アレーヌ制圧後の話

3.野晒し




朝風に晒した金糸の髪が額を発き、彼女の顔立ちの稚なさを一層と引き立てていた。
手套も付けずに湯気が緩く立ち上る珈琲杯から伝わる熱だけで悴んだ指先を温める彼女は、涼やかな目元で東の空を見つめている。ストラスブール大聖堂のバラ窓を彷彿とさせる瞳は、ステンドグラスに光を取り込むかのように、二、三度瞬きをしてから此方に向けられた。

「漸く御目覚めか、中尉」

宵闇を含む雲の堆積の合間から煤と砂塵が舞い上がり、朝景色を背負う彼女を翳らせた。




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『”麗しのアレーヌ”』

嘗て贔屓にしていた娼婦の一人が、望郷の街の名をそう呼んでいたことを思い出す。
民間人レベルで帝国と共和国間の行き来がまだ可能であった開戦前の会話であるから、もう随分と昔の話だ。

『石造りの建造物が美しい街並みと、眩暈を覚える程の空一面に拡がる朝焼けが好きだったのよ』

香を焚き占めた薄暗い寝屋で、カーテンの向こう側から射す淡い光に顔を向けながら何とはなしに呟く。
乱れた呼吸が落ち着いて、漸く事後の気怠さが全身を満たし始めた時に不意に投げかけられた言葉は、夜の帳を下しかけていた脳に待ったをかけた。
何か気の利いた言葉を返そうと思考を巡らせている内に女は続け様に口を開く。

『機会があれば是非貴方にも見に来て欲しいわ。きっと気に入ると思うから』

窓の外に向けられた視線をゆるりと戻して顔ごと此方に向き合うと僅かに口角を上げて目を伏せる。

時折共和国訛りを交じり話す女は生まれ故郷の事を口にしたあの時だけは曇りの無く稚い表情をしていた。
顔に掛かる乱れた髪を其の儘に、薄く引かれた紅とすっかり拭い去った化粧っ気の無い殆ど地顔である所為かもしれないが、普段と違う彼女の雰囲気に内心戸惑う。
口数は多く無く寝台でも愛想が良いと言えるほどでも無い。其処らの娼婦のように必要以上に媚びることもしない女であったから、事後の余韻を鬱陶しいと思う自分には都合が良く、身体の相性もそう悪くなかったこともあって過去何度を肌を重ねて来たものの、ああそういえば今まで一度も互いの身の上話などしたことがなかったのだと気が付く。

『―――卯の花腐す此の天気も悪くは無いのだけれど』

ぽつりと、寂し気にそう呟く横顔を覗き見ると女は既に仕事の顔に戻っていった。

窓の向こうからじわじわと室温を侵蝕する冷気に肌震わせ身動ぎをすると狭い寝台がギシリと軋む。
暖を求めて本能的に擦り寄った女の柔肌がぶつかり、そのまま肩を抱くようにして此方へ引き寄せると、勢い余って『ゴツン』と硬い音を立てて胸板を女の額と正面衝突させてしまう。
―――多分それなりに痛かったのだと思う。
女がすっと伸ばした両手が頭部を掴み無理矢理顎を引かせて顔を突き合わされると、暗がりでも分かる程度に瞳を潤ませていた。


『貴方の方こそ今日は≪らしく≫ないじゃない?』


瞬きの音がきこえる程の至近距離で愉しそうに声を弾ませている。その一方で目の端に溜まり今にも零れ落ちそうな涙を必死に耐えていて、彼女は笑いたいのかそれとも泣きたいのか、どっちつかずの表情を浮かべている。それが何だか無性に可笑しく思えてつい吹き出してしまうと、女は仕返しと言わんばかりに上唇に噛み付いてきた。



