幼女戦記(名前変換)
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(恋を見守る話後日譚)
[1925/1/xx]
20:25
眼前に鎮座する紙の束を上部の一冊を崩し表紙からぺらぺらと数枚捲る。表情に出すことはしないが、事務デスクに積まれた書類の山にライナー・ノイマン航空魔導中尉は閉口していた。
(こういうことはやっぱり苦手だ)
士官学校のカリキュラムも卒無く熟してきたとは言え、人間向き不向きというものは存在する。在学中の座学の成績は決して悪くない。とは言えじっと机に向き合うことを苦手としていた彼は、将校という立場上、実務以外のある程度の事務処理も熟してきてはいたが、第二〇三航空魔導大隊の第四中隊・同隊長に任命されてからというもの、中隊規模の部下を統率する立場として今まで以上の職務量に頭を悩まされていた。
後方勤務と比較すれば、日々生ずる此れ等は微々たる量なのかもしれない。我々は参謀本部直轄の即応部隊であるから、席の暖まる暇もない正に東奔西走の日々。腰を落ち着けて書類仕事に執りかかる時間は余りにも少ない。忙しない日常の中で主要な報告分に関しては如何にか斯うにか対処出来ていたものの、優先度の低いものを後回しにしてきたツケがこんなに溜まっていたとは。
───今すぐ燃焼術式で燃やし尽くしたい。
物騒な考えが浮かび、とても現実的ではないと理性的な自我によって直ぐに否定をされる。そんな様に書類をただ眺めながら脳内で己の二面性を遊ばせていると、真正面から同僚の刺さるような視線が飛んで来たものだから、丸くなっていた背中をほぼ反射的に勢い良く正した。
(『少佐殿の不在とは言え緩み過ぎだ』)
そう無言で咎めるヴィリバルト・ケーニッヒ第三中隊・同隊長は、寄越した視線を直ぐに手元に戻しインク瓶にペン先を浸し軽く瓶の縁で拭っている。───また彼の『御小言』でも頂戴するのかと身構えたのに拍子抜けだ。こちらに感けている余裕がないのか単に呆れているのか…。彼もまた自分と同じく溜め込んでいた書類を本日中に消化する算段でこの場にいる。…異なる点は彼がじきにその処理を終えそうな状況だということ。
彼の無言の忠告通り、今は一人漫才をしている場合ではないことは重々承知している。だが、今日の様に珍しく十分に時間が確保された状態でいざ打ち込もうとすると、妙に集中力が持続しない。
机の端に置いたままになっていたカップを手元に手繰り寄せ、冷めてしまった珈琲をぐいっと飲み干す。
(ああ、これは深煎りの良い豆だなぁ)
目の前の書類に専心するばかり(思う様に捗っていない現実は直視せず)に淹れられた珈琲の存在すら忘れてしまっていて、それはすっかり熱を失ってはいたのだが、独特の苦みと香ばしい薫りが鼻腔を擽って緩んでいた思考が冴えて来たように感じた。痛んだ豆の嫌な酸味も感じられず保管状況も良好。流石はデグレチャフ少佐の秘蔵の珈琲といったところか。その恩恵に預かれるのは主に基幹要員か若しくは当直番のどちらかで、更に言えばセレブリャコーフ少尉が淹れる珈琲を堪能出来る人間は限られている。
今は冷めてしまった珈琲は早目の休息に入ったデグレチャフ少佐に続くように執務室を後にした彼女の置き土産だった。現在執務室に残るのは自分を除くマテウス・ヨハン・ヴァイス第二中隊・同隊長とケーニッヒの二名のみで、時折各中隊の部下が報告に出入りする程度で、室内は静かなものだった。
サラサラと筆を走らす音。紙を捲る擦れた音。時折聞こえる珈琲を啜る音。決して無音ではない空間が、(幾分脳が冴えて来たとは云え)書類が捗らない彼とっては大層居心地が悪い。机の向こうで作業する同僚達は涼しい顔で黙々と事務処理に打ち込んでいる。こういった作業も苦に思わない彼らが羨ましい。
思う様に集中できない頭で行儀が悪いと思いつつも机に肩肘をつき向かいで作業する髪の長い同僚を見やる。傍目から見ると他人よりも険しいと云われる彼の表情は、先程自分に向けられた一瞬を除き、凡そ穏やかな状態であるらしかった。確かに彼の眼光は平時でも相手を委縮させるの先鋭さを感じさせるのだが悪意や敵意を持って仲間に対し其れを向けられることは殆どない。
そう、"殆ど"ないのだが……
( ! )
ふと脳裏に浮かんだ先日の一件を思い出して咄嗟に顔ごと視線を逸らす。
緩みかけた表情を二人に悟られていないだろうか。
+++++
自分は社交性のある人間だと自負しているし、周りの機微には敏感な方で、特に部隊管理に関しては人一倍神経を割いてきたつもりだ…と言うのも、第四中隊の構成員は若年者が多くを占め他の中隊よりも魔導師としての経験値がやや劣っている。何れもデグレチャフ少佐の選抜過程を突破した猛者共なのだから、軍人としても高水準であることは間違いないのだが、それでも若さ故の無知な発言や緩んだ行動は全くのゼロではない。故に部隊内外で不必要な衝突が生じぬよう人一倍気を配っていた。部下には悪いとは思いつつ、隊員のプライベートも大なり小なり把握している。必要以上に気苦労も多くなるものではあるのだが、他人との交流は全く苦にならない性分である為か、一方で管理し易い一面もあり、利点の方が大きいとさえ感じる。戦後は教師になるのも悪くない───そう楽しむ余裕も生まれてきた今や直属の部下に限らず大隊内の各員の動向も凡そ把握出来るようになっている。戦闘時の得手不得手は勿論のこと、趣味嗜好や各員の交流範囲…隊員同士の変化・不和等があれば真っ先に気が付く程に。
