幼女戦記(名前変換)
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3. 疲れていることに気が付かない話
「───少尉、なんだか顔色悪くないか」
「え、そうでありますか?…小官の肌の色の所為じゃないでしょうか?」
体調面の不調を指摘してみたが思い当たる節が無いのか当の本人は小首を傾げている。色素の薄い白い肌。それは彼女を構成する要素の一つではあるが、『至っていつも通りですよ』そう受け答えする彼女はいつもより表情がはっきりしていない…というかどこか朧気にみえる。その程度の違和感。
「そうか、…あまり無理はするなよ」
「はい、お気遣いありがとうございます。中尉殿」
+++++++
「サガ・ベルイマン魔導少尉はおられますか」
士官食堂の一角で簡単な事務作業を片付けていると野戦医官が自分を訪ねて来た。
「どうかされました?」
「先日貴官が処置した士官の経過を診て貰えないだろうか。こちらも手が足りておらず…いま彼の経過を診れてやれる人間がいないんだ」
そういって自分に頭を下げるドクターの表情は大分疲弊している。
───先日は酷い消耗戦だった。
兵士・物資…前線の維持が危ぶまれる程逼迫した損耗。中央からの援軍と支援によって現在は兵力が保たれている状況である。重傷者は後方へ搬送することになるが、搬送自体も直ぐに対応出来る訳でなく、ある程度こちらで対処しておかねばならない。今回のように下士官を伝令に遣わずドクターが自ら要請に赴いたということは『衛生魔導師』による治療を求められていることを意味する。少なくとも明日までは補給が望めない。麻酔や包帯等の医療物資も逼迫している。
「──そそういうことでしたら構いませんよ。早い方が良いですね。今からでも宜しいですか」
テーブルに広げていた書類を掻き集め、ダブルクリップで纏めあげて脇に抱える。
「ああ、すまない。───本当に助かるよ。」
このドクターも碌に休息とれていないのだろう。あれだけの負傷者に対して配置される医療従事者が少なすぎる。看護兵の補充はある程度何とかなるが、ドクターは何処も人手不足だった。医療物資の削減と劇的な回復を可能とする衛生魔導師は前線に配置してこそ其の存在を存分に発揮出来るものの、対外戦況と育成コストの面で帝国内でも数は極めて少ない。魔導師の軍事運用について周辺国よりも頭一つ抜けている帝国ではあるが、戦時においては兵科運用が重視され、嘗て秀でていた医療分野に関しても今は低退しているのが現状であった。
そもそも非戦闘員である『衛生魔導師』を十分に確保出来る程に戦況が優勢であったなら、促成課程の魔導士官をライン戦線に投入することなどしないだろう。
(―――航空魔導兵科に転科したことに後悔はないけども『衛生魔導師』として拠点に残っていたら、こんな状況もどうにか出来たのでしょうか)
先日診た士官も処置に留めずに全力で治療にあたっていれば、今頃は前線復帰を可能とする回復に至っていた筈だった。
しかし、いつ出動がかかるかもわからない遊撃魔導大隊に籍を置く自分は治癒術式で消費する魔力量には制限をかけなければならない。航空魔導師の本分で使い物にならなくなっては本末転倒だからだ。
衛生魔導師としての自分を捨てたことに未練はない。
自分でそう生きると決めたはずだった。
それを今更反芻することになるとは。
未だに自己消化出来ていない自分に嫌悪して眩暈がする。ああ嫌だこんな時に限って下腹部からもズキズキと鈍い痛みを主張してくる。
脇腹に右手を置き、軍服の上から腹部をぎゅっと抑えた。
(…どうしようもない、半端者)
救護テントに向かう道程で、隣を歩くドクターに気付かれないよう自嘲した。
