ヴィリバルト・ケーニッヒ生誕祭

2.白昼に花開き、薄暮に閉じていく
 


「此れは一体何の冗談であろうな?」
「何の…とおっしゃられても、見た通り贈り物でありますが。小官から、少佐殿に」

 そうであることが然も当然であるかのように振る舞い、そして何故理解されぬのか疑問を呈するように小首を傾げた長身の男の影が、幼き少女の腕に抱えられた生花に薄ら掛かる。
 兵も戦車も融けて出た鉄と肉片が新たな地層を形成するライン戦線。不幸なことに泥と汚物に塗れた戦場で己の誕生日を迎えることになった男は、先刻まで同僚等からささやかな誕生祝いを受けていた。プレゼントの品は本当にささやかなもの―――其の殆どが官給品の酒やビスケットで、『…お前らもう少しマシな物を寄越せよ』と初めのうちは呆れたような態度を取っていたけれども、そもそも此の男、自分が注目されるようなことをあまり好まない性分であるし、第一、セレブリャコーフ少尉に新調したケンカルテを渡されるまで己の誕生日を同僚にもひた隠しにしていたときたものだから、『ラインでまともな準備が出来ると思うな』『黙っていた中尉殿が悪い』『来年は嫌がらせレベルで祝い倒してやるから覚悟していろ』等と祝いたがりのむさ苦しい男連中から祝福なんだか非難なんだか良く分からない言葉を浴びせられていたのである。
彼に剣術の指南を受けているグランツに至っては『何も…きいていないです』と其れは凄まじい落ち込みようで、最近やけに彼に懐いていた分、師事するケーニッヒの誕生日に何も用意出来ずにいた自分を挽回しようと必死になっていた。…他部隊との賭け事に乗り込んで案の定こてんぱんにされていたところを、見兼ねたセレブリャコーフ少尉が代役として参戦、無慈悲にも根こそぎ掻っ攫っていったことによりグランツ少尉の負け分はチャラとなり場は収束したのだが、一騒動の一因であるケーニッヒも『まさかこんな大事になるなんて思いもしないだろ…』と頭を抱えていた。
 ただ、そうやって表面上呆れた態度を取りつつも、手で覆い隠した彼の表情が満更そうでもなさそうであったので、『中尉殿も素直じゃないお方ですね』とセレブリャコーフ少尉に耳打ちされて一瞬息を詰まらせたあの表情が、此の男にしては珍しく『素』が垣間見えていたな、とターニャの記憶に強く残っていた。

(普段は隙を見せようとしない癖に、本心を見抜かれた時だけ見せるあの表情が衆人の目に晒されたことに妬いているわけではない)

 誰彼構わず嫉妬するなんてらしくも無い。そもそも此の男にそういった感情を向けたことも無ければ、彼から向けられたことすら無い。少なくとも彼女自身はそう認識している。だから、此の男から花束を贈られるなんて事態こそ想定外で、己の理解の範疇を超えた出来事が自分自身に降り注いでいることに動揺するのも無理は無かった。

「生憎だが…私が此れを受け取る理由が無いな。私の誕生日が本日であるならば話は別なのだろうが」
 
 ヴァイス達が彼宛に贈った品に生花なんてものは無かった筈。薺も生えぬ荒涼としたこの地に何とも似つかわしくない艶やかな赤と白と紫が視界に飛び込んで来て眩暈を覚えると同時に、発色の良い花被の中心で萎れてしまった一輪の、閉じた花被の隙間から黒々と除く蕊がターニャを視界に捉えて離そうとしない。
 
「此れは少佐殿にお渡ししたいと思い用意したものです。何かの記念日に託けるというのであれば本日の小官の誕生日でありましょうが、其れはまぁ…此の際どうでも良いのですよ」
「……貴官の含意を理解しかねるのだが」
「貴女が受け取って下されば其れ以上何も求めません」
 
 ターニャの抱える花束の中から一重咲きの一つを選び茎を手折る。そして其の花被に音も無く唇を寄せた。伏せた薄い目蓋は異様なほど穏やかに映り、彼女の心は益々掻き乱される。

(此の男は端から多くを望む人間ではない)
 
