アレーヌ制圧後の話
2.ケーニッヒとヴァイス
「ヴァイス中尉が抜けてから、色々と思うところがありましてね」
療食の下膳と入れ違い様にするりと入室した同僚は、挨拶もそこそこにベッドサイドに置かれた一脚の丸椅子に『どかり』と大きな音を立てて腰を掛けた。
彼が此の病室に来ることは珍しい事では無い。先日の戦闘で負傷した自分に代わり、次席指揮官としての職務代行に加えて、不在中の自分の部隊の近況報告も頼んでいるのだから、訪問頻度は自然と高くなる。顔見せついでに第二中隊の誰かを遣わせれば良いのだが、「基幹要員ならではの込み入った話もあるから」とケーニッヒが先んじて申し出てくれたことで、彼に更なる多忙と負担を掛けることを理解していながらも現状は其れに甘えている。
帝国内外を東奔西走するの我ら二〇三大隊もアレーヌ市の戦闘を終えて一時的に後方待機を命じられており、現在の駐屯地から然程離れていない療養施設に入るともあらば、同僚や部下が見舞いに訪れるというのも難しくは無い。其れは彼の限りある余暇の時間を潰していることにもなるのだが、ケーニッヒも彼なりにひと時の後方待機を満喫しているようで、今日のように香の匂いを微かに纏わせた儘此の部屋を訪ねることも少なく無かった。
ただ、今日に限っては妙に表情が静かというか、先程の一言を発した後、口を開くことなく、自分と向き合いながらも何処か遠いところを見つめているような視線を寄越してくる。
落ち着いているようにみえて、それでいて何処か不安定。
普段は如何なる時でも整然としていて内面を読み取り辛い彼だけれども、場に呑まれて珍しく酔い潰れた時とか、部下が不在の時であったりとか、知る限りは自分とノイマンの前でしか見せない独特の空気感というものがある。
『冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也』
この空気感をそう表現したのはノイマンだった。普段は彼が中流諸階級の出自だということを忘れがちになるのだが、ふとした時に家柄の良さを匂わせる行動や言動を取ると、その度に彼の経歴を思い出してはびくりとしてしまう。(―――彼が女性を口説く所作や方便に秀でている事実を目の当たりにしたことで、ノイマンに対する人物評価がやや偏向している影響も否定はしない)
野郎相手に随分と繊細且つ文学的な例えを持ち出したものだと酔いの所為もあってその場は笑い飛ばしてしまったのだが、今思い返してみると表面的にですらあるが言わんとしていることが理解出来たような気がした。二十四節気で言うところの立冬、雨と霧の気配を常に纏っている空気感があるという点では確かにそうなのだろう。
ケーニッヒ本人が自覚しているかどうかは分からないが、あまり他人に聞かれたくない折り入った話を切り出す時、彼はこういった空気を連れて来る。
(ケーニッヒの冷めた表情と何処か温いモノを抱えるこのちぐはぐとした空気が充満するこの部屋は、正直酷く居心地が悪い)
「すまない。特にケーニッヒには負担をかけてしまっているな」
ヴァイスは眉を下げて肩を竦めた。
「いや、良いのです。別に責めてる訳でもなし。
負傷で戦線離脱をするのは誰しも有り得ることですし今は治療のみに専念して下さい。
……と、本来であれば言いたいところなんですけどね」
一呼吸置いてゆっくりと瞬きをしたケーニッヒの琥珀色の瞳は射抜くような鋭さを孕んでいる。先程まで朧げだった視線は何処かに消え失せていた。
季節はもう初夏だというのに指先が痺れたかのように冷たくなっていくのを感じる。彼の視線に怯んだ訳ではない。ただ、これから彼が紡ごうとしている言葉に、―――自分を咎めようとしていることに思い当たる節があったから、押し寄せた緊張の所為ですっと胸の芯が冷え、血液が行き届かなくなった末端が感覚を失っていっただけだった。
「…グランツのことか」
療養中、…否、後退を余儀なくされた時からずっと気懸かりだった部下の名を口にする。
