アレーヌ制圧後の話

 

身体は泥に塗れていた。幾度洗い流せども踝あたりに纏わりついて離れない其れは何時しか引き波を寄せ付けなくなり、己の表皮に、皮下に、ただただ堆積してく。



+++++



「顔色が悪いな。ちゃんと寝れているか」
「同室の誰かさんの喧しい寝息が無ければ幾らかマシになるんだが」

それは災難だな、とまるで他人事であるかのように悪びれる様子を微塵も見せない同僚は湯気の立ち上る珈琲杯を目の前の机上に置いた。

「…白湯とは随分と手抜きなことで」
「お前は望んでカフェイン中毒にでもなるつもりか。セレブリャコーフ少尉を共犯にしていることも感心しない」
「相変わらず目敏いな」
「いいや違うな。鼻が利くんだよ」

 デグレチャフ少佐秘蔵のチョコレートの所在を把握している俺が珈琲豆の在処を知らない訳が無いだろう、と自信有り気に胸を張った彼は一遍少佐殿に絞られた方が良いのではないだろうか。―――否、絞られる立場と言うならば自分も彼と変わらない。寧ろ罪の程度で言えば自分の方がより重罪に問われるべきなのだろう。
 副長の療養休暇明けまで残り数日間、それまでに処理を終わらせておきたい業務に加えて日次・変則的に発生する副長業務と自身の手持ち分が合わされば、要領が良い自覚がある自分といえどもそれなりに負担を感じているのは事実である。それであるからアレーヌ市の戦闘を終えて一時的な措置であるにせよ大隊毎後方配置となっている現状は大変有り難く思えた。次席指揮官不在に於ける対処を身を持って知ることが出来るまたとない機会なのだから吸収するものは多い方が良い。残された時間を思えばパフォーマンス向上の為にも代用珈琲では事足りぬ。

「気負いすぎだと思うがなあ」
「決してメンタル面の問題では無いのだがな。そういうものとは違うさ」
「お前がそう言うならそうなんだろうけど」

 ノイマンは同調の言葉を口にしながらそれでも納得のいかないといった含みのある表情を浮かべた。彼を一目盗み見て、そして直ぐに視線を外して目の前に用意された珈琲杯に口を付けると無味の熱が口腔内を満たしていく。ここ数日享受していた香薫な刺激を期待してしまっていた味覚と脳は、白湯だと理解していたにも関わらず相互の信号を処理しきれずに混乱を極めている。意味も無い焦燥に駆られる感覚に気がざわざわと波立って酷く落ち着かない。

「俺の邪魔しに来たという訳ではないのなら今すぐ宿舎に戻ってくれ。遣りたいことの目途は付いている。大丈夫だ、無理はしない」

 成る丈いつも通りの声音に聞こえるよう努めて彼の退室を促してみるものの、ノイマンは執務室から出る素振りを見せようとはしなかった。彼のくすんだ蜂蜜色の髪を更に色濃く映えさせる室内照明は、何処からか入り込んだ羽虫が焼け焦げる『ジリ』という音とともに僅かに揺らぐ。

「…俺個人としては何を焦る必要があると思ったりはする訳で」
「隠しているつもりは無い、が」

 やはりお前は目敏いよ、と言い掛けてケーニッヒは言葉を発するのを止めた。東部戦線からそれなりに付き合いのある彼に対しては今更皮肉も何も通用しない。副長のように実直な人物であれば話術である程度煙に巻くことも可能ではあるが、ノイマンは見た目や朗らかな性格からは想像出来ない程に存外に思慮深く、そして彼もまた『こちら側』の人間だった。デグレチャフ少佐自ら率いて兵力均一化を成し遂げた我らが大隊も、先日の戦闘で―――とある明確な線引きが浮き彫りになってしまっている。幸いPTSDに至る者は現時点で現れておらず、ある者は一過性の睡眠障害程度に治まっていることを考えると大隊内の健康被害としては出来過ぎなくらい支障も軽微なものであった。
 ケーニッヒは少し思案する素振りを見せたかと思うと、自席に積み上げた書類の束から一冊、大口のダブルクリップで纏め上げた報告書を抜き取り、其れをノイマンに手渡した。彼は表紙から順に数ページを流し読みし、その後は付箋の付いたページのみを黙読してからケーニッヒに視線を戻す。

「俺だってセレブリャコーフ少尉に無理をさせている自覚はあるさ」

ケーニッヒは湯気が立ち上らなくなった白湯を、舌先を湿らす程度に口に含んだ。

「二人の行動に咎める節は無いけどよ…これはあまりにも」

 ノイマンの言葉が途切れたことで二人の間に静寂が立ち込める。
『市街地戦における戦時国際法の解釈と火災旋風による敵兵力殲滅』―――後に『悪魔の計画書』を呼ばれたレポートの写しは、内容から察するに機密性並びに秘匿性が極めて高い書類であることに違いない。例え実行部隊の基幹要員であったとしても本来であれば触れることすら無かった代物の筈だ。理路整然と並びたてられた非の打ちどころの無い解釈に彼は猛烈な眩暈を覚えると同時に、自分を含む数名はこの文体から感じた妙な違和を、確信のものとさせるだけの慣れ親しみに変換せざるを得なかった。白抜きにされた著者欄に、とある人物の名前が空目する。