 祖国を憂い、仲間を想い、部下を率い……一つの駒としても指揮者としても優れた此の男は、何れだけ自分が評価されようと然して興味が無いのだと気が付いたのは何時のことであったか。部隊内でも上位層の戦闘狂だなんだと言われようと彼にも当然ヒトの心はある。だが、傲りや謙遜すらも無く自身に対しての感情を本能的に排する彼は、自らを舞台装置の一つとしか捉えて居ない。そこに自己犠牲精神は無く、ただ冷静に己の役割を全うしているに過ぎないのだ。―――だからこそ個人的な感情―――彼の本意を汲み取るのは容易な事では無い。
そもそも此の行為が一方通行且つ自己満足で構わないというのであれば、此のような遣り取りの一切合切を省き、贈り主すら明かさず押し付けるような形でターニャの元へ届いていた筈だ。
 思考を巡らせていると、何時の間にか開かれていた男の目蓋から覗く琥珀色の瞳とターニャの視線が緩やかに絡んだ。何処か諦感を漂わせる表情から目を離せなくなってしまい何か掛ける言葉を探しているうちに、男は幼い少女の金糸にゆっくりと右手を伸ばす。左耳に掛かる一房を指先で撫でるように耳輪の後ろへ流したかと思うと、男は腰を折り、其の長身から落とす影は色濃く少女を覆い隠した。じりじりと靴底を踏み締めて半歩後退りした踵に硬いものがぶつかり、何時の間にか壁際まで追いやられていたのだと気付いた頃にはもう何もかもが、遅い。
 反射的にぐっと目を瞑ったターニャは、遅れて降り注ぐであろう刺激に己の羞恥心が堪えられそうも無くなり、迫る男を前に目蓋を開くことが出来ずにいた。背にした壁も身を預けるには大層心許なく感ぜられて、衣服が触れるか触れないかの僅かな隙間を残しての直立を余儀無くされる。誰に命じられた訳でも無く、彼女の身体が勝手に、其のような反応をしてしまったのだから、今更どうすることも出来ない。
 左方の耳許に温くて柔らかな人肌の感触に少女は思わず肩を震わせる。同時に櫛で髪を梳かれるような感覚を受信した自身の脳に違和を覚え、目蓋越しに感じていた暗がり薄まっていくのを感じた後にターニャは漸く目蓋を持ち上げた。見下ろす琥珀色の瞳と再び視線を絡めると、男は己の内から湧き上がる感情を噛み締めるような笑みを漏らした。


 
「…思った通りです。貴女の髪には赤が良く映える」



金糸の髪に編み込まれた一輪のアネモネは少女の耳許で濃艶な花被を魅せつけ、凛と其処に佇んでいる。
 少女の髪と花、其の二つを見比べて満足そうな表情を浮かべ見下ろす彼が、何処か寂寥とした瞳を据えているように感ぜられて、ケーニッヒという男が珍しく覗かせた『素の感情』とやらをもっとみていたいという好奇心に忠実に従ったターニャは、彼の本心を引き摺り出す為に甘美な言葉を吐いた。


 
 「―――仮に、貴官の我が儘をあと一つきいてやれるとしたら、……何を望む?」



 『あくまで実現可能且つ良識の範囲内であれば応えてやらんことでも無い』とは、我ながら随分と甘くなったものだと自嘲した。しかし、普段から我を通そうとしない此の男が他に何を望むというのかということに興味が湧いてしまったのだから仕方が無い。……そう、離れていった彼の指が名残惜しく思えてしまった訳では無い、決して。
対するケーニッヒはターニャの褒美ともとれる言葉に余程驚きを隠せなかったのか、思わず開き掛けた唇を咄嗟に右手で覆い、其のまま無言を貫こうとしている。あと少しで、……ほんの僅かで、此の男の牙城を切り崩せると踏んだ少女は、爪立ちをして其の表情を下から覗き込んだ。二人の間に暫し訪れた静寂に耐え兼ねた男は終に観念して口を開く。『もういちど……、』ターニャは一度途切れた言葉の続きを催促するようにケーニッヒに向かって瞬きを繰り返す。そして、男は絞り出すように言葉を紡いだ。

 

「―――もう一度、触れても良いですか」


 
 遠慮がちにそう問うた男に、こくりと頷き一つで応えてやると、彼は困惑ともとれる表情で緩やかな笑みをひとつ、溢す。
そして少女に添えられた赤の花被へ、男は再び静かに唇を落とした。

 
          『白昼に花開き、薄暮に閉じていく』
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