幼女戦記(二次創作)

 


 「38℃…」




 朝日も昇らぬ薄暗い部屋の中、現世の日本でも廃れた水銀体温計を右手でゆらゆらと揺らしながらターニャは溜息混じりに小さく呟く。発した独り言と視覚からの情報がじわじわと脳に滲み渡って来て、思考が五感の一部に追い付こうとした瞬間、『すとん』と音を立てて何か抜け落ちるような音がした。
空いた穴は大層なものでは無い筈だった。
だが、自身が自覚する以上に今の私は落胆しているらしい。
 
 
 (私にしては珍しく、私用で出掛ける予定があったのだがな)



 熱だけならまだしも、天候にも恵まれないとは……と窓硝子越しに曇鬱とした空を見上げる。
風で揺らぐことも無く、只管に寒気を帯びて細く静かに地面を穿つ雨粒は彼の連合王国の紳士連中であれば気にも留めない雨模様なのだろう。傘を差せばとても遣り過ごせないものでは無いが、かと言って折角の休日を此の寒空に晒して過ごした結果、翌日の軍務に支障を来すなんてことになったら……そう思うと気分も足も外へ向かない。
 只でさえ此の様な幼き身体なのだ。子供の身体というものは大人が思う以上にいとも簡単に病魔に罹患する。
前世日本のサラリーマンとして生きた頃の自分であれば、たかが発熱程度のこと、自分の会社での立ち位置・役割を考えれば事前にあらゆるリスク回避を講じて来たし、其れでもどうにもならなければ、『気合い』という悪習染みた日本社会特有の奴隷根性で場を切り抜けて来た。
 だが今の此の身ではそうもいかない。
 
 窓の外の雨模様から視線を部屋の内側へと戻す。
壁に掛かった白く滑らかな生地の其れに目が留まると再び嘆息が漏れた。
折角用意した真新しいワンピースも綺麗に磨き上げられた靴も全てが用無しだ。次にこれに袖を通すの一体何時の機会になるのやら。



(嗚呼、何を考えてても頭が痛い)


 
 昼前に外で待ち合わせる約束をしていたあの男には断りの連絡を入れなければならない。
自分と相手の立場上、衆人の前で話さなくてはならないような事態は極力避けたいと思い、ベッドサイドにある置時計に目を向けた。
――――朝食の時間にはまだ大分余裕があるから、多くの隊員は日頃不足している睡眠を貪っている筈。
休息日で尚もこんな時分に目を覚ます人間はある程度限られてくる。あの男は間違いなく後者だ。
寧ろ夜明け前からライフルの整備若しくは誰も居ない講堂辺りで独り剣の鍛練でもしているのであろう。
それでも見つからなければ、……いや、彼の自室を訪ねるのは最終手段にしておきたい。

 今日の予定をキャンセルしたいと伝えたら彼はどんな表情をするのだろうか。
何時ものように感情を隠して何でも無い素振りで笑うのだろうか。
そう考えると気が重い。心なしか頭痛も先程から増して悪化しているようにも思える。

 ……兎にも角にもまずは彼を探さないと。
ベッドの上で鉛と化した身体を叱責して、ターニャは廊下へと繋がるドアノブに手を掛けゆっくりと引いた。
 
 




+++++++








「おや、これは少佐殿。おはようございます」




 尋ね人は拍子抜けする程あっさりと見つかることとなる。
先ずは男が居そうな講堂へ向かおうと薄暗い廊下を抜け、階段に差し掛かったところでターニャの歩みはぴたりと止まった。腕を組み、踊り場の壁に背を預けて直ぐ横の窓から目線だけで外を眺める男――――ケーニッヒは此方の気配に気が付いて、組んでいた腕をゆるりと解いた。
そして其の場に立ち尽くしたまま、階上の私を一瞥して目を伏せる。




「―――――雨、ですね」


 