グランツとはあれから殆ど言葉を交わしていない。
「あいつに限ったことではないですけどね。比較的年長者が多いうちの部隊にもおりましたよ」
第四中隊はどうだったか。――ああ、あいつの部隊は若い奴が多いですけど、ノイマンは人一倍面倒見が良いんで、そこは心配要らないでしょうよ。
自ら連れて来た重い空気に反して、ノイマンの部隊を引き合いに、ケーニッヒは思いの外さらりとした物言いで言葉を続けた。
「『あの』命令に動揺する気持ちは分かります。
特にグランツは促成課程の煽りをモロに受けた世代だ。尉官の素質は十分あるにせよ、現状ではまだ自覚も、
―――覚悟も足りなかったんでしょう」
「…抗命未遂の件か」
戦線離脱後は其のまま副長業務をケーニッヒに移管したとはいえ、彼を通さずとも部隊の状況は耳に入って来る。少佐殿を始めとする基幹要員からは何も聞かされていないが、他の隊員から凡その内容は聞き及んでいた。幸いというか抜かりが無いというか、二人の会話は大隊内のオープン回線にも繋いでおらず、HQと少佐殿の通信からグランツの抗命未遂の仔細を把握している人間は当事者を除いてケーニッヒただ一人である。
「小官も傍らに居ながら肝を冷やしましたよ。…全く、少佐殿がお優しい方で良かったですね」
いつもの彼らしい皮肉めいた声色とは裏腹に、其の表情は固い。
「お前が居てくれて本当に助かっている。グランツのことも相変わらず気に掛けてくれているのだろう?」
ケーニッヒが一人で剣術の鍛錬をしていることはヴァイスも勿論知っていた。そこにグランツが弟子入りを志願したことも、そのグランツが毎度のように完膚なきまで彼に伸されていることも。
「今に始まったことじゃないです、あいつが後ろから付いて回るのは」
「こういうことを言うとお前は怒るだろうと思うけれど、満更でもなさそうに見えるんだが」
そうを尋ねるとケーニッヒは怒る素振りは見せず、ただ眉間に皺を寄せて大袈裟な溜息を一つ溢した。
「グランツの奴、剣の腕もまだまだだって言うのに、犬っころみたいに毎度懲りずに『構い倒せ』と見えない尻尾を振って主張してくるんですよ。アレを断る方が労力が要る。それに、暑苦しいですけど放って置くのも危なっかしいですし」
「…危なっかしいか。まぁ、そうだな」
「ええ。リードが不要になれば小官も中尉殿も大分楽になるんですけどね」
ケーニッヒは『はぁ』と大袈裟に肩を揺らして再び盛大な溜息を溢す。日中に凝り固まってしまったであろう両肩を解し、天井に向けて小さく伸びの動作を取った彼の挙動の始終をヴァイスは目を逸らさず見つめた。―――ケーニッヒの話が此れで終わる筈が無いと理由の無い確信があったからだ。冷えた指先を無意識に擦る。
ケーニッヒの視線がヴァイスの其れとかち合ったのは一瞬のことで、どういうわけか彼はそのまま視線をヴァイスの手元まで落とし、顔を直視しない儘口を開いた。
「小官が気にしているのはグランツのことじゃなくて、
―――ヴァイス中尉、貴方のことなんですけどね」
「ははっ、……まさかお前に心配を掛けさせてしまうとは、な」
乾いた笑いとともにヴァイスは肩を落とす。
色々と考えさせられるには時間は十分過ぎた。この療養中、暇を持て余すことすら忘れてしまう程に。
グランツの抗命未遂の原因の一端は自分にあったという自覚は当然あった。アレーヌ市出撃前のフォローは必要であったにも関わらず、其れを怠ったのは他でも無い自分だ。副長でもあり第二中隊を率いる立場の人間が、ツーマンセルの年若い少尉を残し早々に戦線を離脱。この件に関してデグレチャフ少佐は沈黙を貫いているけれど、何らかの形で処罰が下った方が幾らかマシであった。
大層な失態を晒したというのに誰にも責められないのは何故だ。副長という己の立場がそうさせるのか。目の前の同僚ならばもしかして、と心の何処かで思うところが無かった訳ではないが、其の期待は見事に裏切られた訳だ。