+++++++
「サガ・ベルイマン少尉、入ります」
ドクターから受けた要請治療を終え、その足で上官等の執務用天幕に赴く。執務用天幕には中隊長三名が各々の書類を片付けていた。デグレチャフ少佐殿抜きで彼らがこの場所に揃うのは割と珍しい光景だなと思いながら、直属の上官の元へ向かう。
「ヴァイス中尉、本日頼まれた件の報告がございますがお時間宜しいでしょうか」
「ああ、随分と早いな」
「───武器装備と他消耗品に関しては新たに要望が多いものが複数ありましたので用途も含め報告に纏めてあります。
それと少数意見ではありますが、支給物資の中に加えて頂きたいものが何点かございまして…」
手書きの報告書とは別に走り書きのメモ用紙をヴァイス中尉に差し出す。メモに書かれた文字列を目で追う彼を眺めていると、僅かに表情が強張ったようにみえた。見間違いかもしれない程の一瞬の出来事であったけれど。
「…これとこれはどうだろうな、補給物資としては難しいだろうな」
要望支給物資の項目の幾つかをペンで差し、難色を示す。
「そうでありますか。ではこちらを除いた内容で書面に致します」
「そうだな、空いている席で作成に取り掛かってくれたまえ」
「了解致しました」
こちらのタイプライターお借りしますね、と一声かけて作業に執り掛かる。
「いやぁ、優秀な部下をお持ちのヴァイス中尉殿は幸せ者でありますなぁ」
書類仕事に勤しんでいたノイマン中尉が椅子を傾けながらこちらを見やる。
「大分助けられているよ」
「あら、褒めても何も出ませんよ」
「是非うちの第四中隊にお借りしたいよ」
「ははは。それは俺が困るな」
「ノイマン、お前は早くその書類を片付けたらどうだ。さっきから手が止まっているぞ」
「あー…すまんケーニッヒ。…手伝ってくれ」
「お前な…」
ケーニッヒ中尉は呆れ顔でノイマン中尉見咎めるが、そう言いつつも彼はノイマン中尉の隣の席に腰を下ろし、机上の種類の束をいくつか攫っていった。同僚に対しては斜に構えた態度をとっている彼は他人より何倍も周りがみえているし、視野が広い分余裕を持っている。
(私も彼にようにゆとりを持てるようになれば良いのだけれど)
ああ嫌だ。またこうして自己嫌悪に浸ってしまう。
今ここで優先しなければならないのは目の前の書類だ。先程までうだうだと悩んでいた思考を無理矢理振り払う。時折他愛もない言葉を交わす中尉達から視線を外して一人タイプライターに向かった。
+++++++
「あがりましたヴァイス中尉。お時間あるときにお目通しをお願い致します」
会話に参加せず黙々と作業を熟していたベルイマン少尉が席を立つ。
彼女が副長の細々した事務作業を手伝う様になってから気が付いたことがある。
二人は仕事の相性がすこぶる良い。
ベルイマン少尉を第二中隊所属に配置したのは紛れもないデグレチャフ少佐であるが、セレブリャコーフ少尉のような副官業務に近いことをベルイマン少尉にさせているのをみると、デグレチャフ少佐は『この先の事』を考えて人を動かしているような気がしてならなかった。彼女がヴァイス中尉に声を掛けるタイミング、今までも彼の作業の進捗具合を見計らっていたのは違い無かったし、ヴァイス中尉もヴァイス中尉で彼女の処理速度を把握して作業を振り分けている。
(二人の関係が少しばかり羨ましく感じるのは気のせいだと思いたい)
この二〇三大隊の皆のことは大事な仲間であると思っている。その中でベルイマン少尉に対しては少しばかり違う感情を抱いていることにも気が付いていた。これは庇護欲とでもいうのだろうか。彼女が時折見せるいとけない表情がまた見たいと思うこの感情は。女性に対して肉欲に直結しない感情を持て余すのが久方振り過ぎて調子が狂う。彼女が野郎と親しくしているのをみても独占欲や嫉妬の感情は今のところ湧いてこない。
