幼女戦記(名前変換)
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「出来ません」
「…どうして」
「子供が出来たから責任を取るとおっしゃっているのでしょうが必要ありません。そのお気持ちだけで結構ですから」
視線が通わぬよう俯くサガは声の輪郭を削ぎ落とすようにして言葉を絞り出す。掠れた其の声はケーニッヒに応えたというよりも、胸の底に溜まった重苦しい感情が隙間から漏れ出たかのようであった。
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一夜明けて、正式に中央への転属命令が下った其の日、既に荷物を纏め終えて迎えの車が来るまでの間サガは自室に籠っていた。別れを惜しむ同僚達にも体調が芳しくないと理由を付けて独りにして貰い、寝台に腰を掛けて何をするでもなく俯いた視線を床に向けて過ごす。時折不意に溢れてしまう涙はそのまま滴り落ちて軍服に染みを作っていくが、腫れた目元を拭う気力も湧かず、頬には流れる涙の
コンコンと訪問を告げる乾いた音がして、サガは気怠げに音のした方向へ顔を向けた。
迎えの車が来る時間にはまだ早い。今度は先程よりもゆっくりとしたテンポで再び木製扉がノックされる音がして、「…ヴィーシャ?」と自身の口から自然と同僚の名前が漏れる。普段であれば然して厚くない扉の向こうから近付く軍靴の音で人物を特定することも出来たけれども、ノックされるまで気配も気付かぬ程に意識も感覚も磨り減っていたのだろう。扉の向こうから「サガ」と遠慮がちに名前を呼ぶ声がして、其の声に安堵と後ろめたいと思う二つ感情が同時に湧き上がる。ヴィーシャには以前から気付かれていたかもしれないが、大隊長経由で彼女と副長には此度の離隊理由が伝わっていた。
名を呼んだ手前今更無視する訳にも行かず、サガは鉛のように重い足取りでドアに歩み寄りノブを回す。視線を足元へと落としたまま静かに扉を開くと、サガの落ちた視界にはヴィーシャの足元と其の一歩後ろにもう一組の軍靴が飛び込んできた。
乾いた蝶番の音が廊下と部屋に自棄に重たく響く。
「お節介してごめん」
顔を見る間も待たず突然の謝罪の言葉を告げられ、サガは視線をゆっくりと上へと這わせた。次いでヴィーシャの表情、そして彼女の一歩に後ろに立つ人物を視認したサガはそこで状況を理解する。不思議と怒りの感情も失望の感情も湧かなかった。「ううん、いいよ」と返した言葉もそこに乗せた感情も嘘ではない。寧ろ彼女には辛い役回りをさせる形になってしまったと謝りたいくらいだった。元はといえば彼に向き合わぬまま部隊を去ろうとした自分に責がある。
「二人で話がしたい」
向けられた男の言葉に、サガは喉の奥まで込み上げてきた愛おしさと切なさに蓋をするように静かに目を伏せる。此れで最後にしなければ、と固く心に決めて彼に部屋の中へ入るよう促した。
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「出来ません」
「…どうして」
「子供が出来たから責任を取るとおっしゃっているのでしょうが必要ありません。そのお気持ちだけで結構ですから」
視線が通わぬよう俯くサガは声の輪郭を削ぎ落とすようにして言葉を絞り出す。掠れた其の声はケーニッヒに応えたというよりも、胸の底に溜まった重苦しい感情が隙間から漏れ出たかのようだった。
愛する者と結ばれる為に必要な一枚の書類を、そうして得られる繋がりを、嬉しくないと思う日が来るなんて想像もしなかった。目の前の書類を此の場で破り捨ててしまえば彼は諦めてくれるだろうか。
こんなに拗れてしまう前は淡い夢を抱いたこともあった。でも帝国の立ち位置と世界情勢は其れを許さない。───許されない情勢下であったから、互いの想いを通わせるだけでこの上なく幸せだったのに。何で、今更。
「順序が逆なのは
「そうと理解っていながらどうして」
「…大事なんだ、サガが」
ケーニッヒは自分でも驚くほど惨めで、情けない程に低く掠れた声を吐いた。喉の奥をむりやり引き裂いて絞り出した言葉は、気障な台詞でも洗練された愛の言葉でもなく、あまりにも泥臭く生々しい本音だった。
軍人としての理性も彼女の意思を尊重したい思いも理解していながら、其れ以上にサガを喪うことが何よりも恐ろしかった。戦場で誰か一人を想うことなど狂気の沙汰だと最初から理解っていた筈だったのに愛してしまった。そのことを後悔するつもりはないけれど、いつか訪れる現実の予兆のように毎夜毎夜と心を削り取っていく感覚に蝕まれ、絶望の深さが底なしに広がっていく。
(近くに居れることがこんなにも苦しいだなんて)