望む働きが出来なかった自分を直属上官ですら咎めようとはしなかった。
デグレチャフ少佐は一体何をお考えなのだ。
『帰ったら覚悟しておけ』
離脱時に掛けられた彼女の言葉の意味を未だに知らないでいる。
+++++++
「…今、中尉殿が何をお考えなのか小官にはわからないですけれど、たぶん、そういうところですよ」
悶々と思考の回廊に迷い込んだヴァイスをケーニッヒの発した一言が現実へ引き戻す。
先程まで床に向いていた琥珀色の瞳は何時の間にかヴァイスの菫色の瞳を覗き込んでいて、思考の海から這い出たばかりで意表を付かれたヴァイスは一瞬だけ呼吸の仕方を忘れた。詰まった息を時間をかけて吐き出すのを見届けたケーニッヒはヴァイスから視線を外す。
「大方、『考え過ぎ』ていたのでしょう」
「…少佐殿にも同じようなことを言われたな」
「ほう、当たっておりましたか」
ケーニッヒは自身の狐目を弓形に曲げて笑う。酒を酌み交わす時に見せる上機嫌な其れとまではいかないが、自分も酔いが回っていない分、ケーニッヒの満足そうな表情がはっきりと視認出来る。あの時もこれ位の余裕が自分にあれば…と思うとキリが無いがそう思わずにはいられなかった。
「これは持論ですけど、小官は感情に振り回されることを悪だとは考えておりませんよ。思い悩む気持ちも理解は出来ますが」
「そうは言っても自分たちの立場と状況を弁える思考は必要だ。
自制が出来なければそれは人間では無く只の獣に過ぎない」
「つまりヴァイス中尉殿とグランツは『獣』だとでも?」
「そう、なのかもしれない」
自嘲気味の乾いた笑いが口から漏れた。
英雄願望が打ち砕かれた今でも、帝国軍人として祖国に貢献を為すという意志は変らない。そもそも士官学校時代に銃殺の経験も積んできている癖に、今更人間相手に引き鉄を引くことを躊躇するなんて行いは愚かにも程がある。
向き合う現実から目を背けた。戦線離脱の理由はどうであれ、アレーヌ市での自らの行いは重大な軍規違反…敵前逃亡に他ならない。少なくともヴァイス自身そう重く受け止めていた。
「―――っ、たく、あんたは本当に莫迦なのか真面目なのかわからない人ですね!」
急に声を荒げたケーニッヒを見やると、乱暴な手付きで自身の額を抱え、心底『信じられない』といった表情で呆れていた。普段らしからぬ彼の態度に呆気に取られる。
「人としての理性も良識も持ち合わせているヴァイス中尉が『獣』である訳ないでしょう!
第一、『獣』なんかを少佐殿が大隊副長に任命するとお思いですか?
否。そんな訳が無いしょうが」
『それはヴァイス中尉が良くご存じの筈だ』と吐き捨てるように彼は言った。
ヴァイスは後頭部をショベルで殴打されたような衝撃と、『すこん』と身体の何処かで何かが抜け落ちたような音を聞いた。
今の自分は己の立場を勝手に否定して、罪の意識に囚われるという感傷に浸っていたかっただけなのかもしれない。忠誠を誓い、己が全幅の信頼を寄せたデグレチャフ少佐の存在をも否定することに繋がるということにすら気付けないでいる程今の自分は蒙昧であった。
「―――ぁ、ああ。…そう、そうだな」
蒙が啓かれる思いとは多分こういうことを言うのだろう。溜飲が喉元を通り過ぎたというのに、其れに反して口は上手く動かない所為で歯切れ悪い返事しか出来なかったのは彼を気を悪くさせただろうか。
間の抜けた顔の儘ケーニッヒを見やると、先程此方へ向けた呆れ顔は何処へやら、彼は至って普段通り表情に戻っていて、特に気にした素振りは見せていない。
「加えて言わせて貰いますと、グランツに関しては例えあいつがヴァイス中尉の言うところの『獣』だとしても、俺は仔犬が粗相した程度にしか思っておりません。…今回の市街地戦での経験はあいつの強みになる」
「一度折られた心を立て直すにはまだ時間がかかるでしょうが、あいつの成長は愉しみでもありますよ」ケーニッヒは声量を落として独り言のように呟いた。
「今の言葉をグランツに聞かせてやれば良いと思うぞ。きっと泣いて喜ぶ」