出来上がった報告書についての遣り取りをする二人をぼんやり眺めていると、ヴァイス中尉の顔が急に強張ったことに気を取られる。
「ヴァイス中尉?もしかして不備がありましたでしょうか」
「…そうじゃない!少尉、出血しているの気付いていないのか?」
『…?』紙を掠めたベルイマン少尉白い指先から血が滲み始めている。どうやら今しがたのやり取りで傷つけてしまったらしい。当の少尉は何を言われているのかまだ理解できていないのか、きょとんとした顔でヴァイス中尉をみつめている。紙にしては相当深く切れたらしく、血が直ぐに玉のようになり指を伝い滴っていく。ベルイマン少尉は患部に視線を落とし、漸く自分の状況を認識した。
『、ぱたっ』
音を立てて滴が落ちる。
それは指先からではなく、
彼女の緋い瞳から透明な滴が零れ落ちた音だった。
「 え 、 」
急に涙を流したベルイマン少尉に幹部一同驚きを隠せない。
だが、この場で一番驚いているのは泣いている彼女自身だった。堰を切ったように、はらはらと流れる涙は一向に止まる様子がない。
「あれ、おかしいですね、わたし。
こんなの、全然痛くないのに」
ごしごしと袖口で涙を拭い払うが目元が擦れて赤くなるだけで彼女の涙は一向に止まらなかった。
「少尉、それ以上擦るな。とりあえず止血を…」
ベルイマン少尉の元へ駆け寄って彼女の切った方の右手首捉え目元を擦るのを辞めさせようとする。彼女は泣いている様を見られるのが嫌なのか前腕で顔面を隠そうともがいた。
「騒がしいぞ、何事だ」
隣の天幕で騒ぎを察知したデグレチャフ少佐がこちらの天幕に足を踏み入れた。
「なんだ大の男が寄って集って、……少尉、何をされた」
状況を俯瞰した上官の視線が鋭さを増す。デグレチャフ少佐の目に映るのは、中尉連中三名に囲まれてその中心で涙を流し、片腕を抑えられている女性士官の図だった。
「違うのです、少佐殿」
慌てて訂正をいれたのはベルイマン少尉だった。
「小官が紙で指を切ってしまっただけですわ。中尉殿には何もされておりませんし、逆にご心配をして下さったのです」
流れる涙は先程よりも治まりつつあるが、それでも眼の内に涙を溜めて零れ落ちそうになるのを懸命に堪えていた。デグレチャフ少佐は『はあ』と溜息を一つ溢すとベルイマン少尉に歩み寄り、俯いた少尉の顔を下から見上げるように覗き込む。表情を覗かれた少尉は肩をびくっと震わせた。
「少尉、貴官顔色が優れないな。今日はもう休め」
「、っいえ、大丈夫です」
「貴様自分の不調が分からんというのか。それとも救護所でドクターに診て貰うか?衛生魔導士官でもあった貴様がか?」
『みなまで云わせるなよ少尉』
デグレチャフ少佐は声量を抑えて最後に一言そう付け加えた。
「…承知いたしました。少佐殿。
ヴァイス中尉、作業の途中で申し訳ありませんが今日はお先に休ませて頂きます」
デグレチャフ少佐の最後の念押しが効いたのかベルイマン少尉は大人しく彼女に従った。
「ケーニッヒ中尉、ノイマン中尉もご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
デグレチャフ少佐を含め、執務用天幕にいる上官等に深々とお辞儀をしてこちらを後にする。
宿舎に戻るまでの間、擦れ違う兵士からの視線に晒されながらふらふらとした足取りで歩を進めた。
+++++++
ベルイマン少尉が退室した後、デグレチャフ少佐は少尉の居た席に腰をかける。
「…大分疲弊していた。過労と貧血症状。肉体につられて精神的にも不安定になっていたのであろう」