夜半からの降り続く雨粒は今もカーテンの向こうの窓硝子を湿らせている。






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焼夷剤と燃焼ガスの悪臭は市街に注ぐ北西風で綺麗一掃洗い流される…という事も無く、燃え残る焼夷剤そのものが今も尚辺り一帯に立ち込めている。人体が焼き爛れた臭気と共に肺の底でブレンドされ出来上がる重苦しい空気の淀みは、自身の体内ですら焦土と化したこの街の一部では無いかと錯覚してしまう程それはもう酷いもので、そして、一つ呼吸をする度に只管に不快な思いを反芻しなければならなかった。

部隊内外問わず周囲の悪臭に己の酸で胃と食道を焼く者も居るようだが、自分の身体に与える影響としては嘔吐の誘発には至らない程度の刺激に過ぎない。泥と排泄物に塗れた死体の数と其処から漏れる腐敗ガスの程度で云えば現状はライン戦線よりは大分マシだ。

負傷離脱したヴァイスから次席指揮権を引き継いだケーニッヒは、副長代行職務を全うした後『周囲の様子を確認しておきたい』と一言副官に告げて休息を取る隊員達の輪から離れた。

日が沈んでから彼是六時間は経過しただろうか―――市街地は半端に吹く北西風の所為か季節は疾うに五月を迎えていると云うのに妙な冷え込み方をしていた。日中は輻射熱の波が市街を襲っていたとは思えぬ程に。
外套の襟元に触れすっかり上がり切ったファスナーを握り締め襟口を口許まで引き上げる。呼気が白く染まる程の外温では無いにしろ今宵は酷く寒い。

夜営地の明かりを背にして腕時計に目を落とす―――後数十分もすれば日付も変わるのを確認して飛行ユニットの装着に取り掛かる。
第二〇三航空魔導大隊に撤収命令が下されるのは少なくとも明朝以降であろう。
残敵掃討後の即時撤退・帰還をデグレチャフ少佐を含めた大隊各員が期待していたのだが、管制が告げたのは『払暁攻勢に注意されたし』との待機命令。状況からして『ここにきて共和国軍側の戦力追加は無いと思われるが奇襲対策に航空戦力を予備隊として確保しておきたい』程度のニュアンスだろう。
明朝まで何も無ければ其れで良い。
大隊内でも少なからず負傷者は出ているのだからここで暫しの休息をとるのも必要だろう。



(高揚感と虚脱感が入り混じるどっち付かずのこの身体はまだまだ脳を寝かしつけてくれそうもないのだが)



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焼き朽ちた時計塔の残骸で翳り、砲撃の余波で建造物の最上階部分が抉られた石造りの集合住宅に降り立つと、焼け煤けた煉瓦が自分を中心に塵埃を撒き散らした。
肺に吸い込まぬよう左手で鼻と口を覆い隠しつつ、ひらけた空間に目を配ると、この部屋の住人であろうか、―――吹き飛んできた何処ぞの屋根の下敷きになり上肢から頭部にかけて擦り潰されている死体が視界に入った。共和国製の小銃らしき燃え滓に瓦礫の下から覗くひしゃげた右手が添えられている。
民兵共には気の毒な話ではあるが其れでもあの灼熱地獄を体感するよりは即死出来た方が幾何かマシだよ、と亡骸に語り掛けたケーニッヒは彼(…とも彼女とも判別付かない爛れた死体)から目を外し、改めて部屋の状況を確認する。


火の雨から全壊を免れたとは言え窓という窓は大破。吹き込んだ熱風の勢いで窓枠すらも根こそぎ持っていかれた外壁は基礎を晒し、住居スペースはだだっ広いベランダと化して宵闇の一部に溶け込んでいる。

帝国軍による瓦礫の撤去と市民の回収作業は夜通し続いてはいるが、明朝までは此の都市の中心部まではとても手が回らないだろう。そう踏んで人気が無く、且つ都市を一望出来る此の高台は今の自分にとってはお誂え向きの場所であった。飛行ユニットを手早く外し半壊した壁に背を預けると背後で外套が砂塵と煤で擦れる音が耳に届く。



(空が暗いな)