「女性なら兎も角野郎に縋られるのは御免被りたいので、先程の囀りは聞かなかったことにして頂けませんか?」
「ははっ、まあ今日のところは忘れておくことにしようか」
「本当に頼みますよ?面倒事は避けたい性分なもので」
ケーニッヒからはいまいち信用していないと言わんばかりの不審が滲み出た目線が寄越される。再び軽く笑い飛ばしてみたら今度は眉を顰めて露骨に心底嫌そうな表情を向けられた。
「…すまない。揶揄っている訳では無いんだ。
ただ、表面上は関心の無い素振りをしている癖に根は親切過ぎるものだから、その落差につい笑ってしまった。
その、上手く言えないのだが、…そういうところはケーニッヒの美点だと思うんだ。そういうのが分かるから、グランツもお前に懐いているのだと思う」
飾り気無い人物評を本人を目の前に恥ずかしげも無く語るヴァイスの目はとても穏やかに映った。一方で褒められるとは露にも思ってもいなかったケーニッヒは、突然のことに何時もの冷静な態度を振る舞うことが出来ずにヴァイスから顔を背けた。
「あんたのそういうところ、本っ当に敵わない……」
気恥ずかしさから首筋に手を置き平静を保とうと努めてはいるが、ヴァイスの言葉が反芻して彼の方に顔を向けられない。まさか自分が褒め殺しに遭うなんて、想定外にも程がある、そんな表情をしながら。
「………早く戻ってきて下さいよ」
やっとの思いで絞り出した声が精々嫌味たらしく聞こえれば良い。
先程から血色の良い笑みをたたえている副長の耳に届いているかは甚だ疑問ではあるが、今日は其れでも良いと思えた。
「ヴァイス中尉が抜けてから、色々と思うところがありましてね」
療食の下膳と入れ違い様にするりと入室した同僚は、挨拶もそこそこにベッドサイドに置かれた一脚の丸椅子に『どかり』と大きな音を立てて腰を掛けた。
彼が此の病室に来ることは珍しい事では無い。先日の戦闘で負傷した自分に代わり、次席指揮官としての職務代行に加えて、不在中の自分の部隊の近況報告も頼んでいるのだから、訪問頻度は自然と高くなる。顔見せついでに第二中隊の誰かを遣わせれば良いのだが、「基幹要員ならではの込み入った話もあるから」とケーニッヒが先んじて申し出てくれたことで、彼に更なる多忙と負担を掛けることを理解していながらも現状は其れに甘えている。
帝国内外を東奔西走するの我ら二〇三大隊もアレーヌ市の戦闘を終えて一時的に後方待機を命じられており、現在の駐屯地から然程離れていない療養施設に入るともあらば、同僚や部下が見舞いに訪れるというのも難しくは無い。其れは彼の限りある余暇の時間を潰していることにもなるのだが、ケーニッヒも彼なりにひと時の後方待機を満喫しているようで、今日のように香の匂いを微かに纏わせた儘此の部屋を訪ねることも少なく無かった。
ただ、今日に限っては妙に表情が静かというか、先程の一言を発した後、口を開くことなく、自分と向き合いながらも何処か遠いところを見つめているような視線を寄越してくる。
落ち着いているようにみえて、それでいて何処か不安定。
普段は如何なる時でも整然としていて内面を読み取り辛い彼だけれども、場に呑まれて珍しく酔い潰れた時とか、部下が不在の時であったりとか、知る限りは自分とノイマンの前でしか見せない独特の空気感というものがある。
『冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也』
この空気感をそう表現したのはノイマンだった。普段は彼が中流諸階級の出自だということを忘れがちになるのだが、ふとした時に家柄の良さを匂わせる行動や言動を取ると、その度に彼の経歴を思い出してはびくりとしてしまう。(―――彼が女性を口説く所作や方便に秀でている事実を目の当たりにしたことで、ノイマンに対する人物評価がやや偏向している影響も否定はしない)