 世間話でもするかの様に紡がれた言葉に、ターニャは反射的に息を止めた。
何かと察しが良い此の男は一瞥しただけで、私が一言も発しない内に何を言わんとしていたかを全てを理解したらしかった。
ケーニッヒに告げようと用意していた言葉は彼の一言で完全にタイミングを失い、ターニャの腫れた喉に突っ掛かったまま声にすることは叶わなかった。
かといって其の儘飲み込むことも出来ず、今朝から燻る喉の異物感と共に吐き出すように、ひとつ、盛大な咳を溢す。
気管支の違和が僅かに解消した一方で、炎症を引き起こしている咽頭部の不快な感覚が強く襲って来て思わず顔を顰めてしまう。
 黙り込んだ儘のターニャの様子を一頻り眺めた後、顰め面になった彼女を見てケーニッヒは表情を崩す。



「そんな顔をされなくても良いのです。また機会はありますよ、きっと」




 ターニャが彼の言葉の意味を処理しようと思考を巡らせた瞬間、(少なくとも今の彼女にとってはとても僅かな時間のつもりであったのだが)十余段階下にいた筈の男は何時の間にやらターニャの直ぐ近くまで段差を上り詰めていて、彼女の佇む二段下で足を止めた。先程の崩した表情を残して、ターニャの右手に触れる。ただ、触れるだけ。
 目線の高さは大分近付いた筈なのに、目の前の彼は、何時もよりも随分と、遠い。
 



(私と此の男の間には何時だって言葉が足りない)




 腫れた喉がうっとおしくて恨めしい。
 
 





+++++++






 ターニャはケーニッヒに右手を引かれるままに自室の前まで連れられて来ていた。
終始無言で行き先も告げずにエスコートを受けることを強要されるというのは正直なところ恐怖心が募る。
其れに加えて私達の関係性が周囲に露見する事態は堪ったものじゃないと抗議することも考えたのだが、何故だか彼の腕を振り解くことが出来なかった。
 幸い、誰とも擦れ違うことも無かったことに思わず安堵の息が漏れる。
 


「わざわざ送って貰わなくても良かったのだがな」

『けほっ』掠れた咳払いが漏れると同時にどちらからとも無く二人の手が離れた。
 
「結局、誰にも見られることが無かったのですから良かったじゃないですか」
 ケーニッヒは先程まで繋がれていた左手を顔の横に挙げてひらひらと揺らしてみせた。
お道化ているつもりなのか、薄い唇を真横に引いて目を細めた笑みを浮かべている。

「では小官はこれにて。……後でそれとなくセレブリャコーフ少尉に伝えておきますから、其れまでは部屋で安静にしていて下さいね」

 彼はそう告げると二歩後ろに下がり(其の二歩が私から必要以上に距離を取っているかのように思えた)、略式の敬礼を取った。つい先程まで手を繋いでいた仲だというのに、彼の中では既に上司部下の関係へと切り替えが行われている。

「済まなかったな。埋め合わせは考えておく」
「はは、期待しておりますよ」

軽い口調で笑い流して、先程と全く同じ笑みを張り付けている。




 此の男は本心を語らない。
かく言う私とて此奴と同じだ。
適度な距離感と疑似的な関係性を求めた結果、利害が一致しただけに過ぎない。




(なのに、何故だ)


 先程まで右手に感じていた男の体温が急激に冷えていくのが恐ろしく思えて、慌てて彼の軍服を掴む。
咄嗟に出た行動は自分でも理解出来ない。



「……少佐殿?」

『どうかされましたか』と続く言葉を振り切って口を挟む。



「もう少しだけ、私に時間をくれないか」
 
 

 過度の干渉は煩わしいとさえ思っているのに、こうも虚しく、寂しく感じてしまうのは、彼が何時まで経っても感情を隠そうとする所為だ。
 
 




