔をして、それから納得したようにまた微笑んだ。穏やかだった風が急に強くなって草木がざわざわと喚く。
「それはきっと、稲光ですね」
おっとりとした声でエリーは言う。それも子供に言い聞かせるみたいに、確信めいていて。丸い瞳は潤んで光って射抜くように俺を見ている。目を逸らせなかった。目を逸らしてしまえば、なんだかその言葉を受け入れてしまいそうだった。金色の竜など初めからいない、あれは稲光だよ、と。エリーが本気でそう言えばそれが真実になりそうな気がしたから。
「こんな晴れてんのに雷なんか見えるわけねえだろ」
「でも、稲光ですよ」
雷を纏った竜だったんです。
エリーの服の袖から覗く腕には透明な鱗がある。旅の中で何度も見た。トロデーンに来た頃から身体のあちらこちらにある。多分生まれつきの。真昼の強い日差しを浴びて、鱗は柔らかく光っている。白にも、金にも見えた。竜の鱗、だ。ああ、やっぱり、あの竜は。
エリーはきっとあの竜がどうだとか何だとか、俺にも、誰にも言うつもりは無いんだろう。穏やかにはぐらかされ続けるのが目に見えていた。今みたいに。そうしてまたトロデーンの空を飛ぶんだろう。竜の本能か、魂か。
「あの稲光。しばらくは見えないと思います」
エリーがぽつりと呟く。
「なんで」
「だってククールさん、来てくれたでしょう」
木々のざわめきに紛れて大きく息を吐いた。エリーは悪戯が成功した子供みたいな顔つきをして、俺の顔を覗き込んだ。
「エリーはずっと待ってたんです。ククールさん、気ままに旅するって言ってたから。あの結婚式の日になんにも言わず行ってしまったから。トロデーンで待ってたら、来てくれるかなって。そしたら、ほんとに来てくれた」
なんて掴みどころの無いいきものだこと!たちまちすり抜けてしまういきものだこと!成程。こいつは俺がどこかでこの噂を耳にするだろうと。そう考えてあんな風に度々飛び回っていたのだと。ああ、ああ!俺が考えるよりもよっぽどこのいきものは俺の事を好いているのだ!
そんなに好かれていたのなら例の挙式の後、筆まめなエリーくんに手紙の一つでも送ってやれば良かったか。そんな事をする間もなくお綺麗なこの国から逃げるように旅立ったのだけれど。
「姫様にばれちゃったんです、ククールさんを待ってるってこと。ふふ、それで、近衛隊長、やめることになりました」
「自由に生きろって?」
聡明な姫君は誰よりもエリーの幸せを願っていた。どうか、どうか。あなたの幸せを見つけてね。旅の途中に何度か彼女はそう零していた。
「姫様がそうおっしゃったら、エリーはトロデーンにいられませんから」
俺の顔を覗き込んだままのエリーに両手をとられた。小さい手だ。自分よりも大きい槍を扱っているとは到底思えない。そんな手に、ぎゅうっと力強く握りしめられる。胸元で祈りを捧げるみたいに。
「ね、一緒に連れて行ってくれませんか」
きつく、きつく。痛いほど。逃がさないように、離さないようにと。初夏のぬるい風が肌を撫でていった。俺が何を答えとしてもエリーはついてくるだろう。そんな頑固さがこいつにはあった。トロデーンしか無かった近衛兵の生き方に自分がいる。恍惚にも似た感情に支配される。
旅をしながら、本当はどこにも行けやしないと思っていた。魂を置き去りにしたような気がしていたから。だけど今なら、どこへだって行けると思った。エリーは相変わらず俺に向かって笑いかけている。日差しを受けた鱗が金色に瞬いた。
トロデーンでは竜を飼っていた。竜は人知れず、何処かへと消えたそうだ。
そんな噂を、あの城からほど近いトラペッタで耳にした。茨の呪いが祓われた美しい国の空に竜が飛んでいたのだと。一度きりではなく、晴れた日の澄んだ青の中でそれは悠々と泳いでいたのだと。城から離れることなく。何かを襲うでも救うでもなく。それでも城を守るように、二度と呪いにかけられぬように、竜が度々飛んでいるのだと。町人達はそんな噂を宿屋でも酒場でも密かに、それでも確かに話していた。トロデーンの、竜。竜神。みんなの頼れる近衛兵。姫君から貰ったエリーの愛称を大事に抱えるエリオット少年。はためく黄色とオレンジ。もし、もしも。竜がそうだったとするならば。俺はグラスに僅かに残っていた真っ赤なアルコールを一気に飲み干して、頭に浮かんだそれを追いかけたくて、酒場を出た。
街の外まで歩いて、夏の初めのやたらと眩しい太陽に目を細めながら、ようやく修繕されたらしい橋の向こうにそびえ立つ城の方を見上げた。この城下町をも見下ろせるであろういっとう高い主塔。それよりずうっと高い空に。稲妻みたいな金色の竜がのんびりと泳いでいた。見間違いか、目の錯覚か、とも思ったがそれは緩やかに。水の中を揺蕩う魚みたいに。同じくらいの輝きをしたあの神鳥の子供みたいに。たなびく金色は城の上をぐるりと回って、それから瞬きの内に雲に隠れて消えてしまった。エリーの扱う魔法によく似た、金色。雷。木製の橋は軋んでぎいぎい嫌な音を立てた。