野郎相手に随分と繊細且つ文学的な例えを持ち出したものだと酔いの所為もあってその場は笑い飛ばしてしまったのだが、今思い返してみると表面的にですらあるが言わんとしていることが理解出来たような気がした。二十四節気で言うところの立冬、雨と霧の気配を常に纏っている空気感があるという点では確かにそうなのだろう。
ケーニッヒ本人が自覚しているかどうかは分からないが、あまり他人に聞かれたくない折り入った話を切り出す時、彼はこういった空気を連れて来る。
(ケーニッヒの冷めた表情と何処か温いモノを抱えるこのちぐはぐとした空気が充満するこの部屋は、正直酷く居心地が悪い)
「すまない。特にケーニッヒには負担をかけてしまっているな」
ヴァイスは眉を下げて肩を竦めた。
「いや、良いのです。別に責めてる訳でもなし。
負傷で戦線離脱をするのは誰しも有り得ることですし今は治療のみに専念して下さい。
……と、本来であれば言いたいところなんですけどね」
一呼吸置いてゆっくりと瞬きをしたケーニッヒの琥珀色の瞳は射抜くような鋭さを孕んでいる。先程まで朧げだった視線は何処かに消え失せていた。
季節はもう初夏だというのに指先が痺れたかのように冷たくなっていくのを感じる。彼の視線に怯んだ訳ではない。ただ、これから彼が紡ごうとしている言葉に、―――自分を咎めようとしていることに思い当たる節があったから、押し寄せた緊張の所為ですっと胸の芯が冷え、血液が行き届かなくなった末端が感覚を失っていっただけだった。
「…グランツのことか」
療養中、…否、後退を余儀なくされた時からずっと気懸かりだった部下の名を口にする。
グランツとはあれから殆ど言葉を交わしていない。
「あいつに限ったことではないですけどね。比較的年長者が多いうちの部隊にもおりましたよ」
第四中隊はどうだったか。――ああ、あいつの部隊は若い奴が多いですけど、ノイマンは人一倍面倒見が良いんで、そこは心配要らないでしょうよ。
自ら連れて来た重い空気に反して、ノイマンの部隊を引き合いに、ケーニッヒは思いの外さらりとした物言いで言葉を続けた。
「『あの』命令に動揺する気持ちは分かります。
特にグランツは促成課程の煽りをモロに受けた世代だ。尉官の素質は十分あるにせよ、現状ではまだ自覚も、
―――覚悟も足りなかったんでしょう」
「…抗命未遂の件か」
戦線離脱後は其のまま副長業務をケーニッヒに移管したとはいえ、彼を通さずとも部隊の状況は耳に入って来る。少佐殿を始めとする基幹要員からは何も聞かされていないが、他の隊員から凡その内容は聞き及んでいた。幸いというか抜かりが無いというか、二人の会話は大隊内のオープン回線にも繋いでおらず、HQと少佐殿の通信からグランツの抗命未遂の仔細を把握している人間は当事者を除いてケーニッヒただ一人である。
「小官も傍らに居ながら肝を冷やしましたよ。…全く、少佐殿がお優しい方で良かったですね」
いつもの彼らしい皮肉めいた声色とは裏腹に、其の表情は固い。
「お前が居てくれて本当に助かっている。グランツのことも相変わらず気に掛けてくれているのだろう?」
ケーニッヒが一人で剣術の鍛錬をしていることはヴァイスも勿論知っていた。そこにグランツが弟子入りを志願したことも、そのグランツが毎度のように完膚なきまで彼に伸されていることも。
「今に始まったことじゃないです、あいつが後ろから付いて回るのは」
「こういうことを言うとお前は怒るだろうと思うけれど、満更でもなさそうに見えるんだが」
そうを尋ねるとケーニッヒは怒る素振りは見せず、ただ眉間に皺を寄せて大袈裟な溜息を一つ溢した。
「グランツの奴、剣の腕もまだまだだって言うのに、犬っころみたいに毎度懲りずに『構い倒せ』と見えない尻尾を振って主張してくるんですよ。アレを断る方が労力が要る。それに、暑苦しいですけど放って置くのも危なっかしいですし」
「…危なっかしいか。まぁ、そうだな」
「ええ。リードが不要になれば小官も中尉殿も大分楽になるんですけどね」
