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「お久し振りです」
「……迅君」
会議室が並ぶ上層フロアの一画に設置された自販機前にいる珍しい人物を見留めて歩を止めると、彼───迅はひらひらと左手を振って此方に声を掛けた。みことが疲れた顔で小さく息を吐くと其れを見た迅も思わず苦笑いを溢す。
彼が其処に居たことはエレベーターに乗る前から視えてはいたけれど、彼方からコンタクトを取ろうとするまで私一個人に用件があることまでは分からない。みことの副作用は迅のように未来が視える訳でもなく、遠目からもただ彼が其処に存在している事実以外に分かるものは何も無いので、今までも迅の目的が此方に向いているのだと認識して初めて彼を意識するようにしていた。
例え目的地に彼が居ると視えていてもみことが踵を返す理由にはならないし、彼もまた、みことが彼を避けるような選択肢を取らないことも理解した上で待ち伏せしているのだろう。───本人に確認したことは過去に一度もないのだけれど。
+++++
「このフロアの良いところは隊員に出くわすことがあまり無いところにあったのだけれど」
「みことさんがそれ言う?」
「私は"職員"だから」
彼女は微苦笑を溢しながら首から提げたICカードを翳して自販機のボタンを一つ押した。取り出し口に落ちてきたボトル缶のアイスティーを一つ手に取ると、彼女は其れを何も言わずに此方へ寄越す。一瞬の沈黙の後、この自販機が撤去されると私が困るから、と言葉と共に差し出された好意を迅は有り難く頂戴すると、ボトル缶から手の平に伝わる冷感に利用者が少ないことを実感する。みことは続けて購入した無糖珈琲のボトル缶を片手に隣に腰を下ろした。
「休憩の為にわざわざ開発室からここまで来る職員も変わってると思うけどなあ」
「ここは静かで良いところでしょう?」
深夜以外のカフェテリアは人が多くて疲れるのだと彼女は言った。自販機の横に設置された長椅子もクッション材はへたることなくまるで新品同様で、ボーダー本部が出来て数年経つというのにこの場所だけはどうしてか時間が止まっているかのようにさえ思える。一方で、上着代わりに羽織っている白衣のくすみと首から提げるネックストラップの紺色の色褪せには嫌でも経年を意識せずにはいられなかった。彼女が正隊員であった頃はもうそんなに以前のことだっただろうか、と。迅は目蓋の裏で嘗ての姿を思い出しては直ぐにその記憶を遠くに消し去る。
「迅君がわざわざ来たってことは何かあったってことで良いのかな」
「『何か』がないと会いに来たら駄目なんですか」
「ごめんそういう意味じゃ無いんだ。でも、」
『迅君が会いに来てくれる時ってつまりはそういうことでしょう?』と彼女は視線を合わせず言葉を紡いだ。視線は今しがた購入したばかりの無糖珈琲のボトル缶に向けられている筈なのに、彼女の目蓋が緩慢な瞬きをする度に此処ではない何処か違う場所を視て、何か別のことを考えている気がしてならなかった。
(今日は大丈夫そうにみえるけれど)
彼女の表情から察するに疲労の色は多少みえるけれど今日はセーブ出来ている方なのだろう。
彼女は人と会話する際は無意識下で視線を外して喋る癖がある。直視しなくても結局"視えてしまう"けれど、事情を知る人間に対する最大限の配慮なのだろう。そんな事情を知りながら彼女と堂々と視線を通わせられる人物は実のところボーダー内でもかなりの少数派で、具体的にいえば旧ボーダーに縁のある者か本部一期生の同期、若しくは同学年の面子程度に限られている。『私も意識して視ないように出来たら良いのだけれど』、と愚痴を溢すことも今や少なくなり、彼女はただ己のトリオンが緩やかに減少していくように強化視覚の副作用の影響が少しずつ消滅に向かうことを願っていた。防衛隊員としてトリオンを使い続ければそれも叶わないという事情を汲んでくれた人間もまた少数で、副作用が発現しなかった一部からは『贅沢な悩み』としか映らない。組織の運用面から考えても正隊員並びにトリオンの価値を放棄した、と陰口を吐かれ顰蹙を買っていることは直接耳にせずとも『視て』分かってしまっていた。流石に正隊員以上の人間にそのような否定的な人物は居ないけれど、彼女の過去のログを見て弟子に志願してくるような上昇志向のある訓練生が一番厄介で、彼女が断りを入れる度に持たざる者に配慮が無いだとか持つべき者の責務だとか、都合の良い言葉を外野が並び立てては彼女の在り方を非難する。