仮にサガ自身が戦闘による負傷離脱で前線から離れることになったとしても、自身の治癒術式を行使出来るまでに回復すれば直ぐにでも部隊復帰を果たすであろう。高度な治癒術式を持つ彼女の場合、戦死若しくは脳に障害が遺る負傷以外は退役すら現実的ではない。元衛生魔導師としての経歴から後方で切望される人材であるにしても、参謀本部直下の魔導師を後方に留め置く理由にはならなかった。だから戦傷による一時的な後方送りでは意味がない。そこには前線に留まれぬ事由が必要だった。
サガの意に沿わぬ強行した身勝手な賭けを、ケーニッヒの残りの人生を贖罪に充てると誓う。其れを果たす為には自分と彼女を繋ぐ確かなものがなければならない。用意したたった一枚の紙切れで交わされる制約は、互いを繋ぎ留める為の唯一の手段であった。
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「これ以上重荷になるのは嫌です」
「重荷だなんて思ったこと一度もない」
この人は『一度も無かった』と過去形にしてもくれないんだ、と言葉遊びにすらならないことを考えてサガは胸が重くなった。私は諦めようとしているのに、彼はどうしてこんなにも拘ろうとするのだろう。仮にもし赦しが欲しいのであれば懺悔室に向かわれた方が幾分も救われるのではないか、と彼に応えられない自分を俯瞰しながらそう思った。
「サガとの繋がりが欲しい。以前からずっとそう思っていた。そしてこれから先も、だ」
「…身勝手が過ぎませんか」
するりと口から出た言葉は紛れもなくサガの本心から滑り落ちたものだった。其れに続くように留めていた感情は堰を切ったように溢れていく。
「迎えに行くことも会いに来て下さることも許されず、ただ待てと?私がどんな思いでこの決断をしたのかご理解頂けませんか」
ここまでに諦めなければいけないことが山程あった。父と決別してまで選んだこの道で、祖国に殉じるその日まで消耗せんと命を賭して戦い続けて、…それがこんな形で後方送りに為らざるを得ないなんて。前線から離れ安全な後方へと送られる───普通なら誰もが望むはずの安寧が、サガには死刑宣告と同義だった。一士官に過ぎぬ立場でこの国の未来を語る資格はないけれど、祖国の現状を楽観出来る程鈍麻ではいられない。私だけが温かな場所へ逃げ延びる。部隊の皆を血と硝煙の渦中に置き去りにして。
子を宿したことに絶望している訳ではない。寧ろ独りで守り抜くと心に決めてからは後悔なく受け止められた。仮にもし彼が傍に居て支えてくれるなら其れは最も望む形ではあるけれども、彼が前線に身を置き続ける限り、次に生きて再会出来る保障は何処にもない。不確定な未来にすがり心を磨り減らして生きていくよりも、全部過去にしてしまった方が幾らかマシだった。
「ここに名前を書いてしまえば、私は、…貴方に会えないことを恨んでしまう。それに、こんな形で離れたくなかった」
「恨んでくれて構わないから」
「一生赦しません。───こうして話すことも今日が最後かもしれないなんてあんまりじゃないですか」
「最後にしない、と言い切れなくてすまない」
其の言葉があまりにも誠実で、そしてあまりにも残酷だった。嘘でも良いから『また会える』と笑って欲しい気持ちと、気休めの希望を吐いて欲しくない気持ちが混在して、自身の内に起こる感情の波を上手く受け止められずにいる。喉の奥が焼けつくように熱く、必死に押し殺した息が途切れ途切れに漏れた。
視界が涙で滲み白い紙の上に印字された書類の文字が歪んでいく。
「……狡いです、貴方は」
ケーニッヒは戦場に留まりサガは安全な場所へ送られる。ケーニッヒが強行した賭けは彼の望んだ通りの結果となり、サガは二度と兵士として前線に戻ることは出来なくなった。
震える手でペンを握り締めると、黒いインクがぽとりと紙の上に小さな染みを作る。サガは黒い染みを眺めながら、以前彼から告げられた言葉を思い出していた。
『最期まで傍に居て遣れないかもしれない』
想い通わせた彼の日、彼が言った『さいご』とは、どちらか一方が先にヴァルハラへ旅立つことではなく、サガがひとり前線を離れて彼の死に目には立ち会えないと
署名欄に落とす自分の名前を書き進めながら、確かな繋がりを約束する書面である筈なのに一文字刻むごとに彼との未来が遠のいていくように感じて、添えていた左手に無意識に力が入る。
指先に籠った力がくしゃりと音を立てて紙面に皺を刻んだ。サガが名前を書き終えて震える指先で静かにペンを置く。カタリ、と机に響いた小さな音があまりにも冷ややかに、二度と戻らない時間の終わりを告げた。
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