ケーニッヒは『はぁ』と大袈裟に肩を揺らして再び盛大な溜息を溢す。日中に凝り固まってしまったであろう両肩を解し、天井に向けて小さく伸びの動作を取った彼の挙動の始終をヴァイスは目を逸らさず見つめた。―――ケーニッヒの話が此れで終わる筈が無いと理由の無い確信があったからだ。冷えた指先を無意識に擦る。
ケーニッヒの視線がヴァイスの其れとかち合ったのは一瞬のことで、どういうわけか彼はそのまま視線をヴァイスの手元まで落とし、顔を直視しない儘口を開いた。
「小官が気にしているのはグランツのことじゃなくて、
―――ヴァイス中尉、貴方のことなんですけどね」
「ははっ、……まさかお前に心配を掛けさせてしまうとは、な」
乾いた笑いとともにヴァイスは肩を落とす。
色々と考えさせられるには時間は十分過ぎた。この療養中、暇を持て余すことすら忘れてしまう程に。
グランツの抗命未遂の原因の一端は自分にあったという自覚は当然あった。アレーヌ市出撃前のフォローは必要であったにも関わらず、其れを怠ったのは他でも無い自分だ。副長でもあり第二中隊を率いる立場の人間が、ツーマンセルの年若い少尉を残し早々に戦線を離脱。この件に関してデグレチャフ少佐は沈黙を貫いているけれど、何らかの形で処罰が下った方が幾らかマシであった。
大層な失態を晒したというのに誰にも責められないのは何故だ。副長という己の立場がそうさせるのか。目の前の同僚ならばもしかして、と心の何処かで思うところが無かった訳ではないが、其の期待は見事に裏切られた訳だ。
望む働きが出来なかった自分を直属上官ですら咎めようとはしなかった。
デグレチャフ少佐は一体何をお考えなのだ。
『帰ったら覚悟しておけ』
離脱時に掛けられた彼女の言葉の意味を未だに知らないでいる。
+++++++
「…今、中尉殿が何をお考えなのか小官にはわからないですけれど、たぶん、そういうところですよ」
悶々と思考の回廊に迷い込んだヴァイスをケーニッヒの発した一言が現実へ引き戻す。
先程まで床に向いていた琥珀色の瞳は何時の間にかヴァイスの菫色の瞳を覗き込んでいて、思考の海から這い出たばかりで意表を付かれたヴァイスは一瞬だけ呼吸の仕方を忘れた。詰まった息を時間をかけて吐き出すのを見届けたケーニッヒはヴァイスから視線を外す。
「大方、『考え過ぎ』ていたのでしょう」
「…少佐殿にも同じようなことを言われたな」
「ほう、当たっておりましたか」
ケーニッヒは自身の狐目を弓形に曲げて笑う。酒を酌み交わす時に見せる上機嫌な其れとまではいかないが、自分も酔いが回っていない分、ケーニッヒの満足そうな表情がはっきりと視認出来る。あの時もこれ位の余裕が自分にあれば…と思うとキリが無いがそう思わずにはいられなかった。
「これは持論ですけど、小官は感情に振り回されることを悪だとは考えておりませんよ。思い悩む気持ちも理解は出来ますが」
「そうは言っても自分たちの立場と状況を弁える思考は必要だ。
自制が出来なければそれは人間では無く只の獣に過ぎない」
「つまりヴァイス中尉殿とグランツは『獣』だとでも?」
「そう、なのかもしれない」
自嘲気味の乾いた笑いが口から漏れた。
英雄願望が打ち砕かれた今でも、帝国軍人として祖国に貢献を為すという意志は変らない。そもそも士官学校時代に銃殺の経験も積んできている癖に、今更人間相手に引き鉄を引くことを躊躇するなんて行いは愚かにも程がある。
向き合う現実から目を背けた。戦線離脱の理由はどうであれ、アレーヌ市での自らの行いは重大な軍規違反…敵前逃亡に他ならない。少なくともヴァイス自身そう重く受け止めていた。
「―――っ、たく、あんたは本当に莫迦なのか真面目なのかわからない人ですね!」
急に声を荒げたケーニッヒを見やると、乱暴な手付きで自身の額を抱え、心底『信じられない』といった表情で呆れていた。普段らしからぬ彼の態度に呆気に取られる。
「人としての理性も良識も持ち合わせているヴァイス中尉が『獣』である訳ないでしょう!