──最近特に興味を惹かれていることといえば同僚のヴィリバルト・ケーニッヒと、第二中隊所属のサガ・ベルイマン少尉の関係性である。
二人とも直属の上司部下の関係では無いものの、ベルイマン少尉は衛生魔導師としての一面もあり、各隊員との交流の幅が広い。加えて事務処理能力も高いのでヴァイス中尉の補佐業務で重用されているせいかデグレチャフ少佐をはじめとする俺達基幹要員との関わりも何かと多い。少尉は性格も穏やかで癖がなく付き合い易い部類の人間───年齢の割りに妙に落ち着きがあるというか消極的というか今時珍しいタイプの女性だった。俺自身、自分の気性も関係しているのだが彼女と行動を共にする時は驚く程円滑に事が進む。其れに彼女はお人好しの部類で、俺も『偶に』事務処理を手伝って貰うこともあるから、話す機会は其れなりに多いし、冗談だって通じる間柄だ。
───其れなのに、何処か白々しいというか他人行儀というか、いつの間にか輪の中心から外れた場所で曖昧に笑っている印象が抜けない女性だった。
彼女の取る行動が『そういう』風に感じてしまうのは恐らく其の容姿に起因している。白い髪と赤い双眸を具え、周囲の者とは一線を画す外見。俺も彼女と知り合うまで、人間のアルビノというものを目にしたことが無い。まぁ確かに見慣れないせいもあって世間一般から蔑視され、避けられてしまう理由も分からなくもないが、彼女自身が自分の容姿を相当疎ましく思っている。奇異の目に晒され続け、己が感性も大分歪まされたのであろう。己の承認欲求に蓋をして、諦観が身体に染み付いてしまっている。其れ故に他人行儀が抜けない態度が行動の端々に現れてしまっているのだ。
彼女に対する総評は殆ど俺の妄想でしか無い。
が、恐らく大筋は外れていない。
以前、物珍しさ故か本気なのか判別し難いが他部隊の男性士官に声を掛けられている場面を『偶然』目にしたことが数度あった。男女平等を謳う帝国軍においても女性士官は只でさえ稀少なのだ。あわよくば、と思い行動を起こす輩は後を絶たないだろうし、セレブリャコーフ少尉やあのデグレチャフ少佐までもきっと苦労してきたに違いない。そして今や帝国軍内で圧倒的な功績をあげて確固たる地位を築いている我が大隊とは云え、セレブリャコーフ少尉もベルイマン少尉の二人も平時の気性はとても穏やかであるので何かと声を掛けられ易い。セレブリャコーフ少尉は彼女の豪運を活かし、他部隊の嗜好品をかっ攫って戻ってくる程度には交流関係を拡げているようで、そもそもライン戦線で揉まれた猛者に手を出そうとする輩は一定数返り討ちにあっているようだった。ベルイマン少尉に至ってはセレブリャコーフ少尉のように積極的に賭け事に参加する訳でも無く、アルコールだって特段強い方では無い。例え男女の関係を迫られていたとしても、彼女の交流関係に変化が見受けらないことから、そういう類の誘いも含めて悉く断っているらしかった。彼女の世界の主軸は今や第二〇三大隊で、時折衛生魔導師としての任が付いて回るだけで彼女の交友関係は極めて狭い。何時だって会話の中心に立つこともせず一歩引いたところで楽しそうに眺めている。
そんなベルイマン少尉に少しずつ変化が現れ始めた。
最近は以前に比べてよく笑うようになった気がする。控え目な笑い方だが、同性のセレブリャコーフ少尉と一緒にいる時にみせるような畏まっていない素の表情が、他隊員との間でもぽつぽつとみられるようになった。大隊編成初期に感じたのような近寄りがたい雰囲気も大分薄れて随分と柔らかく笑う様になったし、気が緩んだ反動か、軍務に差し障り無い程度にちょっとした隙を垣間見せるようになってきて、第二中隊の面々に揶揄われたりすることもあるようだった。其れに気が付いた時は親心が芽生えたように何故か嬉しく感じたものだが、時期を同じくしてケーニッヒとの距離が少しずつ縮まってきたことにも気が付いてしまった。
ケーニッヒが少尉のことを気に掛けていることは以前から勘付いてはいたのだが、会話しているところをみていると二人が『良い雰囲気』であることは間違いなかった。そして中々進展しそうにない二人の関係に傍観者ながらも頭を悩まされることになる。少尉は兎も角として、ケーニッヒが明確な行動を起こさない何故だ?経験皆無の青臭い十代のような恋愛観を持つ男でもないだろうに。
ケーニッヒが少尉に対して『男女としての』好意を抱いていることは最早明白のことで、少尉も周りの人間とは違った好意の眼差しを彼に向けているということも疑いようもない事実であった。
嗚呼何か、何か切っ掛けでもあれば。
此処は俺が一肌脱ぐべきなのか?
