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客取りを始めてふた月も経つ頃、翠はあね様方御贔屓の団体様の座敷に数合わせでお声が掛かる程度のお茶を挽く日々が続いていた。水揚げと其の直後特有の賑わいは一旦影を潜め、祭りの後のような寂しさを感じる一方で、気を張らずに漸く息が吐ける心地がした事は楼主にもあね様方にも秘密にしなければならなかった。固定客と呼べるような殿方が付いていない訳ではないけれど、水揚げ後の日の浅い遊女を好む傾向にあるのだと禿 時代の頃からあね様方に良く訊かされていた客が数人居るだけで、新たに水揚げを迎えるだろう新造の噂を聞き付ければ乗り替えされるのも正直時間の問題ではある。
幼少期に早朝の袖門に置き去りにされ運良く楼主の目に留まり拾われて以来、禿 ・新造とあね様方の仕事を手伝いながら面倒をみて貰って十余年、漸く恩義を返せる身分になったけれど、変わらず木格子の中で過ごすことが定められた生き方しか残されていないと思うと日を追う事に空しさが心を蝕んでいく。春の切り売りで成り立つ金の掛かる飯事 に嫌悪を覚える感情は疾うの昔に失くしてしまっていて、此れも己の運命 なのだと静かに受け入れるしか無かった。どうせ長生き出来るような人生ではないのだからと、籠の中で交わされる空虚な愛に翠は今宵も心を偽る。
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夕刻の見世提灯に明かりが灯されて、いつものように見世清掻 に精を出していると引付座敷に上がるようにと袖から声が掛かる。新造から格上げされて日が浅く位の低い遊女を楼主自ら手招きして下がらせる事自体珍しいことであったが、疑問を口にすることもなくただ指示通りに従い、客が案内される前に先回りした座敷で独り戸の前に腰を下ろした。少しして、禿 の小さな足音に紛れて客の静かな足音が次第に此の部屋に向かう気配を感じて翠は頭を下げ戸が開かれるのを待つ。
戸越しに掛かる禿 の声とすうっと引かれた戸の音を聴いてから翠は自らの名を名乗り初会の客を見上げた。爪先から首元へ上に向かう視線と合わせて伏せがちの目蓋をゆっくりと開くと、視界に飛び込んでてきた其の涼やかな目元に翠は目が離せなくなった。
(───此の方は妾 が相手するのは相応しくない御方だと一目で理解る)
客にも遊女にも各々『格』というものがある。客が上位の遊女を指名する為に大金を積み通い詰めて遊女のお眼鏡に叶って初めて床入りが許されるといった遊郭の仕来たりとは別に、楼主の口利き・手引き等何かしらの手段を取って遊郭の慣例となっている手順を踏まずとも良い特別な客というものは確かに存在していた。其の客に下位の翠が宛がわれた理由は知る由もないが、あね様方の都合が付かなかった為に偶然御鉢が回ってきたのだろうと見当は付く。つまりは新造を繋ぎにするには失礼な相手であるが、とは言え遊女の身分であっても下位の翠にしたら荷が重いと感じざるを得ない客だ。異国の装いは身に付けておらず格好自体は此の国の文官のような佇まいでいても鋭い眼光は武人の其れで、此の場を愉しみに来たと謂うよりも瞳の奥に込められた警戒心が透けて見えて、遊郭を訪ねながらも初対面の女に心を開くとは到底思えないと翠は感じ取った。身分を隠す目的であるのか将又此の国の流儀を重んじて態々和装に身を包み来訪されたのか、と考えては其れは無駄な考え事だと浮かんだ思考を直ぐ打ち消す。
(せめて代金分は愉しんで頂かなくては)
翠は此の客は床入りには至らないだろうと察し、退屈な思いをさせぬようにと遊芸による持て成しに努めた。話術も夜技もあね様方には到底及ばないが、三味線だけはあね様方にも劣らない優美な音色だと師匠 のお墨付きを頂き、客からの評判も上々であることが幸いして二人の間を持たすには十分であった。また、客に聴かせる以上に翠自身も愉しみを覚える芸事の一つであったこともあり、会話もそこそこについ夢中になって弾いていると、二人過ごすうちに寡黙な男の琴線に何かが触れたらしく、自分相手では床入りには至らぬという翠の予想は杞憂に終わることとなる。
