呪術廻戦(名前変換)
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憲紀を居間に通した沙夜は『お茶の用意をしてきます』と一言告げて足早に台所へと姿を消していった。
柊所有の屋敷の内、京都市内では此処が一番小さい邸宅だというけれど娘一人と世話人の住居としては手に余る広さだ。四月から沙夜が東京校の寮舎に入ったこともあり、週に一度の保守点検程度にしか人の立ち入りは無い筈だが、清掃の行き届いた館内は以前と変わらぬ姿を維持しているし、一枚絵のような庭園風景に青々とした木芙蓉の緑が夕闇に馴染んでいく様は美しかった。日が昇れば、桃と白の花弁でこの景色を色付かせてくれるのだろう。
「懐かしい、な」
幼き頃、二人でこの縁側に腰を下ろしてはただ静かに時を過ごしたものだ、と脳裏に浮かんだ懐古の記憶に目を細める。その頃には沙夜も大分心を開いていて、『のりとしさまが来られる日はお天気が良い日が多いから、お庭の花もよろこんでますね』と花がほころぶような表情をするようになっていたのだなと、甦ってきた幼馴染みの姿に時の流れをゆっくりと噛み締めた。
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「此方にいらっしゃいましたか。日が落ちたとはいえお暑くは無いですか」
『カラン』
沙夜の声に遅れてグラスの中で溶けた氷の涼やかな音が憲紀の耳に届く。
「…沙夜は自分がどういう格好をしているのか自覚が無いのか」
盆に載せた硝子製のティーポットの中で揺れる冷茶も、二人分用意された俵屋の水羊羹も、どちらも茹だる暑さを和らげるには十分な視覚情報を与えているのにも関わらず、其れを運ぶ彼女の濃紺色のワンピースに同系色のカーディガンを羽織った姿は大層暑苦しい。室内から淡く漏れる照明に照らされている露出面積の少ない白い肌は体温調節機能が壊れているのではないかと疑いたくなる程にさらりとしていた。
「すみません。帰宅のタイミングが憲紀様と被らなければ着替えることも出来たのですが」
申し訳無さそうに眉を下げた少女は盆を床に置き、硝子ポットの蓋を押さえて細やかな茶葉をティーストレーナーに受け落としながらゆっくりと茶を注ぐ。二人分の和切子のグラスに鮮やかな緑が満たされていく様を横目で眺めながら、憲紀は少女の先程の言葉の意味を考えて、そして然程時間を要さず辿り着いた答えに深く同情した。……沙夜は本当に何も知らされていなかったのだ、と。
沙夜の帰省日に世話人を呼び戻さなかったこと、柊本家から送られてきたであろう新幹線のチケットに感じる作為的な時間指定、……此度交わされた加茂と柊の契りも何もかも。
「憲紀様、どうぞ」
冷茶の注がれたグラスを差し出す彼女の指に触れた時、交わった視線は不自然にぱっと外され、床に向いた状態で一つ瞬きをし、そして何事も無かったように再び其の常盤色の瞳は此方に向けられた。───沙夜は聡い子であった。私生児と謂えど御三家に関わる一族として、此度の次第を知らされていなくとも凡そのことは感じ取ってしまったのであろう。
「私は…沙夜まで御三家の因習に囚われる必要は無いと思っている」
呪術師の母数が限られる中、才ある娘を当主に宛がうことはいつの時代においても容易なことでは無い。実父に引き取られた理由も手頃な少女を早々に囲い込んでおき、次代へと確実に血を継がせる為であった。グラスを傾けて茶を一口啜ると、彼女も真似をするように冷茶を口にして、グラスを傍らに置いた。
「相変わらずお優しいですね憲紀様は」
「私は、お前の『優しい』の定義が緩んでいるのではないかと時々心配になる」
「…私の手を引いて下さったのは憲紀様だけですよ」
膝に置いた手の甲に沙夜の華奢な手が重なる。すっと芯の通った常盤色の瞳が憲紀を優しく見つめ、ただじっと次の言葉を待っていた。
「私は沙夜まで不幸にしたくは無い。此度の話も碌にきかされていないお前が、…憐れに思えて仕方がないんだ」
血に縛られているのは憲紀に限ったことではない。しかし、沙夜には今の環境から抜け出す道が残されていることも事実であった。両家の契りが破談になれば御三家周りでの肩身は狭くなることは間違い無いが、ただでさえ人手不足の界隈で呪術師一人手放すリスクを考えれば、柊の代わりとして東京校が後ろ楯に取って変わってくれるだろう。柊方の術式を継いでいなったことを幸いと考えるならば、彼女はまだ、引き返せる。
「……実は、決心なんてもの、ちっとも出来ていないんです」
絞り出すように吐き出した言葉を口にした彼女は、何時か目にした時と同じように顔を俯かせて、混乱と何かに怯えた感情を隠そうともせずぐしゃぐしゃに乱れていた。
「わたしっ……本当のことをいうとすごくこわいんです。わたしはまだ、男性を知らないからっ憲紀様の御相手がわたしで務まるのかなっていう不安と、…何よりも、今までの関係を壊したくない」
「ならばどうして逃げなかった。加茂にとって都合が悪い人間は、───手付きとなった女ですら追い遣られると理解っていながらどうして、」
正室の内定が下された訳では無い。もしそうであれば彼女の父が喜び勇んで娘へと連絡を寄越していた筈だ。事の次第を彼女が何も知らされていないというのであれば、其れに準ずるという不安定な立場のまま囲い込む方針に定まったに過ぎない。年頃の娘が良いように両家に振り回されているなんてこと時代錯誤にも程がある。が、古い因習が濃く残る御三家周りでは其れが当たり前として考えられおり、そして、その悪習を断つ術を持たない憲紀の立場では、目の前の彼女を不幸に追い遣ることは避けられようも無かった。重ねられた沙夜の手が離れようとする動きをしたのを感じ、今度は憲紀が彼女の手を掴む。驚いて顔を上げた彼女の瞳は瞬き一つで今にも零れ落ちてしまいそうな程涙で濡れていた。
「お分かりになられませんか……?」
「……都合の良い思い違いで無ければ」
彼女は何かを言いかけて、そしてすぐに其の唇をきゅっと噤んだ。握り込んだ華奢な指が微かに身動いだのを制するように強く押さえ込む。
「───すまない。もう逃がして遣れそうも無い」
ぽたり。
澄んだ瞳が大きく瞬きをした時、一粒の雫が胸元に滑り落ちて濃い滲みを作る。少女の濡れた目元を拭って遣ると、彼女は頬を朱に染めて困ったような表情で笑みを溢した。