いや流石に其れはお節介が過ぎるか?
誰にも打ち明けられない親心のようで実はとんでも無い邪なこの悩み。二人のことで気を揉む悶々とした日々を送るうち、───或る日突然俺の前に救世主が現れることになる。
二人の関係に一石投じた人物は、二人の変化に気が付いているかどうかも怪しいヴォーレン・グランツ航空魔導少尉だった。
+++++
つい先日、士官食堂にて三人で談笑をしていたところにベルイマン少尉を訪ねて駆け込むように現れたグランツ少尉。慌てている様子にも関わらず中々本題を切り出さない彼に苛立ちを覚えていたのは当のベルイマン少尉ではなく、その場に居合わせていたケーニッヒだった。グランツの奴がベルイマン少尉を訪ねてきた理由までは分からなかったが、彼のあの要領を得ない態度は確かに誤解を招く。だからケーニッヒがそう受け取ってしまっても何ら可笑しくない。…そう可笑しくはないのだが
(だからといって其れは大人げ無いだろうよ)
グランツから不穏な空気を感じ取ったケーニッヒは、ベルイマン少尉が自分達に背を向けているのを良いことに先程からグランツに対して無言の圧力をかけていた。
(あそこまであからさまな態度をとる程余裕がない奴だったとはねぇ…)
普段の冷静沈着と言われる彼は一体何処へやら。ケーニッヒは彼女のことになると人知れず冷静さを欠く。彼には悪いがあの時は笑いを堪えるのが少々(…いや、実を言うとかなり)大変だった。そして、グランツがベルイマン少尉を連れ立って去っていった後は別の意味で大変だった。眉間に皺を寄せていつも以上に険しく不機嫌な表情。激減する口数。
「お前って意外と余裕がないんだな」
「………悪かったな」
ケーニッヒは眉間の皺を寄せたまますっかり冷めてしまった珈琲を啜る。言葉の含意を否定することも無いことに驚いたが、今更隠しても仕方がないといった表情を見て随分としおらしくなったものだと此処に居ない彼女の影響の大きさを悟った。
「グランツに嫉妬する気持ちは分からなくも無いけど、部下に敵意を剥き出しにするっつーのは上官の立場としてもどうかと思うぞ」
「…自分でも解っている」
「お前が慎重になるのは責めないけどよ、他の男に取られてから後悔はするなよ。───少尉を想う気持ちがあるなら、早く其れを伝えてやるべきじゃないのか」
「其れが出来るものなら疾うにそうしているさ」
彼の眉間の皺が一層深く刻まれる。
そして一つ瞬きをしてから苦々しく表情を崩した。
「少尉は後方の安全な衛生魔導師の立場を捨ててまでこんな前線にまで来る『狂信的な愛国者』だ。衛生魔導兵科から転科した経緯は俺も詳しくは知らない。だが、余程の理由があることだけは解る。……彼女の意志を蔑ろにするなんてことは俺には出来ない」
「お前の考え過ぎじゃないか。『狂信的な愛国者』の件に関して云えば、大隊創設時からいる隊員なんてそんな連中ばかりだろうに。其処は俺もお前も同じじゃないか」
「それはそうではあるが…。少尉は周囲と距離を取りたがる癖のようなものがあるだろう。其れに折り合いを付けて前線に来たようにはとても思えない。どうも整合性に欠けているんだ、祖国を憂う気持ちと、俺の知る彼女の内面が」
ゆるりと緩慢な瞬きをした彼の視線は此処ではない何処か遠くに向けられているようだった。記憶から呼び起こした憧憬をただ懐かしむように、彼の強張った表情が幾らか穏やかになる。
「うーん…敢えて否定はしないけどよ。だからと言ってお前まで意固地になってどうする」
「少尉の性分を考えてみろ。…彼女は優し過ぎる。俺が要らんことを言って、余計な負担を掛けたく無い。───そうは思っていても、きっと後悔はするのだろうな」
彼は静かに席を立ち、そのまま天幕を後にした。
置き去りにされたカップに残る珈琲が、彼が席を立った振動で揺れ、今も微かに波を立てていた。
+++++
記憶のケーニッヒの後姿を思い出しながら自分の珈琲を啜る。
(あいつも思考が随分と固くなったな…ヴァイス中尉でも乗り移ったのか? ああ、そういえばベルイマン少尉もあれで妙に頑固なところもあるしなぁ…)
少尉とて彼と同じで軍務と私情は割り切る人間。だから若し、仮にだ、二人が恋人関係になったとしても、軍務に差し障ることは決して無いのだろう。抑々、あの二人は色々と考え過ぎる節がある。もっと自分に正直になれないものだろうか。未練を言葉に出来るくらいなら、いっその事覚悟を決めてしまえば良いものを。臆病になったって何も変わりはしないだろうに。
+++++
[1925/1/xx]
20:40
「───中尉、ノイマン中尉。……如何されましたか」
雪のような白い髪が目の端に留まり、はっと思考を元に戻す。
「先程から捗っていないようですが、……一息入れませんか」
空になったカップはベルイマン少尉の手に収まり、代わりに淹れたばかりの珈琲が机の端に置かれる。彼女は少し前からヴァイス中尉の補佐業務でこの部屋で作業していたらしかった。…『らしかった』というのは書類に集中出来なかった割に、考え事には夢中になっていて、今の今まで彼女の存在に気が付かなかったからだ。