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『───痛くは無いか』
脳に残る彼の声を座敷の後始末をしながら翠は独り反芻していた。
翠が相手を務めた唐人街の特使───劉文霖は、日本語話者と謂われれば疑いようのない完璧な発音で言葉を紡ぐ。決して口数の多い客では無く、妓楼遊び目的と謂うよりもどちらかと言えば発散の捌け口の必要性から政府公認の遊郭を利用しているに過ぎないのだが、ある種の事務的な行為なのだとしても性急に事に及びがちな客が多い中で遊女の身体を労る優しい手付きや声に、翠は驚く程に身を焦がした。彼の長い指が肌を薄く擦 るだけでぴりぴりとした甘美な感覚が身体の内を走り、藍色を帯びた絹のような長髪の毛先が翠の皮膚を掠める度に湿潤を帯びていく感覚に溺れる。記憶に刻まれた情事の一つ一つを鮮明に思い起こすと、とくとくと鼓動が早くなり、鏡で確認せずとも化粧 も紅も落とした頬に自然と朱色が帯びたのを感じ取って翠は思わず其の場にしゃがみ込んだ。
(上辺だけの愛を求める以上のことは望めないというのに)
遊女の恋なんて儚いものを懐いたところで叶うことも後生大事に取っておけるものでもないのだからと、花開き花弁が散る前に自覚出来て良かったと綻び掛けた蕾を枝ごと手折るように、翠は芽生えた感情を自身から切り離そうとした。
幼少期に早朝の袖門に置き去りにされ運良く楼主の目に留まり拾われて以来、
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夕刻の見世提灯に明かりが灯されて、いつものように見世
戸越しに掛かる
(───此の方は
客にも遊女にも各々『格』というものがある。客が上位の遊女を指名する為に大金を積み通い詰めて遊女のお眼鏡に叶って初めて床入りが許されるといった遊郭の仕来たりとは別に、楼主の口利き・手引き等何かしらの手段を取って遊郭の慣例となっている手順を踏まずとも良い特別な客というものは確かに存在していた。其の客に下位の翠が宛がわれた理由は知る由もないが、あね様方の都合が付かなかった為に偶然御鉢が回ってきたのだろうと見当は付く。つまりは新造を繋ぎにするには失礼な相手であるが、とは言え遊女の身分であっても下位の翠にしたら荷が重いと感じざるを得ない客だ。異国の装いは身に付けておらず格好自体は此の国の文官のような佇まいでいても鋭い眼光は武人の其れで、此の場を愉しみに来たと謂うよりも瞳の奥に込められた警戒心が透けて見えて、遊郭を訪ねながらも初対面の女に心を開くとは到底思えないと翠は感じ取った。身分を隠す目的であるのか将又此の国の流儀を重んじて態々和装に身を包み来訪されたのか、と考えては其れは無駄な考え事だと浮かんだ思考を直ぐ打ち消す。
(せめて代金分は愉しんで頂かなくては)
翠は此の客は床入りには至らないだろうと察し、退屈な思いをさせぬようにと遊芸による持て成しに努めた。話術も夜技もあね様方には到底及ばないが、三味線だけはあね様方にも劣らない優美な音色だと
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『───痛くは無いか』
脳に残る彼の声を座敷の後始末をしながら翠は独り反芻していた。
翠が相手を務めた唐人街の特使───劉文霖は、日本語話者と謂われれば疑いようのない完璧な発音で言葉を紡ぐ。決して口数の多い客では無く、妓楼遊び目的と謂うよりもどちらかと言えば発散の捌け口の必要性から政府公認の遊郭を利用しているに過ぎないのだが、ある種の事務的な行為なのだとしても性急に事に及びがちな客が多い中で遊女の身体を労る優しい手付きや声に、翠は驚く程に身を焦がした。彼の長い指が肌を薄く
(上辺だけの愛を求める以上のことは望めないというのに)
遊女の恋なんて儚いものを懐いたところで叶うことも後生大事に取っておけるものでもないのだからと、花開き花弁が散る前に自覚出来て良かったと綻び掛けた蕾を枝ごと手折るように、翠は芽生えた感情を自身から切り離そうとした。