城のすぐそば、小さな泉のほとりにそいつはいた。黄色い服にオレンジ頭。エリーはしゃがみこんで水面をじっと見つめている。鏡で姿を確かめるみたいに。
「エリー、エリー」
黄色とオレンジがこちらを見上げた。国を救った兵士とは思えないゆっくりした動きで立ち上がって、エリーは右手を振った。
「ククールさあん」
まだ幼さのある子供の声に俺も手を振り返す。揺れる黄色い裾があの金色の竜と少しだけ重なった。振り払うみたいに少し長く目を閉じて、開く。エリーはのんびり歩いてきた。旅をしていた時と何も変わらない人好きのする笑顔。あのたおやかな竜とは重ならない気がした。(目の前の男は竜の血を引いているのに?)にこにこと笑って、年下の男の子は上目がちに俺を見た。
「トロデーンに遊びにきてくれたんですか?」
「あー、まあ、なんというか。お前に会いに来た、ってか……」
「エリーにですか? うれしいなあ」
「あの噂って本当なのか」
エリーは一瞬きょとんとした顔をして、それから納得したようにまた微笑んだ。穏やかだった風が急に強くなって草木がざわざわと喚く。
「それはきっと、稲光ですね」
おっとりとした声でエリーは言う。それも子供に言い聞かせるみたいに、確信めいていて。丸い瞳は潤んで光って射抜くように俺を見ている。目を逸らせなかった。目を逸らしてしまえば、なんだかその言葉を受け入れてしまいそうだった。金色の竜など初めからいない、あれは稲光だよ、と。エリーが本気でそう言えばそれが真実になりそうな気がしたから。
「こんな晴れてんのに雷なんか見えるわけねえだろ」
「でも、稲光ですよ」
雷を纏った竜だったんです。
エリーの服の袖から覗く腕には透明な鱗がある。旅の中で何度も見た。トロデーンに来た頃から身体のあちらこちらにある。多分生まれつきの。真昼の強い日差しを浴びて、鱗は柔らかく光っている。白にも、金にも見えた。竜の鱗、だ。ああ、やっぱり、あの竜は。
エリーはきっとあの竜がどうだとか何だとか、俺にも、誰にも言うつもりは無いんだろう。穏やかにはぐらかされ続けるのが目に見えていた。今みたいに。そうしてまたトロデーンの空を飛ぶんだろう。竜の本能か、魂か。
「あの稲光。しばらくは見えないと思います」
エリーがぽつりと呟く。
「なんで」
「だってククールさん、来てくれたでしょう」
木々のざわめきに紛れて大きく息を吐いた。エリーは悪戯が成功した子供みたいな顔つきをして、俺の顔を覗き込んだ。
「エリーはずっと待ってたんです。ククールさん、気ままに旅するって言ってたから。あの結婚式の日になんにも言わず行ってしまったから。トロデーンで待ってたら、来てくれるかなって。そしたら、ほんとに来てくれた」
なんて掴みどころの無いいきものだこと!たちまちすり抜けてしまういきものだこと!成程。こいつは俺がどこかでこの噂を耳にするだろうと。そう考えてあんな風に度々飛び回っていたのだと。ああ、ああ!俺が考えるよりもよっぽどこのいきものは俺の事を好いているのだ!
そんなに好かれていたのなら例の挙式の後、筆まめなエリーくんに手紙の一つでも送ってやれば良かったか。そんな事をする間もなくお綺麗なこの国から逃げるように旅立ったのだけれど。
「姫様にばれちゃったんです、ククールさんを待ってるってこと。ふふ、それで、近衛隊長、やめることになりました」
「自由に生きろって?」
聡明な姫君は誰よりもエリーの幸せを願っていた。どうか、どうか。あなたの幸せを見つけてね。旅の途中に何度か彼女はそう零していた。
「姫様がそうおっしゃったら、エリーはトロデーンにいられませんから」
俺の顔を覗き込んだままのエリーに両手をとられた。小さい手だ。自分よりも大きい槍を扱っているとは到底思えない。そんな手に、ぎゅうっと力強く握りしめられる。胸元で祈りを捧げるみたいに。
「ね、一緒に連れて行ってくれませんか」
きつく、きつく。痛いほど。逃がさないように、離さないようにと。初夏のぬるい風が肌を撫でていった。俺が何を答えとしてもエリーはついてくるだろう。そんな頑固さがこいつにはあった。トロデーンしか無かった近衛兵の生き方に自分がいる。恍惚にも似た感情に支配される。
旅をしながら、本当はどこにも行けやしないと思っていた。魂を置き去りにしたような気がしていたから。だけど今なら、どこへだって行けると思った。エリーは相変わらず俺に向かって笑いかけている。日差しを受けた鱗が金色に瞬いた。
トロデーンでは竜を飼っていた。竜は人知れず、何処かへと消えたそうだ。
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