「ああ、すまんな。こういうのはどうも苦手なものでな」
まさか事務処理中に他人の色恋の心配をしていたとは言えない。しかも当人が揃っているこの場で。
「そうでありますか…小官はあと少しで手が空きますからお手伝い致しますよ。宜しいですね、ヴァイス中尉」
長机とL字型のソファ席一杯に書類を拡げているヴァイス中尉に振り向き様に問い掛けた。
「ああそれは構わないが」
然して気に留める風でもなくあっさりと快諾される。傍目には煩雑な状況にみえてあれはあれでじきに片付くらしい。
「少尉、ノイマンの奴をあまり甘やかすな。常習化するのは目に見えてる」
ケーニッヒが視線もあげず制止を口にする。少尉は彼の方を見遣って、一瞬何か言い淀んだようにも見えたが、ゆっくりと瞬きを一つすると、何事も無かったように小さく呟いた。
「…ですが、このままだと後続の作業にも影響を来すやも…」
少尉は横目で未処理の書類の束をみつめた。優先度は低いものとは言え、この量をこのまま溜め込むのは宜しくない。彼女の視線の先を追ったケーニッヒは眉間に一筋の皺を寄せると、大袈裟な溜息を一つ吐いた。
「次は自分でどうにかしろよ」
彼はそう言うと未処理の山から書類をいくつか攫って自席に置いた。彼の後姿を目で追った少尉は、彼が自席の椅子を引いたのを見届けてから視線を外し、精査の完了した書類をファイリングする作業に取り掛かる。
「ノイマン中尉、差し出がましい意見かもしれませんが第四中隊は若い隊員も多いのですから、幾らかは部下にお任せしたら如何ですか」
「そうしたいのは山々だけどな…。うちの隊は優秀なのも勿論いるけど、字の汚い奴が多いんだよ…」
難読の書類に幾度苦労したことか…。がっくりと項垂れると、ベルイマン少尉は口元に手をあててくすりと小さく笑った。結構深刻な問題なんだけどなぁ…と独り言ちる。
「ノイマン、お前の部隊に事務処理能力に長けた人物を配置するようデグレチャフ少佐に進言してみるとするよ。…毎度うちのベルイマン少尉に頼られても堪らないのでな」
「ははは、是非お願い致しますよ」
人員整理となると先の話になるな。補充要員をあてにするか、若しくは───
「そうだ!ベルイマン少尉、うちの中隊に来ない?第二中隊以上の好待遇を保障しよう」
「あらあら、大変です。第四中隊にスカウトされてしまいましたわ。如何致しましょうヴァイス中尉」
「少尉が抜けると俺が困るな…。部隊を再編成する時は、少尉を部隊から外されないよう少佐殿に進言しておかないとな」
「ヴァイス中尉まで二人の茶番にのらんでください。それとその返し方、呆けているのか真面目に言っているのか分かり辛いですよ」
ケーニッヒが書類から目を離さずぴしゃりと言い放つ。
「参ったな…ふざけているつもりはなかったんだが」
「ヴァイス中尉は兎も角、ノイマン、お前は良い加減自分の持ち分を片付けろ。この調子だと日付が変わる」
腕時計で時刻を確認して慌てて目の前の書類に視線を戻す。珍しく纏まった時間があるとは言え、徒に時間を浪費するのもそろそろ終いにせねば。ファイリングを終えたベルイマン少尉も未処理の山から数冊引き抜き、ヴァイス中尉が占拠する長机に持っていく。彼が処理を終えた束を整えながら、漸く確保した猫の額ほどのスペースで作業に執りかかる準備を始めている。自分含め三人がかりで執りかかるのだ。自分が足を引っ張ってしまうことは避けたい。
+++++
[1925/1/xx]
21:40
「ほら、終わったぞ」
ケーニッヒは先程攫って行った書類の束を精査完了の山に積む。
「おお、助かる」
「…そっちはまだかかりそうか」
彼は長机で作業をしているベルイマン少尉に声を掛けた。一足先に作業を終えて退室したヴァイス中尉が占拠していたスペースをほぼ使うことなく、ソファに浅く腰掛けて低い長机に向かい、身体を小さくしながらペンを走らせている。
ケーニッヒに声を掛けられた少尉はびくっと大きく肩を揺らし反射的に顔をあげた。作業に没頭していたにしては些か大袈裟な反応に、俺もケーニッヒも思わず彼女を凝視してしまう。上官二人の視線に一瞬怯んだようにみえたが、直ぐに何事も無かったようにへらりと表情を崩した。
「小官もあと少しかかりそうですから、ケーニッヒ中尉は先に上がられて下さい。ノイマン中尉ももう少しですから一緒に頑張りましょう」
「そうか。…あまり遅くならないようにな」
「はい、おやすみなさい中尉殿」
執務室を後にするケーニッヒの後姿を見送りその場で小さく息を吐く。
「───少尉、その書類とっくに出来上がっているだろう」
「いいえ?ノイマン中尉にお目通し頂けましたら完了ですからまだ終わっておりませんよ」
付箋の貼られた頁を一枚捲り、作業者欄に記された『サガ・ベルイマン』の下に控える管理者サイン欄の空白部分を指差す。
「それだけなら俺を待つ必要はないだろうに。…ケーニッヒの奴と先に上がれば良かっただろう」