「過労と貧血…でありますか」
ヴァイス中尉がデグレチャフ少佐の言葉を反芻する。
「横になれば幾分か楽になるだろうさ。心配いらんよ。ここにあるベルイマン少尉の書類は急ぎではないのだろう?」
少佐は机上にあった要望支給物資のメモに目を通す。側に転がるペンを執り、斜線の引かれた文字を囲むように丸をつけた。
「これは支給物資に加えておけ」
ヴァイス中尉に紙切れを渡す。傍にいたノイマンと共にそのメモを覗き込むように視線を落とした。デグレチャフ少佐が上書いた項目、『Oral Contraceptives』───所謂、経口避妊薬。男連中にとっては思わずぎょっとする文字列。ヴァイス中尉が先程難色を示した補給物資の内の一つであった。そんな部下の表情をみて呆れ顔を隠そうともせずデグレチャフ少佐は言葉を続ける。
「何か重大な勘違いをしているようだが、貴様らが使用するようなコンドームとは用途が違うぞ」
「…といいますと?」
はぁ、とデグレチャフ少佐は解かり易く溜息をつく。
「まだ、分からんのか痴れ者。───月経痛だよ。月経。本来であればドクターの処方が必要な代物だが我々には常にドクターが同行している訳ではないしな。衛生魔導士官としての実績があるベルイマン少尉の名があれば、支給物資として認可がおりるだろうさ」
「たまには女性を労わり給えよ男性諸君」
そう残してデグレチャフ少佐は執務用天幕を後にした。
+++++++
(───思ったよりも疲れていたんだ…)
宿舎の固いベッドに横になり痛みが引かない頭でぼんやりと思考する。先程まであった腹部の痛みはこうして身体を休めたことで幾らかはマシになった。負傷していない左手で下腹部を撫でてみてもまだ少し痛いけれど。
(少佐殿達には要らぬ心配をかけてしまいました)
横になって初めて自分の身体が疲弊していたことを認識した。それに加えて堪えていた月経痛。デグレチャフ少佐には月経痛は見抜かれてしまったし、中尉達にも伝わってしまったかもしれない。女性といえど自分は軍人なのだ。妙なところで女性扱いされるのはこちらとしても反応に困る。
(ああ嫌だ今になってすごい恥ずかしい)
この部屋には自分以外居ないのだけれども赤面した顔を覆いたくなる衝動に駆られる。恥ずかしさのあまり思わず持ち上げた止血処置を施した右手をみやる。切れた指先は血は止まっているものの、書類で結構深く切った所為で傷口が脈打つ僅かな痛みを訴えかけている。
(……?)
持ち上げた右手首に赤い痕がついている。赤くなった皮膚はひりっとした違和感程度の薄い微かな痛み。
( ああ、 これは )
先程恥ずかしくも泣いてしまい目元を擦っていた私をケーニッヒ中尉が止めて下さった、その時についた痕のようだった。手首は人の手のひらの形を残し、赤く覆われている。
こてん、と右方へ身体を寝返り打ち、顔のすぐ横に右手を置く。
右手首に遺された痕に自分の左手をそっと重ねた。
自分の手では覆いきれない赤く染まった痕。
(───中尉殿の手は随分と大きいのですね)
重ねた左手で右手首が自分の体温でじんわりと温まる。
脈打つ指先の痛みはもうない。
下腹部痛も大分和らいでいる。
痛みが緩和されて漸く眠気がおりてきたようだった。
そっと目蓋を閉じる。
(なんだか落ち着くなぁ…)
+++++++
「サガ?まだ起きてる?」
同室のセレブリャコーフ少尉が糧食トレーを抱えたまま様子を見にサガの元を訪れた。
(ありゃ、もう寝ちゃったか…)
デグレチャフ少佐に彼女の容態を聞いて心配して来てはみたが、どうやらちゃんと休めているようで思わず安堵する。
身体を横向きにして右腕を胸で抱えるように眠る彼女。