+++++++







 咄嗟に出た行動とは言え、勢いの儘にケーニッヒを自室に引き入れてしまった。
体調が万全であれば、雨など降っていなければ、彼と休日を満喫出来る筈であったのだ。
なのに、此の儘寝床で独り今日一日を潰して終わるなんて寂しいにも程がある。
第一、此の男が悪い。
当初の予定のキャンセルすることになってしまった原因は私だが、其れに対して文句の一つも言わずただ聞き分けの良い『お利口』を演じるケーニッヒに非がある。
そうだ、私は悪く無い。
 ターニャは自己弁護に偏向した超絶理論を展開して自分の中で折り合いを付けた。

 当のケーニッヒは初めて招き入れたというのに特に慌てる様子も無く、遠慮無く室内を横切り窓際に佇んでいる。
外の景色に背を向けてもの珍しそうに室内を見回している様子以外からは特に普段と変わったところは無い。
 
(其れはそうとして、引き留めたのは良いものの、此の男と何を話せば良いのだろうか)

私の方から『時間をくれ』と言ったは良いが、実際のところ落ち着いて話す話題らしいものは何も無かったことに気が付く。

(引き留めた手前、直ぐに追い出す訳にもいくまい)

 此の部屋の主は自分であるのに、私と彼の間に流れる此の沈黙は妙に居心地が悪い。
此の状況を打破する切っ掛けでもあれば良いのだが、熱を持った頭で幾ら考えようとも切り出す話題は録に浮かんで来ない。もう自分でどうにかしようとする事は諦めて、ケーニッヒの様子を窺おうとして視線を向けると、彼はベッドの対角の掛かる壁を見つめていた。
否、『見つめている』と云うよりも、寧ろ意表を突かれたというという表情をしているといった方が正しいか、彼は薄い唇を軽く開いた儘微動だにしない。
訝し気に思い彼の視線の行方を追ってターニャも同じ一点に視線を投げると、其処には今日の為に用意していた、白いワンピース。
 



「……もしかしなくても、今日は此れを御召しになるおつもりで?」




サーっと音を立てて血の気が引いていくのが自分でも分かった。



( 片 付 け し 忘 れ た !! ) 
  
 




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「こ、これはだな!セレブリャコーフ少尉が一着くらいは年齢相応の服を持っておいた方が良いと言うのでな!
 でも私の背丈ではこのような服しかサイズが無くて……!!」
 
 口に出て来た言葉は弁明ですら無い。血の気が引いた顔がまた熱を帯びて来るのを感じて、ターニャはこれ以上無駄に言葉を紡いで足掻くのを諦めた。
 
「……柄では無いと笑ってくれても良いのだぞ」

 有るまじき失態だ。
年相応の服など着てしまえば後はどうにでもなるかと思っていたが、着る前の其れを目の前で晒されている事態は耐え難かった。

「まさか!俺の為に用意してくれたのでしょう?
……貴女が此れを着ているところを見られないのはとても残念ではありますが」
ケーニッヒは珍しく声を弾ませてそう言いのけてみせた。

 ( 嗚呼、もうどうとにでもなれ )
自棄気味な思考に陥った今のターニャに羞恥心など無い。
 
「なんだったら今、此処で着てみせようか」
どうせ着るつもりだったのだ。今更何を恥ずかしがる必要があるのだ。
 



「いいえ、それはご遠慮して頂きたく」

 
「………、は?」

『ぴしゃり』と拒絶の音が駆ける速さで空耳し、ターニャの提案はにべも無く却下された。
 

「ご婦人の着替えを堂々と覗くなんて不粋で破廉恥な行いはしたくありません」

 なんと素晴らしい。此方が撒いた餌に食い付くこともせず、下心の一端も見せずに断るなんて彼はとても紳士な男性なんだろう!!………熱のせいか私の思考は随分と可笑しくなってしまったようだ。
身体に思考が引っ張られているとは言え、流石にこれは無い。
よくよく考えてみれば『なんだったら今、此処で着てみせようか』なんて、この発言も相当脳にキている。
 ターニャは頭を抱えた。
蘇ってきた羞恥心と遅れて来た自己嫌悪で引っ掻き回された脳内で今までに無い苦痛に耐え喘いでいる。
そんな涙目の彼女を尻目に、ケーニッヒは『ひとつだけ、我儘を訊いてくださりますか?』と妙に抑えた声で話し掛けた。



