鬼だったか人だったか
「せんせ」と舌足らずにささやかれた。顔を向ければ子供が私を見上げている。十の子供なのに、真っ直ぐ見つめる瞳は大人びていた。柔らかく、あたたかい手のひらが私の手にしがみつくみたいに握りしめられている。私の子。愛しい子。きり丸はまあるい瞳を瞬かせて再び「せんせ」と呟く。寂しそうに、不安そうに。瞳には私が映っているのに、どこか遠いものを見ている気がした。せんせ、せんせい、土井先生。知らぬ名前が胸の内を刺していく。
「せんせ、ぼうっとしてましたよ」
繋がれた手にそっと力が込められる。握り返してやればきり丸は子供らしくとろんとした顔で微笑んだ。途端に、動けなくなった。胃のあたりが痛む。この子にそんな顔をされる度に、私はどうしたらいいか分からなくなってしまう。私の今までの全てを許された気になってしまう。(許されてはいけないなんて、分かっているはずなのに?)
私の眼前に、黒い地獄に現れた時からきり丸は私を許すみたいに、慰めるみたいに笑っていた。暗闇の中で、恐ろしく赤い彼岸花の中で、それだけは優しくて明るかった。身勝手にもそう思ってしまう。思い続けている。きっと、きっとこの子なら私を。
「せんせったら。ぼくが呼んだらちゃあんと返事、してくださいね」
寂しいじゃないですか。滑らかな幼子の輪郭は太陽に照らされて薄く光っていた。朝の雪が眩しいように、それはやっぱり明るくて。せんせ、せんせ。耳の中で鈴みたいにきり丸の声が響いている。何時までも聞いていられるのに。先生、土井先生。嫌だ、と思う。土井半助。あの男は、きり丸から与えられる全てを、幸福を当たり前のように受け入れていたのだろうか。幸福を、居場所を、許しを、慰めを。私から抜け落ちてしまったもの。遠い出来事に息が詰まってしまう。きり丸は私を呼んでいるはず、なのに。
「私は、お前の先生ではないよ」
ああ、苛立っている。あの男に、土井半助に、嫉妬をしている。そんな声が出てしまった。きり丸も低い声に一瞬困ったような顔つきになった、けれど。きり丸はまた笑った。小さな子供がするような顔でなく、子供をあやす親のような顔で、大人びた瞳で私に笑いかけた。慈しみ深く、甘やかすみたいに。
「でも、きっと、鬼はぼくに優しくないですよ」
私に言い聞かせるみたいに。
「先生は優しいひとだから」
優しい、なんて。お前に最も近しかった男を妬ましく、疎ましく思っているのに! ああ、ああ! 嫉妬と、歓喜。母の慈愛のような笑み。こんなどうしようもない私を。鬼であった私を。お前はそんなふうに認めて、許しを、くれるのか。
繋いだ手を離してきり丸を抱き上げる。私を見下ろす柔らかくて、あたたかい子供。逆光の中でその顔はよく見えなくなった。光に照らされた輪郭だけが眩しい。きり丸はくすくすと微笑む。
「なんなんすか、もお」
頭を小さな両腕で抱き寄せられた。子供の薄い胸。きり丸の心音だけが聞こえる。初めから一つの、そういう生き物みたいに。傷んだ髪を優しい手つきで撫でられる。そうして薄い胸に顔を埋めた。どちらが大人か子供か、線引きが曖昧になりそうだった。せんせ、と呼ばれている。私はお前の先生ではないのに。私が与えられるものは、何も無い、のに。
「お前が言うなら、そうなのだろうな」
きり丸がそう呼ぶのならそれでいい気がした。何も、何も無い私に幸福を、居場所を、許しを、慰めを与えてくれたお前がそう言うのなら。私は鬼でなく人になれる気がした。
「せんせ、ぼうっとしてましたよ」
繋がれた手にそっと力が込められる。握り返してやればきり丸は子供らしくとろんとした顔で微笑んだ。途端に、動けなくなった。胃のあたりが痛む。この子にそんな顔をされる度に、私はどうしたらいいか分からなくなってしまう。私の今までの全てを許された気になってしまう。(許されてはいけないなんて、分かっているはずなのに?)
私の眼前に、黒い地獄に現れた時からきり丸は私を許すみたいに、慰めるみたいに笑っていた。暗闇の中で、恐ろしく赤い彼岸花の中で、それだけは優しくて明るかった。身勝手にもそう思ってしまう。思い続けている。きっと、きっとこの子なら私を。
「せんせったら。ぼくが呼んだらちゃあんと返事、してくださいね」
寂しいじゃないですか。滑らかな幼子の輪郭は太陽に照らされて薄く光っていた。朝の雪が眩しいように、それはやっぱり明るくて。せんせ、せんせ。耳の中で鈴みたいにきり丸の声が響いている。何時までも聞いていられるのに。先生、土井先生。嫌だ、と思う。土井半助。あの男は、きり丸から与えられる全てを、幸福を当たり前のように受け入れていたのだろうか。幸福を、居場所を、許しを、慰めを。私から抜け落ちてしまったもの。遠い出来事に息が詰まってしまう。きり丸は私を呼んでいるはず、なのに。
「私は、お前の先生ではないよ」
ああ、苛立っている。あの男に、土井半助に、嫉妬をしている。そんな声が出てしまった。きり丸も低い声に一瞬困ったような顔つきになった、けれど。きり丸はまた笑った。小さな子供がするような顔でなく、子供をあやす親のような顔で、大人びた瞳で私に笑いかけた。慈しみ深く、甘やかすみたいに。
「でも、きっと、鬼はぼくに優しくないですよ」
私に言い聞かせるみたいに。
「先生は優しいひとだから」
優しい、なんて。お前に最も近しかった男を妬ましく、疎ましく思っているのに! ああ、ああ! 嫉妬と、歓喜。母の慈愛のような笑み。こんなどうしようもない私を。鬼であった私を。お前はそんなふうに認めて、許しを、くれるのか。
繋いだ手を離してきり丸を抱き上げる。私を見下ろす柔らかくて、あたたかい子供。逆光の中でその顔はよく見えなくなった。光に照らされた輪郭だけが眩しい。きり丸はくすくすと微笑む。
「なんなんすか、もお」
頭を小さな両腕で抱き寄せられた。子供の薄い胸。きり丸の心音だけが聞こえる。初めから一つの、そういう生き物みたいに。傷んだ髪を優しい手つきで撫でられる。そうして薄い胸に顔を埋めた。どちらが大人か子供か、線引きが曖昧になりそうだった。せんせ、と呼ばれている。私はお前の先生ではないのに。私が与えられるものは、何も無い、のに。
「お前が言うなら、そうなのだろうな」
きり丸がそう呼ぶのならそれでいい気がした。何も、何も無い私に幸福を、居場所を、許しを、慰めを与えてくれたお前がそう言うのなら。私は鬼でなく人になれる気がした。
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