意図的に彼の名前を挙げてその反応を確かめようとすると、彼女はただ曖昧に表情を崩し、首を左右に振った。
「小官からお声掛けしたのですから最後までお付き合い致しますよ」
彼女の仕上げた書類を差し出される。
「───わかった。なるべく急ぐからあともう少しだけ待っていてくれ」
受け取った書類の代わりにブランケットを差し出す。
「………中尉殿?」
手渡されたブランケットを凝視して疑問符を浮かべいる。
「セレブリャコーフ少尉は膝掛けを使っているけどベルイマン少尉はこういうの使っているところ見たことが無かったからさ。女性は身体冷やすの良くないって言うけど…余計だったかな」
「いいえ、その…小官は寒さには耐性がある方なので自分ではこういうことに無頓着だったものですから少し驚いただけですわ。気に掛けて頂いてありがとうございます。少しの間お借り致しますね」
彼女はそう言うと深くお辞儀をして作業していたソファ席に戻った。折り畳んであったブランケットを丁寧に広げ、浅く肩に引っ掛けて上半身を覆う様に包まる。そのままソファ席に深く腰を掛けてそのまま上半身を背凭れに預けた。普段忙しなく立ち回っている彼女にとって手持ち無沙汰であるこの状況が妙に落ち着かないのか、珈琲杯を膝に置き、時折指先で縁をなぞったりしながら空になった底をぼんやりと眺めている。
今日の彼女はどこかおかしい。
+++++
[1925/1/xx]
22:10
コツン
書類の角で頭を軽く小突いて俯いている少尉の顔を覗き込む。顔をあげたベルイマン少尉の赤い瞳が僅かに縮瞳して緩やかに焦点が合う。
「待たせて悪いな。待つのに疲れたか?」
精査終わったぞ、と少尉の仕上げた束を片手で持ち上げて見せる。
「すみません、ぼーっとしてしまって。それに別に疲れているわけでは…」
「じゃあアレだ。何か悩み事でもあってそれに夢中だったとか?」
「……いえ、大した事ではありませんよ」
「嘘が下手だなあ少尉は」
彼女は何も言わずまた曖昧に笑った。
嘘が下手な自覚はあるのだろうが、殊に私情に関しては例え見透かされたとしてもそれ以上自分から多くを語ろうとしない。彼女がこういう反応をする時は無理に口を割らせることは出来ない。というか、少尉相手にこういうことを強いるのは正直なところ気が引ける。
「まぁ無理に話せとは言わないけどさ、独りでずっと抱え込むのもどうかと思うよ。勿論俺じゃなくても良いし、何ならセレブリャコーフ少尉あたりにでも…」
『相談すると良い』
そう言いかけた言葉は少尉の行動によって制された。
左腕に感じる抵抗感。
違和感の先を見遣ると軍服の左裾を強く引っ張られている。驚いて彼女をみると、ぱっと手を離して直ぐに手を引っ込めた。
「あ、あの、っすみません…」
顔を赤らませて伸ばした手をもう一方で庇う様に隠す。俯いて下方に流れる髪の隙間から覗く耳までも赤く染まっているが見て取れる。不意に出た行動なのであろう。彼女自身も慌てている。
「し、失礼しました。あの、本当に何でもありませんので…」
普段の彼女らしくない、こんな取り乱す少尉をみていると『年齢の割りに妙に落ち着きがある』なんて人物評を下した自分が如何に安直な思考の持ち主であったかと即座に考えを改め無ければならなかった。十代前半の生娘を相手にしているようなむず痒いそわそわした気分(───これは流石に彼女に失礼か)を伴って自分の顔も赤ばんで来るのを感じる。少尉は俺の反応を意とせず言葉を続けた。
「中尉殿、その、宜しければ聞いて下さりますか。…ただ、何方かに相談する以前の問題で、自分の気持ちですら整理がついていない状況ではあるのですが」
やはり今日の彼女は様子がおかしかった。
+++++
[1925/1/xx]
22:20
とある人物のことで気になっていることがある。
そう告げた少尉は相手の名を口にすることを強く躊躇った。彼女が腰掛けるL字型のソファ席のもう一辺に腰を落ち着けてから彼是五分が経過。時間をかかることは然程問題では無い。彼女の口から直接聞くのが何よりも一番良いに決まっている───が、感情の整理もついていないぐちゃぐちゃな状態で其の名を口にするのはどうしようもなく気持ちが乱れてしまうのだろう。この場合、時間が経過すればする程苦しむのは彼女の方なのかもしれない。真っ赤な瞳が涙で滲み、瞬き一つで雫となって零れ落ちてしまいそうだった。
「焦らなくて良いよ少尉、───ケーニッヒのことなんだろう?」
「……っ!!………ノイマン中尉は本当に良くみていらしゃるのですね」
取り乱した状態で彼の名を口にせずに済んだ所為なのか少しだけ平静を取り戻した彼女は袖口で目元を押さえ、やや乱暴に拭った。
「俺の周りのことだからなぁ。まぁ分かるさ」
「そんなに態度に出ていましたか」
皮膚が赤く擦れ、薄く痕になっている目元を晒して困ったように笑う。
「昔から嘘を吐いたりするのは苦手なんです。取り繕うのは下手なりに出来ていたと思うんですけど…」
「態度に出ているというか、ここ数日あいつに対する対応が妙に余所余所しくなったなぁと…。今日とか特にそうだろ?」