第一、『獣』なんかを少佐殿が大隊副長に任命するとお思いですか?
否。そんな訳が無いしょうが」
『それはヴァイス中尉が良くご存じの筈だ』と吐き捨てるように彼は言った。
ヴァイスは後頭部をショベルで殴打されたような衝撃と、『すこん』と身体の何処かで何かが抜け落ちたような音を聞いた。
今の自分は己の立場を勝手に否定して、罪の意識に囚われるという感傷に浸っていたかっただけなのかもしれない。忠誠を誓い、己が全幅の信頼を寄せたデグレチャフ少佐の存在をも否定することに繋がるということにすら気付けないでいる程今の自分は蒙昧であった。
「―――ぁ、ああ。…そう、そうだな」
蒙が啓かれる思いとは多分こういうことを言うのだろう。溜飲が喉元を通り過ぎたというのに、其れに反して口は上手く動かない所為で歯切れ悪い返事しか出来なかったのは彼を気を悪くさせただろうか。
間の抜けた顔の儘ケーニッヒを見やると、先程此方へ向けた呆れ顔は何処へやら、彼は至って普段通り表情に戻っていて、特に気にした素振りは見せていない。
「加えて言わせて貰いますと、グランツに関しては例えあいつがヴァイス中尉の言うところの『獣』だとしても、俺は仔犬が粗相した程度にしか思っておりません。…今回の市街地戦での経験はあいつの強みになる」
「一度折られた心を立て直すにはまだ時間がかかるでしょうが、あいつの成長は愉しみでもありますよ」ケーニッヒは声量を落として独り言のように呟いた。
「今の言葉をグランツに聞かせてやれば良いと思うぞ。きっと泣いて喜ぶ」
「女性なら兎も角野郎に縋られるのは御免被りたいので、先程の囀りは聞かなかったことにして頂けませんか?」
「ははっ、まあ今日のところは忘れておくことにしようか」
「本当に頼みますよ?面倒事は避けたい性分なもので」
ケーニッヒからはいまいち信用していないと言わんばかりの不審が滲み出た目線が寄越される。再び軽く笑い飛ばしてみたら今度は眉を顰めて露骨に心底嫌そうな表情を向けられた。
「…すまない。揶揄っている訳では無いんだ。
ただ、表面上は関心の無い素振りをしている癖に根は親切過ぎるものだから、その落差につい笑ってしまった。
その、上手く言えないのだが、…そういうところはケーニッヒの美点だと思うんだ。そういうのが分かるから、グランツもお前に懐いているのだと思う」
飾り気無い人物評を本人を目の前に恥ずかしげも無く語るヴァイスの目はとても穏やかに映った。一方で褒められるとは露にも思ってもいなかったケーニッヒは、突然のことに何時もの冷静な態度を振る舞うことが出来ずにヴァイスから顔を背けた。
「あんたのそういうところ、本っ当に敵わない……」
気恥ずかしさから首筋に手を置き平静を保とうと努めてはいるが、ヴァイスの言葉が反芻して彼の方に顔を向けられない。まさか自分が褒め殺しに遭うなんて、想定外にも程がある、そんな表情をしながら。
「………早く戻ってきて下さいよ」
やっとの思いで絞り出した声が精々嫌味たらしく聞こえれば良い。
先程から血色の良い笑みをたたえている副長の耳に届いているかは甚だ疑問ではあるが、今日は其れでも良いと思えた。