ケーニッヒは背を凭れたままずるずると床にへたりこんで視線を上空へと向ける。
夕刻から鈍鬱な雲が覆い、天上からは一点の明かりも差し込まない宵闇に対して至極当たり前の感想しか湧いてこなかったが、果たして其れは正常な反応であるかどうかすら彼自身判別がつかないでいた。


ヴァイス中尉の戦線離脱、グランツ少尉の抗命未遂……ケーニッヒ自身とて思うところは無い訳ではない。
だがそれは飽くまでも隊員個人に関することで、無線機を通じて副長の戦線離脱の報せと次席指揮権を継承した際、ただ冷静に与えられた職務を全うするという使命感の他には何の感慨も湧かなかったという事実を、数時間経過して漸く自覚した程度には鈍感になってしまっていた。

…そう、大隊長から『例の命令』が通達され、その意図を汲み取って尚、一握の砂程の乱れすら生じなかったケーニッヒにとっては、寧ろ作戦行動中の妙に冴えた脳と相反して身体の芯から沸き上がる昂りを抑えつけるのに必死だったくらいで。


(俺は彼らとは根本的に感情の使い方が違う)


戦争というものは正常な人間の感性をも捻じ曲げるという。
戦火に身を浸す軍人というものは感情を排して命令に従わねばらなない。




(ならば歪んだ感情の捌け口は何処へ向かうのが正しいのだ)





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浅い眠りの淵から引き上げられて目蓋を持ち上げると、視界に入るモノが徐々に鮮明となっていく。
ひらけた空間に小さな影を見留めて、その姿に思わずはっと息を飲み込む。


朝風に晒した金糸の髪が額を発き、彼女の顔立ちの稚なさを一層と引き立てていた。
手套も付けずに湯気が緩く立ち上る珈琲杯から伝わる熱だけで悴んだ指先を温める彼女は、涼やかな目元で東の空を見つめている。ストラスブール大聖堂のバラ窓を彷彿とさせる瞳は、ステンドグラスに光を取り込むかのように、二、三度瞬きをしてから此方に向けられた。

「漸く御目覚めか、中尉」

宵闇を含む雲の堆積の合間から煤と砂塵が舞い上がり、朝景色を背負う彼女を翳らせた。


「…デグレチャフ少佐、殿」


幾時間も外気に晒されて塵埃が張り付いて乾燥した喉は、掠れた声しか絞り出せず其の殆どが空気となってそのまま大気中に溶けていった。



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「全くどいつもこいつも…私の部下は世話のかかる奴ばかりだな」

彼女は飲み掛けの珈琲杯を瓦礫の上に置いたと思うと両手を拡げて芝居がかった溜息を一つ溢した。
その温かな珈琲一式は一体何処から調達したのか…という疑問が降って湧いたけれども、彼女のことだ、比較的被害の少ない辺り一帯の家屋から焙煎済みの豆でも接収したのだと思うことにした。

「隊を留守にするなら私にも報告を上げろ、怠慢だぞ」

彼女は腕時計の文字盤をこんこんと指で弾く。『ヴァイスに次いで貴様まで不在となると流石に部隊運用に支障が出かねんよ』と。
時刻を確認せずともわかる。彼女の向こうには薄雲を通して弱い陽の光が空を染め始めていて、西の空には塵に塗れ薄ぼやけた月の輪郭が自分と同じように彼女を覗き込んでいるのだろう。
―――ケーニッヒが部隊を離れてから少なくとも四時間半は経過していた。


「まさか小官を探しに来て下さるとは。随分とご心配を掛けてしまったようですね」

「調子に乗るなよこの空け者。単なる朝習慣の延長だ」

「早朝徘徊がご趣味とは存じておりませんでした。小官の知る少佐殿は低血圧でいらっしゃいましたから」

「幼き身体というものは翌日に疲れを引き摺らないものだ。こういう朝もある」

先程瓦礫の上に置いた珈琲杯を再び手に取り座り込んだ儘のケーニッヒに歩み寄ると、杯を見せ付けるようにして彼に手渡した。

「感傷に浸りたい訳でも無いのだろう?」

手渡された飲み掛けの珈琲を一口啜る。

「…生憎、そこまで繊細な心は持ち合わせておりませんね」

本大戦の共和国との摩擦以前に数百年もの間東西で領有権が争われてきたアレーヌ市は、帰属と併合の繰り返される地政学上の要衝都市であり、歴史上幾度も戦火に焼かれている。
その度に市街の復興を遂げて来たこのアレーヌを今度は自分達が焼いたのだ、そこに住まう市民ごと。

