1章
おなまえ
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「父上、母上、おはようございます。」
「おはよう、名前。」
「名前、おはよう!悪いんだけど手伝ってもらえるかしら?」
「はい、母上。」
名前は江戸の小さな町に生まれた。
真面目で働き者である父と、その父を支える愛想のよい母を持ち、両親から愛されて育った。
父は役人であったため稼ぎも良く、生活は苦しいと感じることは一度もなかった。
ただ、何故か両親は頑なに名前を家の外に出したがらなかった。
理由は今となってはわからないが、名前にとって必要な物は全て家の中に揃っていたし、名前自身もそれが当たり前だったため、疑問を持つことなく、名前は十六になった。
「名前、ついに明日ね。」
「はい、そうですね、母上。」
「良い方が見つかって本当に良かったわ!やっぱり素敵な殿方と幸せになってほしいもの!父上にはまたあとでお礼を言っておきなさいね。」
朝食の支度を手伝いながら名前は母親と話していた。
明日は名前の婿となる男が家に来る。
初顔合わせというものだ。
通常、名前が嫁に行くのが常識的だが、両親が嫁に出すことを心底嫌がったため、父の紹介で婿を見繕ったのである、
幸い、非常に裕福な家であったため探すのも苦労はしなかったが。
「今日はできるだけ早く眠りにつきなさい。明日に備えること。」
朝食を終えると父親は名前にそう言い残し、仕事へ出かけた。
母親と共に見送り、家事をこなして1日を終えた。
いつも通りの1日であった。
明日、自分と夫婦になる男に初めて会うが、全て与えられてきた名前にとってはこれも当たり前、だった。
(実感は、ないなぁ…)
名前が思うのは自分が妻になるという実感が無いということだけであった。
しかし名前は自分の実感や考えは関係なく、与えられる幸せを受け入れる。
それが名前にとって当たり前だからだ。
そう思い、名前は眠りについた。
その日の真夜中、名前は悪寒がして目が覚めた。
いつもなら起きない時間だ。
外は静まり返り、灯りもついていない。
(すごく暗い…それに静か…。いつもこんな時間に目覚めないのに。
それに何、この臭い…初めて嗅ぐ臭い……。)
屋敷の中は血の臭いで充満していた。
ほとんど外出しない箱入り娘の名前は怪我をしたことがない。
人が流す血の臭いを嗅ぐことなど、初めての経験であった。
今まで感じたことのない不快という感情を抱え、名前は襖に手をかけた。
襖を開けて見えた庭先に、容姿端麗な男が立っていた。
「おや。目覚める前に済ませようと思っていたのだが。」
黒髪に赤い目の、背の高い男だった。
名前の記憶には存在しない男であり、家族以外とほとんど会話しない名前がその男に話しかけたのはしばらく経ってからであった。
「っあの…どなた様でしょうか…?私に何か御用でしょうか…?」
「悪いが私にはあまり時間がない。お前を……っ!?」
男が名前に近づこうとした途端、男は不快そうに鼻を覆った。
お互いに臭いによって顔をしかめている、少し不思議な状況だった。
しかし二人が不快に感じた臭いは異なっていた。
名前はもちろん、初めて嗅いだ血の臭いに。
男は…。
「なんだ、お前のその臭いは。」
「は…?」
初対面の、ましてや男に自分の臭いを指摘されたことに名前は愕然とした。
(いや、毎日湯浴みしているし…!というか誰なの、あの人…!?)
名前が男を訝しげに見ても、男の表情は変わらないまま名前を見つめていた。
しばらくすると男は納得したように、名前の聞きなれない言葉を発した。
「貴様、忌血か…?」
名前は一つ瞬きをし、男の言った言葉を理解しようとした。
しかしこれは世間知らずな名前でなくても、人間は知りえない言葉であったため、絶対に理解はできなかった。
そんな名前にかまわず、男は不快な表情を隠そうとせずに、名前に近づき、首をつかんで持ち上げた。
「あぁ、本当に臭う。貴様の血は鬼にとっては毒だ。
この場で血を流されると私が困る。このまま窒息してしまえ。」
男が話す中で、名前は初めての苦痛を味わっていた。
(くるしい……なにこれ……。
こんなの、知らない…)
名前は知らない感覚を感じつつ、目の前の男を見つめていた。
(知りたくない…こんな感情…知りたくない……!
私、このまま死んでしまうの…?)
与えられたものだけで生きてきた名前が初めて感じた、死への恐怖と生への欲求。
その欲求に従って名前は初めて自分で考え行動した。
その直後、窒息の苦しみから解放された。
「貴様…この状況で血を…」
名前は自身の爪で自身の腕を引っ掻き、腕からは微量ながら血が出ていた。
その臭いが男を名前から引きはがしたのだ。
男は眉間にしわを寄せ、さらに不快そうな表情をしながら、肩で息をする名前をにらみつけた。
「しょうがない。その臭いを私自ら上書きしてやろう。」
そういった瞬間、名前の首に何かが刺さり、体の中に何かを入れられた。
「う……が、ああああああああああ!!!!!」
名前はこらえきれない痛みを感じ、叫び声をあげた。
もう何も考えられなかった。
意識を失う直前に、目の前の男の声が聞こえた。
「これで貴様も、鬼となる。」
目覚めると、まだ辺りは暗かった。
もうあの男はおらず、名前は悪い夢を見たのだと思った。
(ひどい夢…。水を飲もう……。)
ふらつく体を起こし、水を飲みに廊下を歩いた名前が目にしたのは、
「そんな………」
無残な姿になった父と母であった。
そのあとのことを名前は覚えていなかった。
何も失ったことの無い名前が初めて失くした両親という存在は、名前にとって生きがいであり、生きる術であった。
それを失くした彼女は生き方がわからなかった。
しかし先ほどの男とのやりとりで、生への強い欲求が体に染みついてしまった。
両親以外の生きがいを無理にでも見つけないと、名前は生きていけなかったのだ。
その結果、彼女が覚えていたのは『自身を鬼に変えた男の顔』と『両親を殺された憎しみ』であった。
そうして名前は鬼となった。
彼女の目的はただ一つ、両親を殺し、自分を鬼に変えた男の抹殺であった。