その表情はセレブリャコーフ少尉の目に酷く穏やかに映った。
「───少尉、なんだか顔色悪くないか」
「え、そうでありますか?…小官の肌の色の所為じゃないでしょうか?」
体調面の不調を指摘してみたが思い当たる節が無いのか当の本人は小首を傾げている。色素の薄い白い肌。それは彼女を構成する要素の一つではあるが、『至っていつも通りですよ』そう受け答えする彼女はいつもより表情がはっきりしていない…というかどこか朧気にみえる。その程度の違和感。
「そうか、…あまり無理はするなよ」
「はい、お気遣いありがとうございます。中尉殿」
+++++++
「サガ・ベルイマン魔導少尉はおられますか」
士官食堂の一角で簡単な事務作業を片付けていると野戦医官が自分を訪ねて来た。
「どうかされました?」
「先日貴官が処置した士官の経過を診て貰えないだろうか。こちらも手が足りておらず…いま彼の経過を診れてやれる人間がいないんだ」
そういって自分に頭を下げるドクターの表情は大分疲弊している。
───先日は酷い消耗戦だった。
兵士・物資…前線の維持が危ぶまれる程逼迫した損耗。中央からの援軍と支援によって現在は兵力が保たれている状況である。重傷者は後方へ搬送することになるが、搬送自体も直ぐに対応出来る訳でなく、ある程度こちらで対処しておかねばならない。今回のように下士官を伝令に遣わずドクターが自ら要請に赴いたということは『衛生魔導師』による治療を求められていることを意味する。少なくとも明日までは補給が望めない。麻酔や包帯等の医療物資も逼迫している。
「──そそういうことでしたら構いませんよ。早い方が良いですね。今からでも宜しいですか」
テーブルに広げていた書類を掻き集め、ダブルクリップで纏めあげて脇に抱える。
「ああ、すまない。───本当に助かるよ。」
このドクターも碌に休息とれていないのだろう。あれだけの負傷者に対して配置される医療従事者が少なすぎる。看護兵の補充はある程度何とかなるが、ドクターは何処も人手不足だった。医療物資の削減と劇的な回復を可能とする衛生魔導師は前線に配置してこそ其の存在を存分に発揮出来るものの、対外戦況と育成コストの面で帝国内でも数は極めて少ない。魔導師の軍事運用について周辺国よりも頭一つ抜けている帝国ではあるが、戦時においては兵科運用が重視され、嘗て秀でていた医療分野に関しても今は低退しているのが現状であった。
そもそも非戦闘員である『衛生魔導師』を十分に確保出来る程に戦況が優勢であったなら、促成課程の魔導士官をライン戦線に投入することなどしないだろう。
(―――航空魔導兵科に転科したことに後悔はないけども『衛生魔導師』として拠点に残っていたら、こんな状況もどうにか出来たのでしょうか)
先日診た士官も処置に留めずに全力で治療にあたっていれば、今頃は前線復帰を可能とする回復に至っていた筈だった。
しかし、いつ出動がかかるかもわからない遊撃魔導大隊に籍を置く自分は治癒術式で消費する魔力量には制限をかけなければならない。航空魔導師の本分で使い物にならなくなっては本末転倒だからだ。
衛生魔導師としての自分を捨てたことに未練はない。
自分でそう生きると決めたはずだった。
それを今更反芻することになるとは。
未だに自己消化出来ていない自分に嫌悪して眩暈がする。ああ嫌だこんな時に限って下腹部からもズキズキと鈍い痛みを主張してくる。
脇腹に右手を置き、軍服の上から腹部をぎゅっと抑えた。
(…どうしようもない、半端者)
救護テントに向かう道程で、隣を歩くドクターに気付かれないよう自嘲した。
+++++++
「サガ・ベルイマン少尉、入ります」