俺が見立てでは二人は『良い雰囲気』だったはず。少なくともつい最近までは。
「あいつと何かあった?」
「いえ、特段変わったことはないのですが」
さらりとした物言いと仕草をみるとどうやら嘘は吐いていない。が、これは単に彼女の自覚が追い付いていない『何か』はあったと見るべきだろうか。
「少尉はケーニッヒのことが好きなのかと思っていたんだけど」
俺が思っていたことを包み隠さず直球で問うた。『好き』というのは勿論恋愛的な意味で。俺の言葉の意味を正しく汲み取った彼女は、ゆっくりと一つ瞬きをして、自信無さ気に視線を落とした。
「…それが、わからないのです」
肯定はしないが否定もしない。
彼女は嘘を吐く時や本心を隠したい時に曖昧な表情で笑う癖がある。それが今無いということは、彼女自身も本当に答えが出せていないのだろう。
「ケーニッヒ中尉はとても有能な軍人であらせられる。視野が広くて、部下への気配りも欠かさないお優しい方ですし、直属の部下ではない小官に対しても何かとフォローして下さります」
「…あいつ皮肉屋にみえて、根はかなりのお人好しだからな」
自席に置かれた書類の束に視線投げる。少尉も俺の視線の先を追って、同意をするように小さく笑みを浮かべた。
「そうですね。でもそれは小官だけに限ったことではないですし、それで自惚れてしまうほど自意識過剰でもないつもりです」
(俺からみればあいつが少尉に対しては特別に優しいし、気にかけているのも明白なんだけどなぁ)
今この状況でケーニッヒの好意を君に伝えたらどうなるだろうか。───駄目だ、其れを喜ぶ光景は全く湧かない。寧ろ困惑させてしまう情景しか浮かばない。彼女の場合、自分で答えを出さない限りは誰が何を言っても決して納得しないのだろう。自分に否定的で諦観が染み付いた思考も彼女自身が変わらなければどうすることも出来ない。
出来るものなら如何にかして遣りたいが、
(これ以上彼女に何かお節介を働かせるのは良くないよなぁ…)
『こりゃ難儀だ』という顔を隠そうともせず黙り込んで考え巡らせていたところを心配そうな表情をした少尉と『ばちり』と目が合う。驚いて上半身を後ろに反らせるといつの間にか俺の直ぐ隣に来ている。彼女が俺の表情を覗き込むように身体と首を傾げて口を開いた。
「不躾ですみません。小官が変なことを言うものですから、中尉殿を困らせてしまったのかと…」
「いや、そうではないんだ。………一緒に答えを出せてやれそうに無くてごめんな」
「いえ、そんなことおっしゃらないで下さい。わたし…、小官の方こそ誰かに話せて胸の痞えが下りました…とまでは云いませんが、少し楽になった気がします。聞いて下さってありがとうございます、中尉殿」
『嗚呼、中尉殿に話せたら何だか凄く眠くなってきてしまいました。やはり一足先に上がらせて頂きますね、こちらもありがとうございました』彼女は言早にそう言うと丁寧に畳んだブランケットを手渡して帰る支度をする。
「待った少尉、宿舎まで送るから」
幾ら優秀な魔導師と云えども年頃の女性だ。こんな遅い時分に一人で帰すことは出来ない。
「心配要りませんよ。ライフルは無くとも自衛くらいは出来ますから」
彼女の演算宝珠が光を帯びる。指先から小さなキューブ状の術式を数個展開し、右手甲あたりで円軌道状に纏わせてみせた。
「…手加減はしてやれよ?」
王笏無しだと威力・精度は落ちるというがあの大きさでも脅威なのは間違い無い。
「まさか。あくまで灯りと威嚇用ですよ」
お道化るように手をあげて纏った術式を収束させた。
「とんだお嬢さんだな全く…。くれぐれも相手の身体を気遣う様に」
「心得ておりますよ。ではお先に失礼致しますねノイマン中尉」
いつもより弾んだ声色で挨拶を交わし、彼女は滑る様に宿舎に戻っていった。
+++++
[1925/1/xx]
23:00
自席周りを片付け終わり、窓の戸締りを確認する為に椅子から立ち上がる。溜め込んだ書類は二人のおかげで綺麗さっぱりと無くなった。腕時計で時刻を確かめて、日付を跨ぐことが無くて良かったなぁと湧き上がる安堵感と爽快感。デスクワークで凝り固まった身体を解そうとゆっくり伸びをする。明日が休養日であれば今の時間からでもアルコールを入れたかったのだが、生憎明日は第三中隊が中心の休み番だったかと、頭の中のスケジュールを再確認する。第二中隊は朝早くから他部隊との合同訓練の予定が組まれていることを思い出してベルイマン少尉に遅くまで負担掛けてしまったことを少し後悔した。もっと早くに帰してあげられれば良かったんだけど、まぁあのタイミングじゃ宿舎に戻るにも戻れなかっただろうな。
あいつと一緒じゃ気不味かっただろうし。
「だろ、ケーニッヒ?」
静かな廊下に向かって話し掛ける。
執務室の扉が開き、随分前に宿舎へ戻ったはずの同僚の姿がそこにはあった。
「耳が良いなお前は」
「そりゃあ、扉の前で足音が途絶えれば誰でも気が付くだろ。こんな遅くに忘れ物でも取りに来たのか」
「そんなところだ」