「『此れ』が一番初めに下りて来たのはセレブリャコーフ少尉だ。彼女の様子から察するに、彼女自身も作戦前は全容を把握していなかった」
「後処理段階で少佐殿が『其れ』を必要と判断した、と」
「本来であれば副長までに留めておく内容だが…、俺達もごたごたとしていたしな。…其れで俺に御鉢が回って来た訳だ」

 中隊を率いる指揮官として、―――今までにも命令の言外に含む意図も汲んできた身としては機密事項に関わることに抵抗は無い。何時しか当たり前の様に感情を排することに馴染んでいた身体は、兵器が人の皮を被り人間に成り済ましているのではないかと錯覚することも度々あった。燃料の代わりに食物を、メンテナンスの代わりに睡眠を。機械が経年劣化するように自分の身体もどこかが擦り減っていく。戦車の履帯に詰まった汚泥が完全には拭い去れないように、洗い流せぬ何かが徐々に己を侵食していた。




+++++





「その優しさはお前の長所だと思うよ」



 ノイマンが発した言葉が自分に向けられていることに気付くまでに数秒間を要したケーニッヒは、普段の眼光から想像も付かないぽかんとした間抜け面を彼の眼前に晒した。意味が分からないといった表情を向けると、目の前の男は分厚いレポートを机上に伏せて手放した代わりに自分用に淹れて来たであろう代用珈琲を手に取る。

「ヴァイス中尉の療養が明けるまでにアレーヌ市関連の処理を終わらそうとしている…そうだろ?」

 ノイマンはミルクも砂糖もましてやスプーンすら用意されていない珈琲杯を受け皿の上で半回転させた。此の男は中流階級の出であるけども、ケーニッヒが知る限りは要所以外で共和国式の会食所作を見せたことは無く、敢えてそうしているのだと受け取ってしまう自分に対して眉を顰めた。彼が代用珈琲を一口分飲み干したのを見遣ってから口を開く。

「…副長代理の責務を果たそうとしているだけだ」
「副官業務を圧迫してまで処理を急がせるならもっとマシな嘘を吐けよ」

 にやりと笑みを浮かべたノイマンと相反してケーニッヒの表情はぎしりと軋んだ。副官には彼女の業務があるというのに『此れ』の優先順位を上げて時間を割いて貰っているのは事実で、彼女の協力が無ければ今夜中に仕上がる目途すら立たなかっただろう。セレブリャコーフ少尉自身も『こちら側』の人間であるが、彼女にもその自覚があるからこそ処理を急ぐべきだと意見が一致した故の共同作戦のつもりであった。療養明けに何らかの引き継ぎは必要にせよ、『例のレポート』の仔細までも彼に触れさせる必要は、無い。

「副長殿には『こちら側』にきて欲しくないと言えば正直なところそれは事実であるし、更に言えば只のエゴだということも理解している」

 軍人として自分の先を一歩往く彼が、そして戦禍に身を置きながらも人間として正常な感性を持ち得る彼が羨ましくあった。自分が今次大戦でどれだけの戦果を打ち立てようとも、後者は今世で手にすることは叶わないのだろう。だからこそ、彼には今あるものを手放して欲しく無いと思っている。その点に関して云えばグランツも同様だった。
彼らを眺めていると浅瀬で感じた柔らかな波の感覚を思い出せそうな気になって、己に纏わりついた砂も泥も、引き波に引き連れられて指の隙間をするりと抜けていくのではないかと淡く期待している自分がいた。そういった虚しい期待は早々に消し去ったつもりでいたれども、近しい関係にある彼らの存在は、酷く、眩しい。


「お前は存外自分の事に頓着しないというか…自覚的なところがないよな」
「自己評価を低く見積もっているというなら俺は今頃KIAか良くてMIAだろうよ」

 戦場において咄嗟の判断が命取りになることは自身の実体験からも嘗て同じ戦列に肩を並べた朋友からも嫌と言う程理解している。勿論、運という不確定要素も合わさって今日まで生き延びることが出来ているのだから、一概に全てが自身の実力とは言い切れないのも確かだ。参謀本部第六〇一編制委員会―――例の第二〇三航空魔導大隊の志願募集が無ければ、今頃も東部戦線で冷や飯食らいの日々を送り、いざ戦端が開かれた際、嘗て己が率いた小隊があっけなく瓦解していく様が容易に想像出来る。