ドクターから受けた要請治療を終え、その足で上官等の執務用天幕に赴く。執務用天幕には中隊長三名が各々の書類を片付けていた。デグレチャフ少佐殿抜きで彼らがこの場所に揃うのは割と珍しい光景だなと思いながら、直属の上官の元へ向かう。
「ヴァイス中尉、本日頼まれた件の報告がございますがお時間宜しいでしょうか」
「ああ、随分と早いな」
「───武器装備と他消耗品に関しては新たに要望が多いものが複数ありましたので用途も含め報告に纏めてあります。
それと少数意見ではありますが、支給物資の中に加えて頂きたいものが何点かございまして…」
手書きの報告書とは別に走り書きのメモ用紙をヴァイス中尉に差し出す。メモに書かれた文字列を目で追う彼を眺めていると、僅かに表情が強張ったようにみえた。見間違いかもしれない程の一瞬の出来事であったけれど。
「…これとこれはどうだろうな、補給物資としては難しいだろうな」
要望支給物資の項目の幾つかをペンで差し、難色を示す。
「そうでありますか。ではこちらを除いた内容で書面に致します」
「そうだな、空いている席で作成に取り掛かってくれたまえ」
「了解致しました」
こちらのタイプライターお借りしますね、と一声かけて作業に執り掛かる。
「いやぁ、優秀な部下をお持ちのヴァイス中尉殿は幸せ者でありますなぁ」
書類仕事に勤しんでいたノイマン中尉が椅子を傾けながらこちらを見やる。
「大分助けられているよ」
「あら、褒めても何も出ませんよ」
「是非うちの第四中隊にお借りしたいよ」
「ははは。それは俺が困るな」
「ノイマン、お前は早くその書類を片付けたらどうだ。さっきから手が止まっているぞ」
「あー…すまんケーニッヒ。…手伝ってくれ」
「お前な…」
ケーニッヒ中尉は呆れ顔でノイマン中尉見咎めるが、そう言いつつも彼はノイマン中尉の隣の席に腰を下ろし、机上の種類の束をいくつか攫っていった。同僚に対しては斜に構えた態度をとっている彼は他人より何倍も周りがみえているし、視野が広い分余裕を持っている。
(私も彼にようにゆとりを持てるようになれば良いのだけれど)
ああ嫌だ。またこうして自己嫌悪に浸ってしまう。
今ここで優先しなければならないのは目の前の書類だ。先程までうだうだと悩んでいた思考を無理矢理振り払う。時折他愛もない言葉を交わす中尉達から視線を外して一人タイプライターに向かった。
+++++++
「あがりましたヴァイス中尉。お時間あるときにお目通しをお願い致します」
会話に参加せず黙々と作業を熟していたベルイマン少尉が席を立つ。
彼女が副長の細々した事務作業を手伝う様になってから気が付いたことがある。
二人は仕事の相性がすこぶる良い。
ベルイマン少尉を第二中隊所属に配置したのは紛れもないデグレチャフ少佐であるが、セレブリャコーフ少尉のような副官業務に近いことをベルイマン少尉にさせているのをみると、デグレチャフ少佐は『この先の事』を考えて人を動かしているような気がしてならなかった。彼女がヴァイス中尉に声を掛けるタイミング、今までも彼の作業の進捗具合を見計らっていたのは違い無かったし、ヴァイス中尉もヴァイス中尉で彼女の処理速度を把握して作業を振り分けている。
(二人の関係が少しばかり羨ましく感じるのは気のせいだと思いたい)
この二〇三大隊の皆のことは大事な仲間であると思っている。その中でベルイマン少尉に対しては少しばかり違う感情を抱いていることにも気が付いていた。これは庇護欲とでもいうのだろうか。彼女が時折見せるいとけない表情がまた見たいと思うこの感情は。女性に対して肉欲に直結しない感情を持て余すのが久方振り過ぎて調子が狂う。彼女が野郎と親しくしているのをみても独占欲や嫉妬の感情は今のところ湧いてこない。