「…少尉ならもうあがらせたよ」
「そうか」
彼は事務デスク前に腰掛けて何をするでもなく頬杖をついた。
(案外分かり易い男だよお前も)
視線は先程まで少尉が作業していた長机に向いている。少尉の様子が気になって仕方が無かったのだろう。俺の前ではこうもあからさまな態度をとる割りに、好いた女に対してはあんなにも余裕が無いなんて。
(相手があのベルイマン少尉だから、ということもあるかもしれないけれど)
先のベルイマン少尉の様子を思い出す。
あんなにも彼女の心を掻き乱しておいて、本人はまるで無自覚ときた。二人の事情を知った今、どちらか一方に肩入れするつもりは無かったが、彼女への好意を自覚しているケーニッヒが此のようにどっちつかずの態度を取り続けるのでは幾ら何でも彼女が可哀想に思えた。
「お前、少尉に何かしただろ」
「は、急に何を言うかと思えば」
「心当たりがないなら別に良いけどよ。この前の休養日明けから少尉の様子が少しおかしいと思わなかったか。お前だって気が付いているだろ?」
「…どうだろうな」
ここ数日、ケーニッヒの前で僅かに動揺したり何かと言い淀んでいる少尉がずっと気懸かりだった。上手に嘘を付ける訳でも無い癖に、それでもまたいつものように笑って何でも無いように誤魔化そうとする。彼女の事情を知ってしまった以上は、あの表情が痛々しく感じられてこれ以上見ていられそうに無い。
「『要らん事言って余計な負担を掛けたく無い』だっけ?何もしてないならそれでも良いさ。けどもし仮に、少尉のあの態度が、お前に原因があるのだとしたらこの先もずっと続くぞ。………それでも良いのか」
彼は表情を険しくして押し黙った。
沈黙に逃げ込むのは結構だが此処で思考を止めて貰っては困る。
「どうしたいかはお前自身で決めろ。言葉で伝え切れないなら何か理由を付けて物を渡すもありだ」
助け船は出した。
第三者がこれ以上お節介を焼くのは終わりにしよう。黙然と座っているケーニッヒを置いて執務室を後にする。
───やっぱり心当たりがあるんじゃないか。
「さっさと指輪でも渡しちまえば良いのに」
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[1925/1/xx]
23:30
街灯照明がカーテン越しに部屋の中を薄暗く照らしている。目蓋越しに感じる僅かな光量を鬱陶しく思いながら、中々寝付けない身体で何度も寝返りを打った。恋愛という意味であの方を好きなのかと問われれば自分でも良く分からなかった。ノイマン中尉にそう伝えたのは嘘では無い。殊に人間関係に関して、交流も経験も何もかも乏しい自分にとってはあの方に向ける感情に名前をつけるのが酷く恐ろしく思えた。今の私にとって彼に向ける其れは『親愛』と呼ぶのが限界であった。仮に此の感情が『恋慕』だとしても彼にこの想いを告げるつもりは毛頭無い。何の為に航空魔導兵科に転属願いを出してここまで来たと思っている。───家族の期待を裏切ってまでして。
第一、こんな自分から妙な感情を向けられるなんてこと、迷惑極まりないに違いない。拒絶されるのは自明で。だから『答え』なんてもの出さなくても良いのかもしれない……其の考えが頭を過ると同時に、『どくり』、心臓が大きく波打った。
寝返りを打って枕に顔を埋める。
血管が拡張し、どくどくと脈打つ感覚が鼓膜を震わせる。
考えたくない。
このまま考え続けていたらいつかきっと『答え』に辿り着いてしまうのだろう。
早く眠りに付きたいのに鼓動が煩くて仕方無い。纏まらない思考も此の感情に名前を付けたがっている。
薄暗い部屋にいるこの状況も妙に落ち着かなくて、カーテン越しに差す街灯の明かりを強く憎むことしか出来なかった。
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[1925/1/xx +1]
15:30
「少尉、少し時間貰えるか」
訓練から一足先に帰投したベルイマン少尉を捕まえる。訓練疲れによるものか、顔色が普段よりも幾分も悪いように映った。
「ケーニッヒ中尉…如何されました?本日は休養日のはずでは…?」
「今し方戻ったところだ」
コートを脇に抱え、首元を緩めて着崩す。この姿で宿舎の廊下に長居するするつもりはなかった。本当は軍服に着替えてから時間を見つけて彼女に声をかける算段で戻ってきたのだが、白銀色の長い髪を見掛けてつい引き留めてしまう。日中のこの時分の宿舎は隊員の行き来は少ないが、訓練を終えた第二中隊の面々も直に此方にやってくるだろう。
余り時間は残されていない。
「.......これを」
彼女の右手を引いてチャコールグリーン色のベストから取り出した其れをそのまま彼女に握らせる。疲労の色がみえる身体と思考のせいで、俺の意図を上手く飲み込めないのか困惑した表情を隠そうともせず、俺の顔と自分の握らせた右手を交互に見比べている。
再び彼女の右手を引く。
今度は胸の高さまで持っていき、包みを解くように其の細い指を開かせた。
雫の形を模ったペンダントが姿を現す。