「………なんだ、今更」 

「其処にある靴を、履かせて頂きたいのですが」

 『其処』と彼が指差したのは壁に掛かるワンピースの下に揃えて置いてあるエナメルパンプス。
パンプスと言ってもターニャの足に合う大きさのものなのだから、如何にも少女向けの可愛らしい色合い。
せめて装飾は殆ど無い物を選んだつもりであったが、この男、ぴかぴかに磨かれたこの靴を甚く気に入ったらしい。



(こいつのツボがイマイチ分からない)



疑問符を浮かべながらも履いている軍靴を脱ぎ始める自分の行動も理解出来ない。
 
 





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 ベッドに腰を掛けたターニャは素足になった両足を床に触れない程度にぶらぶらと揺らしていた。
ぴかぴかに光る靴を持ってきては愉しそうに床に跪いた男は、下ろし立ての白い靴下を膝に置いて手拭いを右手に、もう一方の手でターニャの足に触れた。
まるで硝子細工に触れるような手付きに擽ったさを覚えて『っ、勿体ぶるな』と声を上げたが、彼は支えるように持ち直しただけで此方の意見は汲んでくれないらしい。
 清潔な手拭いで足裏から指間まで丁寧に拭われるというのは、恐らく乳児以来のことであったし、自分でも中々触れ無い箇所であるから、ましてや他人にこうも丁寧に扱われるなんて思っていないだけに今の状況は耐え辛いことこの上無い。じりじりと迫るような擽ったさから解放されたくて思わず蹴り上げてしまいたくなる衝動を必死に抑えて、両手に握るシーツカバーの皺をめいいっぱい濃く刻んだ。
ケーニッヒは相変わらず此方の様子は意にも介さず、ただ目の前の作業に没頭している。
不意に彼の顔が近付いて、持ち上げられた爪先に吐息がかかるのを感じてふるりと肩が震える。
そして固く閉じていた唇が揺れた身体に呼応するように弛緩して 『 っんぅ、ぁ 』 堪らなく声が漏れた。

 
 雌のような声を上げた自分に驚いてターニャは口元を両手で覆った。
どくどくと脈打つ鼓動が耳の奥で鳴り響く。血液の流動があっと言う間に全身に駆け巡り、先程までとは比べ物にならない位の熱が再び顔に集まっていく。
焦燥と興奮で一気に荒くなった呼吸を無理矢理抑え込んでいる所為で、涙が滲み視界がぼやけ始めた。

 そんな彼女の反応を愉しみ尽くしたのか、男はすぅっと目を細めて満足そうに笑い、先程までたっぷりと時間をかけていたことが嘘のようにあっという間に両の足に白い靴下を履かせた。
――――『そろそろ休まれませんと、治るものも治らなくなってしまいます』だと?
 

「――――は…っ靴は、…もう良いのか」

 整わない呼吸の合間に言葉を絞り出す。
言下に『私をこんな風にしておいて』と恨み言を込めてやったのだが、涙目のまま睨みを利かせてはなんと威厳の欠片も無いことか。
 彼も意に介さず、只管満足そうに笑みを溢した。
 


「ええそうですね。……愉しみは今度にとって置くことにします」


 ケーニッヒは再びターニャの足先に触れる。
思わず硬直したターニャの様子を一瞥し、直ぐ視線を落とした先――――まっさらな靴下に覆われた足先に唇を寄せて、足の甲から爪先へとゆっくりとキスを落とした。




なんて酷い男だ。





(此の熱は当分下がりそうに無い)
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