出来上がった報告書についての遣り取りをする二人をぼんやり眺めていると、ヴァイス中尉の顔が急に強張ったことに気を取られる。
「ヴァイス中尉?もしかして不備がありましたでしょうか」
「…そうじゃない!少尉、出血しているの気付いていないのか?」
『…?』紙を掠めたベルイマン少尉白い指先から血が滲み始めている。どうやら今しがたのやり取りで傷つけてしまったらしい。当の少尉は何を言われているのかまだ理解できていないのか、きょとんとした顔でヴァイス中尉をみつめている。紙にしては相当深く切れたらしく、血が直ぐに玉のようになり指を伝い滴っていく。ベルイマン少尉は患部に視線を落とし、漸く自分の状況を認識した。
『、ぱたっ』
音を立てて滴が落ちる。
それは指先からではなく、
彼女の緋い瞳から透明な滴が零れ落ちた音だった。
「 え 、 」
急に涙を流したベルイマン少尉に幹部一同驚きを隠せない。
だが、この場で一番驚いているのは泣いている彼女自身だった。堰を切ったように、はらはらと流れる涙は一向に止まる様子がない。
「あれ、おかしいですね、わたし。
こんなの、全然痛くないのに」
ごしごしと袖口で涙を拭い払うが目元が擦れて赤くなるだけで彼女の涙は一向に止まらなかった。
「少尉、それ以上擦るな。とりあえず止血を…」
ベルイマン少尉の元へ駆け寄って彼女の切った方の右手首捉え目元を擦るのを辞めさせようとする。彼女は泣いている様を見られるのが嫌なのか前腕で顔面を隠そうともがいた。
「騒がしいぞ、何事だ」
隣の天幕で騒ぎを察知したデグレチャフ少佐がこちらの天幕に足を踏み入れた。
「なんだ大の男が寄って集って、……少尉、何をされた」
状況を俯瞰した上官の視線が鋭さを増す。デグレチャフ少佐の目に映るのは、中尉連中三名に囲まれてその中心で涙を流し、片腕を抑えられている女性士官の図だった。
「違うのです、少佐殿」
慌てて訂正をいれたのはベルイマン少尉だった。
「小官が紙で指を切ってしまっただけですわ。中尉殿には何もされておりませんし、逆にご心配をして下さったのです」
流れる涙は先程よりも治まりつつあるが、それでも眼の内に涙を溜めて零れ落ちそうになるのを懸命に堪えていた。デグレチャフ少佐は『はあ』と溜息を一つ溢すとベルイマン少尉に歩み寄り、俯いた少尉の顔を下から見上げるように覗き込む。表情を覗かれた少尉は肩をびくっと震わせた。
「少尉、貴官顔色が優れないな。今日はもう休め」
「、っいえ、大丈夫です」
「貴様自分の不調が分からんというのか。それとも救護所でドクターに診て貰うか?衛生魔導士官でもあった貴様がか?」
『みなまで云わせるなよ少尉』
デグレチャフ少佐は声量を抑えて最後に一言そう付け加えた。
「…承知いたしました。少佐殿。
ヴァイス中尉、作業の途中で申し訳ありませんが今日はお先に休ませて頂きます」
デグレチャフ少佐の最後の念押しが効いたのかベルイマン少尉は大人しく彼女に従った。
「ケーニッヒ中尉、ノイマン中尉もご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
デグレチャフ少佐を含め、執務用天幕にいる上官等に深々とお辞儀をしてこちらを後にする。
宿舎に戻るまでの間、擦れ違う兵士からの視線に晒されながらふらふらとした足取りで歩を進めた。
+++++++
ベルイマン少尉が退室した後、デグレチャフ少佐は少尉の居た席に腰をかける。
「…大分疲弊していた。過労と貧血症状。肉体につられて精神的にも不安定になっていたのであろう」
「過労と貧血…でありますか」
ヴァイス中尉がデグレチャフ少佐の言葉を反芻する。
