呪術廻戦(名前変換)
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実母の葬儀の場で初めて会った父・道重氏に引き取られて京都に連れてこられたのは沙夜が五つを迎えた頃であった。
年端もいかない女児が『不運にも交通事故に巻き込まれて』逝った実母を看取った衝撃は凄まじく、その惨たらしい最期を目に焼き付けた儘葬儀の前日まで滾々と眠り続けていたのだから、鯨幕に囲まれた空間で黒装束の大人達が粛々と死者を悼む光景は目覚めて間も無い少女の目にはさぞ奇異に映ったことだろう。そして見慣れぬものは其れだけでは留まらなかった。母の棺の側には床から生えるように縦に伸びた靄が其の輪郭を陽炎のように更に薄ぼやかせてたり、参列者の間を縫って地を這いつくばる下肢の欠けた影が魚のような双眸を見開いて此方をじっと覗き込んでいるのである。母が生きていた頃に視ていた世界はこんなにもおどろおどろしい色をしていただろうか、と。そして、自分を囲う大人達も同じ世界を視ている事実を知らされた時、誰も彼も自分を助けに来てくれた訳では無いのだと身に降り掛かった現実に深く失望し、幼心ながらに自分の行く末と彼女を置いて逝った母を強く恨んだ。
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生家のあった関東から京都へ、しかも呪術師の家に囲われることとなった沙夜は、告別式を終えた其の足で柊の関係各所への挨拶行脚を強いられていた。彼女が柊の私生児である事実は変えられようも無いけれど、呪術の才が認められたのであれば話は別である。外で作った女に、己の呪力が強く発現した子供が生まれているなんて、『交通事故死』を高専が処理した今の今まで知る由も無かった男は、内に抱いた歓喜の感情を包み隠そうともせず精力的に沙夜の存在を呪術界隈に広めていく。そして、お前も柊家の人間になったのだから支持する加茂本家に対して粗相の無いように、と幼子に強く言い聞かせていた。
憲紀の前に初めて姿を見せた少女はきゅっと唇を固く閉ざして到底懐いているとは思えない父親の袂を其の小さな手が白く変色するまでキツく握り込んでいた。俯いた顔は混乱と何かに怯えた感情を隠そうともせずぐしゃぐしゃに乱れており、だけれども、今にも感情任せに泣き出してしまいそうな不安定な表情をじっと耐えている。
そんな状態の彼女と引き合わされた時、憲紀の中でひとつ、ふたつの感情が『こぽり』と小さな泡沫音を立てて湧いてきた事を覚えている。感覚的には予感といった方が正しいのだろう。嗚呼、恐らくこの娘とはそう遠くない未来に近しい関係になるのだろうと、大人達もそういった意味で自分達を引き合わせたに違いない、と。
沙夜と同い歳の禪院の双子はこの時既に宗家から見切りを付けられていて、沙夜とは腹違いの柊の姉妹では加茂家次期当主と成り得る憲紀とは歳が離れすぎていた。では、呪術の才ある母胎は何処から確保するのか。加茂本家や高専に伝手が無い訳ではないが、自分と一つ違いの呪術の才ある女───しかも加茂派一党の柊道重氏の血を引く娘という手頃なカードが此の期に降って湧いて出たのだから、当然その手札を切るのだろうとそう感じ取っていた。初対面の沙夜に異性として何か感ずるところは有りもしなかったが、いずれ『そう』なる関係であると子供ながらに意識はしていたので、恋愛感情の自覚は微塵も無いけれど、加茂と柊の密な関係と呪術師としての人脈を考えればただ単純に差し障りの無い程度の交流は持っておくべきだといという使命感が憲紀の足を柊別邸へと突き動かしていた。───というのは建前で、沙夜の境遇が余りにも己と似通い過ぎていて、同族意識基、顔合わせした時既に彼女に対しては同情の方が優っていたのだと思う。不幸の程度を己の物差しで計るには人生経験の浅い少年が、境遇の優劣関係無しに其の少女を不憫だと思う気持ちに嘘偽りは無かった。
本妻と異母兄姉に厭わしく扱われていた沙夜の血に刻まれた術式が、父方では無く母方由来の古神道式と判明してからは、道重氏が術式研究に多額の費用を投じていたことも彼女への風当たりを増長させており、体系研究ばかりに気を取られていた彼が娘の異変に気が付いた頃には、衣服に隠れた幼子の肌は淡黄色と褐色の内出血が混在する痛ましいものに変貌していた。そして彼女が京都に連れてこられてひと月も経たない内に、世話係を幾人か与えて別邸へと娘の居を移させている。加茂家に嫡子として迎えられた自分とは異なり、必要とされて連れて来られた筈の場所で今度は虐げられていた彼女は極度の人間不信に陥ってしまい、沙夜の孤独を憐れんで別邸に足を運ぶ憲紀とまともに対話出来るようになるまでに半年を要した。更に半年を掛けて彼女を庭園の面した縁側に連れ出して京の四季の移り変わる様を見て過ごし、沙夜の閉ざした心を一年掛けて絆していったのである。其の様を周囲の人間はどういう目で見ていたのだろうか。憲紀自身、強情な沙夜の態度に年相応の男児の思考とでもいえば良いのだろう───半ば意地になっていた自覚もあったのだが、今思い返してみると当時どうしてそこまでして彼女と交友を持ちたがっていたのか理解に苦しむ行動であったと自省したくなることも否定しない。ただ、何時もの様に沙夜の白い手を引いて日の当たる縁側に連れ出した或る日、また何時もの様に手を離すタイミングで突然、彼女の小さな手がきゅっと力を込めたあの時、『……のりとしさまの手は温かくて、すきです』と、覚束無い敬語と堰を切ったように泣きだした彼女の姿が酷く憐れに思えたのと同時に、異性への情関係無しに愛おしさを感じたことだけは事実として憲紀の内に残り続けている。
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辺りが夕闇に包まれ始めた酉の刻、柊別邸へと続く混凝土の舗装路を抜けると、長く続いていた大練塀が途切れた先に覗く数寄屋門前に、黒塗りの送迎車が一台停まっていることを視認した沙夜の足は、歩の進め方を忘れたかのように地に縫い付いて離れなかった。車から降りた男の、本家ではあまり見られない鼠色の単衣仕立てに薄物の羽織を着こなす姿の───不意打ちとも言える此度の憲紀の来訪は、其の理由によっては挨拶回りを予定していた彼女の明日の予定を一気に白紙に変える。
『……沙夜?』
男が少女の姿を見留めて、其の薄い唇で静かに彼女の名前を紡ぐ。
約五ヶ月振りの再会も、以前と変わらぬ声音で名前を呼んでくれることも素直に嬉しいと感じる一方で、彼の来訪を知らされていない自分の立場を恥じて旅行鞄を握る手のひらが汗ばむのを感じた。加茂本家の意向か父の根回しなのかは分からないけれども、送られてきた新幹線のチケットと在来線の時刻表から彼女が柊別邸に到着する時間は凡そ見当は付いていた筈だ。其の時間に合わせて態々彼本人を此方に差し向けた意図が彼女の退路を断つ為なのだとしたら、これはまた随分な謀略である。
「───ただ今戻りました、憲紀様」
用意された暖かな泥に浸る時間は残り幾何も許されていない。