「女性を軟派する際の自意識過剰振りは一体何処へやら」

 ノイマンは代用珈琲を先程と同じように一口分、静かに口に含んで目蓋を伏せた。体躯に似合わず何処か気品を感じさせる所作と相変わらずの涼し気な表情に無性に悪態を吐きたくなる衝動に駆られるが、帝都やその他の失敗を引き合いに出されてしまうとぐっと言葉に詰まる。事実、初対面の女性の扱いにおいては俺も副長殿も彼に一日の長を認めざるを得なかった。



「其れが『此れ』とどんな因果関係があるんだろうな」

 机上に伏せられた『例のレポート』に視線を送ると自嘲めいた乾いた笑いが自然と漏れる。
 何時しか降り出した雨粒が窓硝子を叩き始める。季節は初夏を迎え春嵐の時期は疾うに過ぎたというのに、窓の外で温く湿度を孕んだ風が低くうねりを上げている音が室内にまで入り込んで空間を支配し始めていた。昨夜まで身体の芯に届いていた前線の地響きは今宵は掻き消されている。

「今更少佐殿の意図を違えるお前じゃあるまいよ」

窓の向こうを見遣ると鈍鬱な雲の切れ間から、一閃、西の空を照らす稲妻が走る様が視界に映えた。前線の照明弾を想起させる瞬きに僅か数日の間で温かな室内照明に慣らされた瞳孔が僅かに縮瞳する。吹き荒ぶ雨風のうねりが邪魔をして、雷鳴が耳に届かない距離に落ちたのかどうかは今の自分には判断が付かない。

「あの方のお考えなんて、俺達の考えが及ばないものばかりじゃないか」
「俺が言いたい事は人徳の話だよ」

彼はやれやれと態とらしい溜息を吐くと呆れたような半目で視線を寄越した。

「劣等感…、とは違うな。お前がヴァイス中尉に抱いている感情は羨望に近くて、デグレチャフ少佐に対しては崇拝の域に足を踏み入れている。だからといって彼らに認められているという自負も期待さえも他人事として俯瞰・処理する節がある」
「…事実かどうかは別として、機械的に感情を排することの弊害があるとでも?」
「その感情の置き方は『こちら側』とは関係が無いな」

 次第に強まる雨足が窓枠の向こうにある街灯の明かりを揺らがす。雨が此の儘明朝まで降り続けば道路脇の排水溝はキャパシティを超えて溢れ出てしまう勢いに、一晩雨に打たれ続ければ、己が内に蟠った汚泥を一時的にでも洗い流せやしないだろうかと再び淡い期待を抱かせる。そういう利己的な感情は持ち合わせている癖に他者からの評価には疎いなんてちぐはぐな事をしていると、目の前の男はそう言うのか。

「気負いが無いというのなら堂々としていれば良いんだよ」

ノイマンは自身の杯に残る代用珈琲を飲み干すと、やはり代用は飲めた味では無いな、と今更なことをぼやく。

「隠すつもりは無いと言っただろう」
「―――少佐殿も案外お優しいからな。少尉とお前が秘蔵の珈琲をこっそり拝借している事も承知の上だぞ」

 ああ、やはりご存知でいらっしゃったかと、同僚から齎された情報に自然と溜息が漏れる。何れ知られてしまう事だと理解していながらも共犯者として暗躍することを了承してくれたセレブリャコーフ少尉には大変申し訳無いことをしたと自責の念に駆られる。

「道連れにするなら今度は別の奴にしろよ。なんだったら次はチョコレートの在処も教えてやる」

 男は空の杯を指で弄びながらにやりと口角を上げた。どちらかというとお前は書類仕事は不得手としていたじゃないか、と出掛かった軽口を言葉に乗せる前に喉がくつくつと込み上げてきた笑いを押し殺す。自分の様子に釣られた彼も笑いを噛み殺すように胸の前で両腕を組み、僅かに漏れ出た声に耐えながら巨躯を小刻みに震わせている。互いに一頻り耐え抜いて息を整えていると、ここ数日誤魔化してきた疲労感がずん…と身体に圧し掛かる感覚が押し波の如く襲ってくるようだった。―――三時間前に摂取したカフェインの覚醒効果もそろそろ限界に近いようだ。

「まあ、そうだな。…次の機会があれば、な」

手元の珈琲杯を手繰り寄せ其れを一気に飲み干す。用意された白湯はすっかり熱を失いカルキ臭の抜けた只の水に成り果てていたが、食道を通り、腑に馴染んでいく爽快感はケーニッヒの身体を少しだけ軽くする。

 沛然とした雨が雷雲を伴って東の空を蝕み始めている。其の輪郭を顕わにするように一筋の閃が空から地へと落ちたかと思うと地鳴りのような震動が執務室の壁を震わせた。
 遠くに聴こえていた筈の轟音はもう直ぐそこにまで迫っている。


4/4ページ