でもだからといってそれがなんだというのだ。



「―――機械的に感情を排するというものはそんなにも難しいことなのでしょうか」

ぽつり、何とは無しに口から出た言葉は東風に掻き消されることなく二人の間に転がり落ちた。
憎悪という感情に支配された民衆が我らが祖国に銃を向ける…否、憎悪に突き動かされた獣が牙を剥いたというだけで所詮は獣の所業。
では理性的な感性を持つ獣がいたと仮定して、それは本当に獣であるのか。
あらゆる感情を排して義務を遂行するだけの人間は、…人に、足り得るのだろうか。
祖国からは救国の女神と讃えられ、敵国には悪魔と畏怖される彼女が人間の在り方を説くと言うならば、其れを神の如く信奉し追従するのだろう。其れだけの説得力が彼女には備わっている。
ケーニッヒが手中の珈琲杯の底を覗き込むと、なんとまあここまで無表情の男がいたものだと自嘲気味の乾いた笑いが込み上げてきそうになった。

そんな男を小さな身体で見下ろす彼女は、『呆れた』と言わんばかりに顔を顰めて、ケーニッヒの手から珈琲杯を取り上げた。


「貴様もあの堅物と違った意味で考え過ぎている節があるな」

「はあ、そんなことは」

「仲間想いは大変結構な事であるがその問いに答える義務は私には無いよ。貴官がヴァイスを羨み、グランツを心配する気持ちも理解出来なくはないが」

「……そんなことは」

「ああ、一言二言余計であったな。あとは煮るなり焼くなりして自分で消化し給え」

敢えて言わせて貰うならば三言目が余計であった。
彼女も相手を選んで発言したにしろ焦土作戦で包囲殲滅したばかりの此の地で『煮るなり焼くなり』とは。
有難いお言葉を頂戴できるとは思っても居なかったので、これが彼女らしいと言えば彼女らしいことなのだが。
少佐相手に舌戦を繰り広げる気力も今のケーニッヒには持ち合わせて居なかったので、大人しく彼女の言葉を持ち帰ろうと決めて身体を起こす。
東の空が払暁で宵闇を押し退けている様子が眼前一杯に拡がる。じきに此の場所も暁光で満たされるのであろう。


「―――旧い知り合いにこの街出身の奴が居たのですよ。だからでしょうか、この街の様相を一度見回してみたくて」


訊かれてすらいない問いに対してケーニッヒは言葉を返した。
飛行ユニットを装着する上官は不意を突かれたようにぱちぱちと瞬きをしてケーニッヒを凝視する。

「女か」

「ええ」

「別に構わんよ」

『部下の交遊関係まで一々詮索しようとも思わんしな』そう言うと珈琲杯に残った最後の一口を飲み干して男に背を向ける。
鬣のような金糸の髪が朝東風に攫われ炯然と瞬く。彼女を翳らせていた煤と砂塵も今はただ遠くに流れ去っていったのであろう。風が止むのを待ち、此方を振り向くのと同時に彼女は口を開いた。



「静かな朝は気持ちが良いな」



『遅れるなよ』と一言釘を刺して彼女は一人野営地の方角へ飛び去っていく。
演算宝珠に魔力を込めて彼女に続こうとした瞬間、ふと何処からか視線を感じてケーニッヒは背後の瓦礫の山を見返した。当然、此の場に居る生者は自分の他に無く、目の端に映る擦り潰れた亡者も只管に無言を貫いている。








「―――こんな景色を見せたかった訳じゃ無かったろうに」



(彼の女は故郷に帰ることが出来たのであろうか)
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