「横になれば幾分か楽になるだろうさ。心配いらんよ。ここにあるベルイマン少尉の書類は急ぎではないのだろう?」
少佐は机上にあった要望支給物資のメモに目を通す。側に転がるペンを執り、斜線の引かれた文字を囲むように丸をつけた。
「これは支給物資に加えておけ」
ヴァイス中尉に紙切れを渡す。傍にいたノイマンと共にそのメモを覗き込むように視線を落とした。デグレチャフ少佐が上書いた項目、『Oral Contraceptives』───所謂、経口避妊薬。男連中にとっては思わずぎょっとする文字列。ヴァイス中尉が先程難色を示した補給物資の内の一つであった。そんな部下の表情をみて呆れ顔を隠そうともせずデグレチャフ少佐は言葉を続ける。
「何か重大な勘違いをしているようだが、貴様らが使用するようなコンドームとは用途が違うぞ」
「…といいますと?」
はぁ、とデグレチャフ少佐は解かり易く溜息をつく。
「まだ、分からんのか痴れ者。───月経痛だよ。月経。本来であればドクターの処方が必要な代物だが我々には常にドクターが同行している訳ではないしな。衛生魔導士官としての実績があるベルイマン少尉の名があれば、支給物資として認可がおりるだろうさ」
「たまには女性を労わり給えよ男性諸君」
そう残してデグレチャフ少佐は執務用天幕を後にした。
+++++++
(───思ったよりも疲れていたんだ…)
宿舎の固いベッドに横になり痛みが引かない頭でぼんやりと思考する。先程まであった腹部の痛みはこうして身体を休めたことで幾らかはマシになった。負傷していない左手で下腹部を撫でてみてもまだ少し痛いけれど。
(少佐殿達には要らぬ心配をかけてしまいました)
横になって初めて自分の身体が疲弊していたことを認識した。それに加えて堪えていた月経痛。デグレチャフ少佐には月経痛は見抜かれてしまったし、中尉達にも伝わってしまったかもしれない。女性といえど自分は軍人なのだ。妙なところで女性扱いされるのはこちらとしても反応に困る。
(ああ嫌だ今になってすごい恥ずかしい)
この部屋には自分以外居ないのだけれども赤面した顔を覆いたくなる衝動に駆られる。恥ずかしさのあまり思わず持ち上げた止血処置を施した右手をみやる。切れた指先は血は止まっているものの、書類で結構深く切った所為で傷口が脈打つ僅かな痛みを訴えかけている。
(……?)
持ち上げた右手首に赤い痕がついている。赤くなった皮膚はひりっとした違和感程度の薄い微かな痛み。
( ああ、 これは )
先程恥ずかしくも泣いてしまい目元を擦っていた私をケーニッヒ中尉が止めて下さった、その時についた痕のようだった。手首は人の手のひらの形を残し、赤く覆われている。
こてん、と右方へ身体を寝返り打ち、顔のすぐ横に右手を置く。
右手首に遺された痕に自分の左手をそっと重ねた。
自分の手では覆いきれない赤く染まった痕。
(───中尉殿の手は随分と大きいのですね)
重ねた左手で右手首が自分の体温でじんわりと温まる。
脈打つ指先の痛みはもうない。
下腹部痛も大分和らいでいる。
痛みが緩和されて漸く眠気がおりてきたようだった。
そっと目蓋を閉じる。
(なんだか落ち着くなぁ…)
+++++++
「サガ?まだ起きてる?」
同室のセレブリャコーフ少尉が糧食トレーを抱えたまま様子を見にサガの元を訪れた。
(ありゃ、もう寝ちゃったか…)
デグレチャフ少佐に彼女の容態を聞いて心配して来てはみたが、どうやらちゃんと休めているようで思わず安堵する。
身体を横向きにして右腕を胸で抱えるように眠る彼女。
その表情はセレブリャコーフ少尉の目に酷く穏やかに映った。
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