(理想を押し付けて善とするなんてこと、結局は悪意と変わらないじゃないか)
個人的な感情の的にされたり利益を生む存在としてしか扱われない立場になったことがない癖に、と外野に向けて悪態を吐きたい気分になったことは正直幾度もあった。此方がどれだけ心を磨り減らしているかも知らずに、理不尽な理由からくる悪意を直接向けられて潰れた人間が存在していることすら頭にないのだろうか、と。
とはいえ、彼女の抱える苦しみは彼女自身のものであるから、副作用持ちという一括りに同じカテゴライズをされたからといって傷の舐め合いが出来る訳でもない。況してや迅も彼女もそんな関係を望んでいないのだから、一定以上の距離を詰めることは互いの為にはならないことを双方理解していた。だから、基本的には有事に備えるといった意味でしか迅とみことは接触を持たない。
「今回ばかりはみことさんには荷が重いかもしれない」
「今更気を遣わないで良いよ。力になれることはするって決めてるから」
用件も聞かずに疑いもなくするりと承諾を口にする彼女に、今も変わらず信頼は寄せられていることを素直に嬉しいと感じる一方で、内容次第では危ない橋を渡らせる可能性だって十分に有り得るのだと考えてしまう迅の胸中は複雑であった。今回は無理難題を押し付ける訳ではないけれど、やはり、何処か後ろめたさがある。
「その、…太刀川さんが」
「あ、まさかのそっち方面かあ」
歯切れの悪い言葉と特定個人名を挙げるやいなや、察しの良い彼女は皆まで言わなくとも凡そ見当がついたらしい。即座に携帯端末のOneDriveアプリを立ち上げて『どの講座?』と一年次からの作成済みレポートの一覧を見せてきた。
「そこまでは視えてないんだけど、太刀川さんが色んな人に泣き付いたんだけど、その講義誰も取ったことないみたいで最終的にみことさんに頼る未来が」
「ボーダー隊員的にニッチな感じの講義だとこれかな」
スイスイと携帯端末の画面を滑る指は迷いなく『ハとケ構造論』と書かれたWordファイルを開く。導入部から自身が接点の無い単語が次々と飛び込んでくるが、脳には染み込まずに眺めれば眺める程に迅の目は滑っていく。
「みことさんも良く取ろうと思ったね。学科どころか学部からしてジャンルもかすってないでしょ」
「どの分野にも言えることだけど知識の多文化交流だと思うと何でも面白いよ。でも、太刀川君には不向きの講義であると思う」
ボーダーに一切関わらない内容で太刀川さんの単位を埋められる講義なんてあるのだろうかと一瞬考えて、迅はそれ以上の思考を止める。彼女はファイルの内容をさらっと見直していくつか修正を加えた後、WordとPDF化されたファイル数個を迅の携帯端末へ寄越す。
「風間君辺りに送っておいて貰えるかな」
「みことさんって太刀川さんの連絡先知らなかったっけ」
わざわざ俺と風間さん等を経由する必要はあるのだろうかと疑問に感じたことを其のまま言葉にすると彼女は複雑そうな表情で笑みを溢す。
「勿論知ってるけど…太刀川君だったら『お礼に5本勝負』とか言われ兼ねないな、と」
受信したファイルを開くと文書内と作成者情報から彼女を特定する名前と情報が削除されていた。彼女が情報提唱者を簿かそうとする意図は後の面倒事を予想してのことではなく、恐らく太刀川さんは既にみことさんに頼った"前科"があったのだろうと合点がいく。
「確かに」
───けれど、それはそれで別の面倒事になるのではないかと、分岐点の先に視た幾つかの未来を照らし合わせて、本日何度目かになる微苦笑を迅は溢さずにはいられなかった。
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