長いチェーンがさらりと、か細い音を立てて白い指の隙間から零れ落ちた。
「ペンダントでありますか、女性ものの」
手のひらに置かれたペンダントをじっと眺めた。
雫型に縁取られたペンダントトップには深緑色のステンドグラスが嵌め込まれ、それを覆うように細やかな銀細工が施されており、窓から差す日射しが当たってきらきらと光った。
「───綺麗ですね」
息を漏らすように小さく呟く。
疲労と困惑の表情が弛緩して手のひらの其れを暫し眺めた後、意を決したような表情の彼女と視線が絡む。
「中尉殿、申し訳ありませんがこれは小官の所持品ではな……」
「───違うんだ」
彼女の言葉を途中で遮りそのまま続けて話す。
「誰かの落とし物か何かでは無くて、───これを少尉に受け取って貰いたいんだ」
胸の高さでペンダントを持つ彼女の手を支えるように肌に触れる。
「小官に…何故でしょうか。頂く理由がわかりません」
戸惑いの色が宿り、揺れた瞳から目を逸らせずにいる。外気で冷えた彼女の身体が、更に温度を無くしていくみたいに感ぜられて、慌てて其の手を握ろうとするも関節が鈍く軋んだことに驚いてしまいそれ以上動かすことが出来なかった。
ゆっくりと瞬きをして再び視線を絡ませた彼女は、何時ものように取り繕った『あの』表情で何かを誤魔化すように笑った。
(───そんな顔させたく無かったのに中々どうして上手くいかない)
痛々しく笑う彼女の表情を見るのが堪らなく耐えられなくて、用意していた筈の言葉も、理性も、全て吹き飛ばして、ペンダントを胸の前で抱えたままの彼女を腕ごと強く引き寄せた。
「この前は、すまなかった」
抱き寄せた肩が一瞬怯えたかのように震えた。
「このまえ……?」
「無遠慮な言葉で君を傷付けてしまったことを謝りたいんだ」
例の休養日のことを漸く思い出して動揺しているのか、彼女は表情を隠すように頭を預けたまま歯切れ悪く言葉を紡ぐ。
「ああ、あれは……小官が勝手に泣き出してしまっただけのことですから、その、中尉殿が気にされることでは……」
「そうは言ってもその一因は俺にある」
「ですからお気になさらないで下さい。寧ろご迷惑をおかけしたのは小官の方ですよ」
彼女は背に回された腕を解き、半歩後退りをして身体を離した。乱れた髪と俯いて落ちた影で表情を隠している。
「『お芝居』と言われて傷付いたのは事実ではありますけど…」
そう付け加えて顔を背けた。
雪のように白い髪の隙間から覗く耳が赤く染まっている。
(あぁ、そこを根に持っているのか)
彼女にとってあれは黒歴史になるらしい。
「本当にすまなかったと思っている。君にちゃんと謝りたかったんだ。だが、あの後こうして二人で話す時間も機会も無かったから、……てっきり避けられているのかと思った」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
「勘違いなら良いんだがあれから妙に余所余所しくなかったか。……昨夜とか」
「……そんなことはありませんよ」
昨夜のことを指摘して少しだけ表情が曇った彼女が気にはなったが先日の負い目もあって深く追及する気には到底なれなかった。
「それで、あの、中尉殿」
「? どうかしたか」
「中尉殿の謝意は十分に伝わりました。ですが、其れと此れでは話が別です。こちらを受け取る訳には参りません」
胸の前で抱えられたペンダントを返すように両手のひらを拡げて見せた。
一目見た時から彼女に似合うと思った。
華美ではない意匠だが落ち着いていて繊細な装飾とその隙間から覗く深緑のステンドグラスが淡く光を反射した。彼女の手のひらの上で行き場を失いかけている其れに触れる。
「……すまない。気に入らなかったか?」
「いいえ、そういう訳ではなくて…。ただ、その、……それでも頂くわけには」
彼女はペンダントから視線を外すように目を伏せ
「あー、妙なところで頑固だな君も…!!」
互いに譲らないし埒が明かない。
盛大に溜息を吐く。
彼女は俺が急に悪態を吐いたことに驚いた反動で、拡げていたペンダントをきゅっと握り込んでいる。そのまま彼女の手首をぐっ、と乱暴に掴んだ。
「これは、俺が君に渡したいんだ。気に入らないなら後で捨てて貰っても構わない。だから、どうか受け取って貰えないか。
……悪いなこの期に及んで自分勝手で」
「っいえ、いいえ!捨てるなんてとんでも無いです!!とても、嬉しいんです。大切に致します。………ありがとうございます、中尉殿」
俺の勢いに気圧されてたのか先程まで遠慮しい言葉はなりを潜め、捲し立てるように謝意を口にした。胸の高さでそっと抱えたままお辞儀をして、再び上体を起こした彼女と視線がかち合う。へらりと気の抜けた表情に釣られて口元が緩んでしまう。
散々余裕の無いところを晒しておいて、今更格好も何も付かないことも承知の上で、右手で口元を覆い隠し彼女から顔を逸らした。
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